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【総選挙2014】盛り上がらない選挙の裏で考えていること

  • 室井尚 (横浜国立大学教授)
  • 2014年12月15日

選挙に行って何の意味があるの?

毎回の選挙の度に思うのが、小選挙区制になって以降、ぼくの選んだ候補者が当選したことは一度もないという事実だ。いつも落選する候補者にしか票を入れていない。ということは、自分の投じた一票は常に無駄だったということになり、自分がこの国では少数派であることを毎回思い知らされることになる。

中選挙区制で複数の当選者が出ていた時代には、それでもある程度投票行為にも意味があるように感じられたのだが、一人しか当選者の出ない小選挙区制の下では、自分の投票に何かの意味があるとは少しも思えない。投票に行くたびに苦い思いを噛み締めているのはそのためである。

その上「民主主義=多数決」だと当然のように口にする政治家たちが多数現れてからは、多数派がスピーディに事を決めるのが民主主義だという風潮が強まり「少数派は黙っていろ」とか「気に入らないのならこの国を出て行け」というようなことを憚りもなく口にする人々すら出てきて、ますますこんな人たちが動かしている政治のことを考えても仕方がないという気分が強まる一方である。それが民主主義だと言うのなら民主主義などもういらないのだ。ただの弱肉強食ではないか?

「代表」を選ぶことなんてできるのだろうか?

次に、それではその時にぼくの選んだ(落選した)候補者のことを本当に支持できたのかというと、実はそれもほとんどないのである。たまたま自分の住んでいる小選挙区の中から既成政党に所属する候補者を一人だけ選ばなくてはならないのは実際のところ苦痛以外のなにものでもない。昔の参議院選挙の全国区があればまだしもだったのだが、小選挙区制では信頼するに足る個人の候補者が誰もいないことがほとんどで、だからいつでも消去法で選ぶことしかできないのである。比例代表制に至っては、支持政党がない上に、名簿順は各党が勝手に決めているわけだから、全く自分で人物を「選んでいる」感がない。これって本当に「選挙」なのだろうか?

したがって、現行の選挙では少なくともぼくの意見が多少なりとも国政に反映されることは絶対に起こらないわけであり、またさまざまな価値観を持つ国民の多様な「民意」が反映されているとも全く思えない。その意味で現行の選挙は単なる「手続き型合理性」の―つまりは形骸化した手続きのみで内実のない―システムであり、ただ単に選挙をしたのだから、もうこれで多数派が好きなように政治を動かしていいのだという口実を与えているにすぎない。

どうせ何の変化も起こらない?

選挙のシステムを変えれば、これを少しは改善することはできるだろう。なぜなら各種の世論調査が示しているように、政党別支持率や内閣支持率と選挙結果がいつも大幅に乖離していることは明白だからだ。民意を全く反映できない選挙システムの中では、少数派による政治活動は全く機能することができないのである。しかしながら、このシステムが都合のいい多数派はけっしてこの仕組を見直そうとはしないだろう。したがって、しばらくはこの不合理な選挙を通して政治が続いていくことになるだろうとしか思えない。そして、もしそれが変わるとしたらその時は現状の多数派が取り返しのつかないような失敗を犯した時だろうから、そのことを考えるのもまた余り楽しくはない。

だから、ぼくは敢えて投票に行かない人たちに「投票しろ」と言うつもりはない。自分が投票に行くのは、投票してたとえ必ず敗北するとしても、この意味のない「手続き型合理性」にひとまず従うことによって、自分が言いたいことを発言する権利を担保するという消極的な理由しかないのである。つまりは、「投票もしていないくせに、俺達のやることに反論するな」と言われないためにだけ投票所に行くのである(また「選挙に意味がない」と言えるのは、原理的に投票している人間だけである)。同じように考える人は投票すればいいし、そうでない人は別に行かなくていいと思っている。投票率が低いということだって、ある種の民意の反映なのだ。だって、本当に今の選挙なんて無意味なんだもの。投票率が常に20%を切るようになったら、さすがにこのシステムをこのまま維持することはできなくなるだろう。安倍政権を倒さなくてはならないと言っている人たちだって、本音では今回の選挙では自民党が大勝するに決まっていると思っているのだから、これもまた「手続き型の反政府キャンペーン」に過ぎないのではないのだろうか? 

しかし水面下では何かが動いている?

