Photo by Nguyen Hung Vu(CC BY 2.0)
選挙の話をするのは怖い。選挙の話をするとバカがバレる。いかに日頃、政治について考えてないかバレてしまう。
バカがバレるのが恥ずかしいと思うなら勉強するしかないのだが、勉強して「自分はこういう政策を(候補者を、政党を)支持したいな」と思ったとして、それをSNS上でうっかり口にしようものなら、ガチの火の粉がふりかかってくる。
うちの両親は、投票に行ってもどこに/誰に投票したかは教えてくれない。夫婦でも話さないと決めていると言っていた。そこで意見のズレが判明すると、取り返しのつかないケンカになりかねないからだそうだ。
私が選挙に行こうと思うようになったのは、恥ずかしながら本当に遅い。2011年以降である。
悲惨な出来事のあと、誰もが「生きていること」をただ、生きているだけでいいのだと認め、生きる希望を持つことの大切さを説いているように見えた。
いい世の中になっていく気がした。でも、全然ならなかった
いい世の中になっていく気がした。でも、全然ならなかった。気持ちじゃ世の中は動かない。どんな当たり前の実感も黙っているだけで国政には響かない。
「自分が考えてることは、普通だろ」「誰もこんなこと望んでないに決まってる」、そう思っていても、それとは真逆のとんでもない結果が簡単に出る。ぞっとしたのを覚えている。
政治について、臆することなく発言をし続ける友人たちの影響も大きい。「考えてません」と言うのはあまりにも恥ずかしく、選挙にちゃんと行くか、と思うようになった。最初は不慣れすぎて投票日を一週間早く間違え、キッズが野球をしているただの日曜日の学校に入り込んでしまい、どんな顔をしたらいいのかわからず無表情で校庭を一周してそのまま退出し、出鼻をくじかれまくったこともある。
こんなふうだから、選挙に行くだけで緊張する。日頃ちゃんと考えてないから、投票所にいる資格がないような気がしてくる。
でも、資格はあるのだ、誰にでも。
Photo by Gustavo Veríssimo(CC BY 2.0)
私が望むことは、誰もが生きていてもいいと思える世の中になることだ。
女であっても、出産しなくても、正社員じゃなくても、病気でも、生きていていいのだと、自分は社会の一員なのだと思いたい
女であっても、出産しなくても、正社員じゃなくても、病気でも、生きていていいのだと、自分は社会の一員なのだと思いたい。逆に言えば、今は思えない。自分は社会に不要な役に立たない人間で、老後は人に迷惑をかけるだけなのではないかと思う。思わせられる。当たり前のように差別を受け、さまざまなハラスメントを受ける。たいしたことじゃない、もっとひどい差別を受けている人がいる、自分が受けている差別なんか些細なことだ——そう思いながらも、その差別や嫌がらせ、発信している当人が自覚していない「こうであるべき規範」の押しつけを呑み込めない。怒りで泣きながら生きている。
「女性が輝く日本へ」と言われても、男性社会の中で「女性」という異邦人として扱われ続ける限り、女には、「女として」輝くことしか許されない。
特別に輝けなくていい。普通に生きたい——。
銀行に行ったら、保険と個人年金を勧められた。「お亡くなりになられたら、700万出ます」と言われた。「それは親族しか受け取れないのですか?」「はい」「じゃあ必要ないですね」「親族の方にお残しになりたくないのですか?」「いえ、ただ順当にいけば両親や弟のほうが先に亡くなるので、残す先がないんです」「でも、不慮の事故や病気もありますし」。こういうときに、ああ、自分のような生き方は社会から想定されていないのだな、と感じる。
私は家族制度を解体してほしいし、家族のあり方の幅を拡げてほしい。人の存在の仕方の幅を拡げてほしい。
金がないなら、せめて自由な時間が増えるような働き方ができる世の中になってほしい。
政治や選挙のことを考えると、無力感にとらわれる。自分が投票した候補者が、開票速報が始まった瞬間に落選決定したりする。選挙が単なるエンタテインメントなら、自分は絶対行かない。面白くないし魅力もない。わかりやすくもない。
でも、権利はある。
昔は来るのがうっとおしいと思っていた投票用紙が、今は生きる権利を証明する紙に見える。
虚しいとか、自分の票が結果を左右することはないのかもとか、そういうことを考えるのを私はやめた。選挙に行くか、行かないかということを考えたり悩んだりするのをやめた。
行くか行かないかじゃなくて、行く。行かない理由も行く理由も考えない。それが自分の「当たり前」だと決めた。
世の中が決定的にまずい方向に舵を切ったあとでは、遅い。
Photo by Candida.Performa(CC BY 2.0)