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【総選挙2014】我が国における正しき「公私混同」のあり方

  • 武田徹 (ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授)
  • 2014年12月9日


Photo by Freedom II AndresCC BY 2.0

「公私混同」には「悪性」と「良性」がある

第一次安倍内閣が終焉を迎えた2007年8月27日、テレビに速報テロップが出るか出ないかのタイミングで新聞社からの電話を受け、大急ぎで論評記事を書いて寄稿したことを思い出す。

安倍内閣は常に「公」「私」を混同していた

そこで指摘したのは、安倍内閣が常に「公」「私」を混同していたということだった。第一次安倍政権ほど「公」、つまり公共を重視した政権はなかった。たとえば教育再生を重点課題のひとつとし、公共奉仕の精神の涵養を求めて教育基本法を改正した。しかしそんな政権を率いた安倍自身は、憲法改正に自分が関わるのは祖父・岸信介元首相の無念を晴らしたいからだと著書『美しい国へ』の中で説明するなど、公的な議題について私的な理由付けをしても一切悩むことがない。安倍自身にとって「公共」とは、おそらく祖父・岸の抱いた理想の国家イメージに重なるものであり、そんな「公共」に奉仕せよと述べる安倍が、参院選の大敗を経て辞任した時に挙げた理由も、健康問題という一身上の私的な理由であった。こうして終始一貫して、本当の意味で公的なものに触れることのない政権だったという印象をその記事では記した。

この場合の「公」「私」混同とは、より正確にいえば「私」による「公」の簒奪、「公」の私物化に他ならない。特定の誰かに私有された「公」は、誰のものでもあるという公共的性格を失う。

NHKの問題は「公」と「私」を考える基本。

わかりやすい例で示してみよう。たとえばNHKは公共放送を自称している。公共放送である以上、NHKは特定の誰かのものであってはならない。制度的にはそうしたNHKの性格を定める方向づけがなされている。まず公共放送は国営放送ではなく、自国の国策についても、それが公益に反すると判断すれば批判的に報じる使命を課せられている。そこで1950年に施行された放送法 ではNHKを受信料によって運営される特殊法人と規定し、国から税金を回してもらうのではなく、独自財源を確保することで、財政を通じて国の支配を受けないようにした。

その一方で放送法は、NHKの経営陣自身が公共放送を私物化することも避けようとした。そのためにNHKの最高意思決定機関を外部の人間を含む経営委員会とし、そのメンバーとなる経営委員を、衆参両院議員の同意を得て内閣総理大臣が選ぶことで国民の意思がその人選に間接的に及ぶようにした。またNHKがどんな放送をするかも、事業計画、予算案を国会が承認する手続きを取ることで、NHK自身が自らの利益のために事業を行ったり、あるいは放送行政を司る官僚がNHKを私物化しないための歯止めとした

このように制度的には相当に周到に作られていたのだ。しかしその制度はうまく機能しなかった。衆参両院とも与党第1党を自由民主党が占めてきた55年体制下で、自民党から選ばれる内閣総理大臣の意向に衆参両院が同意しない事態はほぼあり得なかった。結果的に経営委員には政権与党の意向に抗わない「無難な」人物が選ばれ、経営委員会は有名無実化して、たとえばNHK会長人事を協議する経営委員会が開かれる前に、新会長の名が与党政治家筋からリークされることすらあった


© iStock.com

事業案、予算案を国会で審議させる方法も、NHKが与党議員の顔色を窺うようになる結果をもたらしたし、官僚と持ちつ持たれつの関係を担う「族議員」が多い政治状況下では、官僚が与党政治家を通じてNHKをコントロールすることを可能にしてしまった。

公共放送が私物化される流れを導いたのは、国会議員を選んだ国民自身だ

しかし、ここで問題は、こうして公共放送が私物化される流れを導いたのは、国会議員を選んだ国民自身だということである。選挙に際して、それぞれの投票者は自分により多くの利益をもたらしてくれそうな立候補者の名前を投票用紙に記入する。利益の確保を優先させるのは人間の自然であり、それを否定するつもりはない。ただ、その利益は、実は相当に複雑な重層構造をなしている。家の前のドブがよく溢れるので改修してほしいというような本当に目先の利益を求めることもあれば、日本経済を安定的に発展させてくれるだろうかとかいう、よりマクロな判断もあるだろう。利益は経済的なものに限られず、自分と同じ価値観を実現してくれるメリットなどもありえる。