しかし、上のような本音を書いたところでただの愚痴にしか聞こえないだろう。基本的に政治が良かったことなんてぼくが生まれてから一度もないのだから、具体的にはよりマシな政党や、よりマシな候補者に消去法で投票するしかないのであり、それでどうなったところで自分は自分のやりたいことをたんたんと続けていけばいいだけのことである。政治がどうなろうと個人があきらめる必要は全くない。どんなにひどい状況になっても希望を捨てずに自分の周りを良くしていけばいいだけのことだと思えばいいのである。そして、そういう人たち、自立した個人の数が増えてきさえすれば、必ずこの国は立ち直ることができるとぼくは信じている。何もうまく機能しなくなった古い政治システムにいつまでもこだわる必要はどこにもないのだ。大体この国にはなんでもかんでも大きな組織や強者に頼りたがる人が多すぎる。

国民の間に政治に対する不信感や不満が高まっていないわけではない。余りにも右寄りのイデオロギーに偏りすぎの外交政策も、誰しもが不安を抱いている原発推進政策も、集団的自衛権沖縄の基地問題に関する決定も、競争原理ばかり持ち込もうとする教育政策も、安倍内閣がやってきたことに対する疑問や反感は確実に高まってきている。ただ、タイミングがまだ早すぎるのだ。この「不意打ち解散」で有権者が戸惑っているのは、とりあえずは大胆な金融緩和政策を行いある程度の景気回復の兆候を見せてくれた安倍政権を完全に見限って、いますぐ政権交代を選ぶことはまだしにくいだけのことである。その意味では政権延命策としての今回の解散総選挙は戦術としては十分成功していると言えるだろう。もちろん、延命するのかあっけなく自壊するのかはまだわからないが…。

そして、決定的なことはどこにも政権の受け皿がないということである。政権担当能力のある野党は明らかにいま存在していない。野党が出している政策だって、多少右や左に傾斜しているとしても、基本的には自民党と似たり寄ったりであることに変わりはない。そして選択肢がないところで選択をすることなどできないに決まっている。今回はそういう選挙なのだ。

自立したヒトを育てなければならない

しかし、だからと言ってこのままの状態がずっと続き、この国が完全に崩壊してしまうとは思わない。坂口安吾の『堕落論』ではないが、たとえ堕ちるところまで堕ちていったとしても、人間も国家も必ず立ち直ることができるのだ。最近あまり耳にすることはないが、「七転び八起」——ダメなら一からやり直せばいいだけのことである。その時に大切なのは自立できる「ヒト」である。極端なことを言えば、政府も国家も潰れたとしても真っ当なヒトさえ生き残ってさえいれば、なんとでもなるのである。いま最も必要なことは、たとえ政治や経済が行き場を失ってしまったとしても、そんなことでくよくよしないで自分の夢の実現を目指す自立した個人を育て、応援していくことである。社会や企業の要請に応えるのが大学や教育の役割だなどとぼくは全く思っていない。短期的な利害ではなく、長いスパンで文明を考えることができる、豊な教養と強い生きる意欲をもった「生き物」としてのヒトをもっともっと育てていかなくてはならない。ヒトの輝きを取り戻さなくてはならないのだ。そして、少なくとも自分の周りにはまだまだできることは沢山あると考えている。打ちひしがれるだけでは何も起こらないし、何もかも社会や政治や外国のせいにして自分が動こうとしない人たちがこれ以上増えていくようであれば、むしろその方がずっと重大な国家的危機ではないかと思っている。

ぼくがこの冬の選挙戦の間に考えていたのはこんなことである。

著者プロフィール

室井尚
むろい・ひさし

横浜国立大学教授

1955年山形市生まれ。横浜国立大学教授(哲学/文化理論/記号論)。京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学(美学美術史学)。『ポストアート論』、『情報宇宙論』、『情報と生命』(吉岡洋と共著)、『哲学問題としてのテクノロジー』、『教室を路地に!』(唐十郎と共著)など著書、翻訳書多数。横浜トリエンナーレ2001に、現代美術家・椿昇と共に50mの巨大バッタバルーンを含む複合芸術作品『Insect World』を出品、2011年にはポーランドの芸術家・K.ヴォディチコと共に『Survival Projection 2011』を制作するなどアーティストとしても活動。横浜国立大学に劇作家・唐十郎を専任教授として招き、その教え子たちによるテント劇団「劇団唐ゼミ☆」をプロデュースするなど、ユニークな大学教育実践を行っている。横浜都市文化ラボ主宰。最近は自身のblogでの文科省による国立大学改革批判が注目を集めた。

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