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これまでいつも選挙には行くべきだと思ってきたし、自分の周りの人間には「選挙行ってね」とプレッシャーをかけてきた。投票は、第一に市民の義務だし、第二に日本のような社会に生まれたから享受できる権利なわけで、世界のどこかに性別、人種、宗教といった様々な理由で投票できない人がいるかぎり、投票の権利はありがたく扱うべきだと思ってきたからだ。
けれどここ数年、だんだん「選挙行こうよ」という言葉が空虚に思えるようになってきた。そして今回の選挙だ。だってなんで今なのだ。誰だって忙しい年の瀬だ。いろんな記事を読んだけれど、このタイミングでやる明確な理由は見えなかった。見えるのは政治家の都合だけ。コストは国民もち。でも解散します、と言われたら受け入れるしかない。そういうシステムになっているのだから。なんなのだ、これ。
アメリカには選挙の日というものがある。11月の最初の月曜日の翌日(つまり月の最初の日が火曜日だったら第二週の火曜日)である。大統領選挙は4年に1度、下院議員選挙は2年に1度、上院議員選挙は6年に1度である。地方選挙は選挙の日にやらないといけないということではないけれど、コストや手間を省くために同じ日にやる州や自治体が多い。選挙は、お金も人員もかかるからだ(余談だけれどなぜこの時期にやるかというと、秋の収穫が終わり、まだ大雪が積もらない時期だからだ。現代社会では、投票所も各地域にあるし、それほど難しいことではないけれど、建国の時代のアメリカ人たちは馬に乗って遠くの投票所まで行っていったのである)。
選挙の日、投票所に様子を見に行くと、だいたい長い列ができている。2008年の大統領選挙の様子を見にいったとき、立っているのもやっとの老人が並んでいる姿、肌の色も、出自も、所得も違う人たちが、長い列に忍耐強く並んでいる姿を見て、感無量になったのを覚えている。投票という行為は、市民ひとりひとりが与えられた権利なのだと改めて噛み締めた瞬間だった。
たまに投票率の低下の話題に関連して、「みんなが投票に行きやすいように休日にすべきだ」という議論を聞くことがある。そうはいっても期日前投票はあるし、「この日は選挙の日」という認識が国民に浸透しているので、きっとこのまま選挙は11月上旬の火曜日に行われていくのだろう。
政治家たちはこんな選挙で、国民に「選挙に行ってください」と胸を張って言えるのだろうか
日本の話に戻ると、みんな忙しい生活のなかで貴重な時間を割いて選挙に行くわけだ。議員の公約を学び、誰に投票するかを真剣に考えて、一票を投じるわけだ。そこのコミットメントを政治家たちはわかっているのだろうか。こんな選挙で、国民に「選挙に行ってください」と胸を張って言えるのだろうか。
この11月のアメリカの中間選挙の日、私は一時帰国中で東京にいた。フェイスブックを見ていて「投票した!」と報告している友達がいつもより少ないのにように思えた。オバマ大統領が変革を標榜した2008年の歴史的な選挙のあと、何も変わらないじゃないかと選挙に行くこと自体に「ノー」を言う人が増えたとしてもそれは不思議なことじゃない。
今年の夏に刊行された『ヒップな生活革命』に「私たちは無力ではない」と書いた。リーマン・ショック以降の政財界に対する失望感や裏切られたという気持ちのあとに、「だったら自分に何ができるか」と自分の生活を変えるためのアクションを起こした人たちを取材した。アメリカ人は声高だ(良くも悪くも)。たとえ選挙にいかなかったとしても、何かあるとすぐに署名が始まる。Change.orgが出現してからはなおさらだ。選挙以外にも、自分の意見や主義主張を伝えることのできる場所は増えている。
今回のような選挙で「投票に行かない」「行っても何も変わらない」という人たちを責めることはできない。「選挙に行かない」というボイコットの方法もあるだろう。でもだったら、声高に不満を言おう。なんで今選挙をするのだ! と疑問を声にだそう。自分にとって重要な争点があれば、議論をしよう。声をあげることがまず第一歩なんだと思う。
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