そうした重層性を備えた利益の中で、公益に対する判断はより困難だ。自分だけのものではないので、目先の私益ほど直接的ではなく、明らかではない場合が多い。また目先の利益をひとまず一定程度制約しないと実現しないような公益も、「誰のものでもある」公益であるかぎりは巡り巡って自分の利益に還元されるのだが、迂回的であるので実感しにくく、投票行動につながりにくい。逆に私的な、自分たちのとっての利益を、これこそ公益的だと強弁するような政治家の方が支持を得やすく、多くの人が「公」を「私」的に簒奪する政治に参加させられてしまうことが起こりがちだ。郵便サービスの公共性をいかに確保するかの議論を省いて、郵政民営化という自らの思いを実現させてほしいと熱弁した小泉純一郎に反応した無党派層が自民党を大勝させた郵政選挙が、冒頭に引いた第一次安倍政権につながっていたことは言うまでもないだろう。

また、自分だけでなく、皆のために利益をもたらすと信じた政策であっても、それが実は「みんな」のためにならず、特定の立場の人を疎外してしまったり、より重い負担を強いてしまったりする場合もあろう。その政策も結果的には公益的ではなく、利益を得る人たちだけのために私物化された政策だったことになるが、それが本当に公益的なのか、私的な利益を求めるものに過ぎないかの判断は、究極には歴史の審判を待たねばならないこともあり、個々の人間の能力を超えている面もある。

公共放送の独立性は、公益実現に向けて国策が行ったり来たりする迷走の中でこそ生きてくる

だからこそ公益や公共への奉仕を拙速に謳うのではなく、本当の公益を実現してゆく方向付けを妨げないために何が必要かという戦略的判断が重要になるのだろう。たとえば公共放送の必要性もそこに求められる。国家と独立し、国政についても批判的検証ができる公共放送局があってこそ、公益を求めていたつもりが、逆に疎外される弱者が生み出されてしまった場合に、その問題を広く伝え、軌道修正ができる。公共放送の独立性は、公益実現に向けて国策が行ったり来たりする迷走の中でこそ生きてくる。自分や自分の所属する政党の政策に対して批判的な報道をされればもちろん不愉快なのが本音であろうが、それが未来のよりよい政策、つまりは公益の実現に資すると考え、自分が批判の対象になれば不快なことを承知のうえでなお公共放送の独立性を守っておく必要性を理解している議員を選出しておけば、上述した公共放送の私物化は回避できていた可能性があった。

再稼働を原発問題解決の文脈に位置づける

それができずに今に至った歴史を顧みれば、今回の選挙への姿勢の修正も多少はできるのではないか。たとえば原発再稼働問題などは公益的な解決方法が求められる典型的な事例である交付金を前提として経済構造が構築されている立地地元はそれを求める。原発からの経済的利益を特に感じず、むしろ被曝リスクを重く感じている都市部の反原発運動家は、再起動絶対反対を唱える。両者のリスク感覚はすれ違い、利益は相反して一致しない。一方で原発問題は世界的な化石資源の問題、地球温暖化の問題と関係し、アメリカの世界的な核戦略の俎上に乗っていて、日本一国で議論が完結しない性格も有している。こうした複雑で重層的な構造をなし、様々なアクター(行為主体)の利害を調整する必要がある原発問題の根本的な解決は、個々の国会議員の能力を越え、その任期内では不可能なのかもしれない。だが、その議員が原発問題を本当に公益性の高いかたちで解決してゆく必要性を理解しており、少なくともその解決に向けての方向づけを妨げない人物であることが必要だろう。


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「公」、つまり公益のあり方を理解した上で、その実現に向けて自分の能力や権限の範囲で何ができるか考え、選択する。私的な利益を犠牲にして公共奉仕する必要はない。しかし誰もの利益になることで自分の私益にも還元される公益の実現に意識的になり、自然な損得勘定の中で何かしていこうとすること。それは「私」的な領域の中に「公」を実現するためのスペースをとりあえず少しでも開けておくイメージだろうか。それは、「私」のスペースにパスが来れば、公益的な政策実現につながってゆく期待を込めて「公」のスペースに向けてパスを蹴り出せるようなものなのかもしれない。そうしたかたちでの「公私混同」こそ政治家には求められることであり、そうした資質や能力を政治家が備えているかを見抜き、支持を示すことで、自分もまたパスをつないでゆくためのスペース確保に協力することが、選挙に臨む国民には求められるのではないか(その見極めのために、党首討論を実施したメディアは、たとえばそれぞれの公共放送観などを聞いて欲しかった。そこで馬脚を出してしまう党首もいたのではないか)。大義がないと言われ、つまりはこれまた私物化の極みと感じられる今回の総選挙で、そんなことを改めて強く感じる。

著者プロフィール

武田徹
たけだ・とおる

ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授

ジャーナリスト、評論家、恵泉女学園大学現代社会学科教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』など。

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