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【総選挙2014】ありきたりのことを偉そうにお説教するのはやめてくれ

  • 河野嘉誠 (ライター)
  • 2014年12月14日


Photo by MIKI YoshihitoCC BY 2.0

選挙期間中、私はすっきりしない気分で街頭演説をまわっていた。

安倍首相は、株価の上昇給与の2%アップなど、アベノミクスの成果を強調した。これからの成長戦略で中小企業も潤うという。

いやいや、それではダメだというのが野田前首相で、トリクルダウン理論的に古すぎるし、民主党時代のほうが実質賃金も良かったんだ、という。

平沼党首は若者が誇りを持てるようにしなきゃいかんといい、江田党首は身を切る改革に取り組むそうだ。

志位委員長は消費税ではなく、大企業の内部留保を財源にするとした。野党はおおむね安倍政権の「暴走」を止めるという点では一致していた。

確かに政治家というのは演説がうまい。党首ともなれば尚更で、なかには名調子といっていいような演説もあった。内容もそれぞれがもっともと思えることを言っていた。

メディアや言論人の発言はどうか。

極めて雑にまとめると、まず自民党圧勝の選挙報道があった。そして、安倍政権を信任する「この道しかない派」と、このままいくと大変なことになるという「この道はヤバい派」に分かれている。

そして結びは決まってこうだ。猫も杓子も「無関心が怖いので若者は投票に行こう」——免罪符のようにお決まりのフレーズがそこに置かれてる。

とはいえ、マスコミや言論人たちも、長年の知識と経験に裏付けられた論が冴えわたり、考えさせられるものも少なくない。

しかし――どの意見も今ひとつ私の胸に奥までは響いてこないのだ。何様だ、と言われるかもしれないが、事実そうなのだから仕方ない。

昔から、優等生の意見が嫌いだった。紋切り型のその意見には、語り手の葛藤がこれっぽっちも見えない。だからうさん臭いし、偽善的に感じてしまう。後ろめたさなのない表現者は、押し付けがましいだけではないか。

とくにこのご時世、キレイゴトを信頼する輩がどれだけいるというのか。

構造改革といって八方手を尽くしても、長年続いたデフレはどうしようもなく、格差社会と非正規雇用が問題化した。民主党が「決められない政治」に終始したかと思えば、安倍政権は「トップダウンの拙速政治」を急進した。

イノベーショングローバルがすべて解決してくれるという夢を見る風潮もあるが、リーマンショック以降は反グローバリズムの動きが世界のあちらこちらで席巻している。それはあたかも、この世の複雑さここに極まれりといった様相だ。

そんな状況下で「他党はダメだが、我が党は大丈夫」というような紋切り型の独善的な主張をされてもしらけるだけではないか。

ステレオタイプという概念を広めたジャーナリズムの巨人、ウォルター・リップマンはこう言っている。

「もしその人生哲学の中で、世界はわれわれの持っている規範に従って体系化されていると想定しているならば、たぶんわれわれは何が起こっているかを報告するときに、そのような規範によって動かされている1つの世界を語ることになるだろう」

『世論』(W.リップマンより

経済が概ね好調で、イデオロギー対立のもと善悪の価値がはっきりしていた(と多くの人が認識していた)時代には、ある規範によって動かされた「1つの世界」を扱う言説に熱狂した人もいたかもしれない。しかし、いまはそうではない。

北海道大学の中島岳志教授がこんなことを言っていた。

「多様な意見を取り上げるといってもAかBかの両論併記は議論だとは考えない。特定秘密法などをめぐる(筆写注:朝日新聞紙上の)杉田敦さん、長谷部恭男さんの対談が面白かったのは、相手の論を聞いて考えが揺れる場面があり、両氏の議論が交わることで間にある多様性が読み取れるからだ」 

朝日新聞紙面審議会 【2014年度第3回審議会】より

求められているのは、近視眼的で一方通行な「主張」ではなく、お互いの意見を汲み取り、折衷するような「議論」である。だが実際のところは、誰もかれもが好き勝手にイシューを選び、交わり比べ合わせられることのない発言を繰り返しているだけなのだ。

議論ならば党首討論やテレビ番組があるじゃないかという向きもあるかもしれない。だが考えてもみてほしい。そのなかで論者たちがお互いの意見を聞いて考えが「揺れる」場面を、何度見たことがあるだろうか。それは議論のかたちを装った「両論併記」ではなかったか。

建設的な議論のために何が必要か。リップマンはこう続けている。

「しかし、われわれの哲学が、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜい様々な観念の荒い網の中に世界の一面と要素の一部としてしか捉えられないのだと語るとしたらどうだろう」

「そうすれば自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれが単なるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするだろう」

『世論』(W.リップマンより

抽象的な「理念」でもって、政治を語ることは簡単だ。しかし、それを施政者やメディアの人間がやってしまうことは「罪」に近いと私は思う。

語られるべきは模範解答的な明るい未来への展望ではなく、対立する立場の間から葛藤を孕みつつも生まれる決断であるべきだろう。

ならば、政治家や言論人にはこの機に、硬直的で無意味な政権信任論や政権打倒論だけではなく、混迷を極める国際状勢のなかで、これから日本がどういう国家像を作り上げるべきかという政策論を語ってもらいたい。

選挙に行こうという空語も同じだ。そんな大上段に構えた偉そうな言葉で、誰が選挙に行きたくなるものか。

政治家や言論人の間で、お互いが「揺れる」ような面白い議論が、大いに展開されればいい。暗がりでその炎が煌々と燃え上がる様子に誘われて、「政治に無関心な若者」たちもやがて集い、政治談義に聞き耳をたてるようになるに違いない。

著者プロフィール

河野嘉誠
かわの・よしのぶ

ライター

1991年東京生まれ。私立武蔵高校卒業、早稲田大学政治経済学部に在学中。東京都知事選、台湾・ひまわり運動などにおいて若者の政治活動をテーマに取材。THE PAGE(ザ・ページ)などに寄稿している。

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