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1. 消費社会で耳慣れた言葉
アベノミクスという名称にどうしても慣れなくて、安倍内閣の経済政策だということは分かるのだが、ホットケーキじゃないし何をミックスするんだろうとぼんやり疑問を抱いていた。今日ついにWikipediaを参照したら、安倍晋三さんの名字とエコノミクス(economics)を合わせた造語とあった。安倍経済学、というわけだ。何も言ってないに等しいじゃないか。
ロナルド・レーガン大統領の政策・レーガノミクスにちなんでいるそうだが、アメリカの大統領の名前ならまだしも、日本語の固有名詞と英単語をドッキングさせてしまうと、新発売の健康食品やアイドルグループ、お笑い芸人の名前みたいで、キャッチーで耳に残りやすくはあるが、ちょっとおふざけ入った印象が生まれて、せっかく政治の場面で使用される言葉なのに格調が落ちてしまっていないか。
普段TVなど見ず時流に疎いため、新聞の政治記事で、「この候補者の選挙演説中、アベノミクスへの言及は××回」などという記述を見かけるたび、みんな真面目な顔をして、私に分からない冗談でも言っているのかしら? と無用な心配をして勝手に疲れていた。来年いっぱいぐらいまでは人の口の端に上るかもしれないが、すぐ廃れる言葉ではないだろうか。ある程度定着していくのだとしたら、これをお笑い芸人の名前だと思ってしまう自分の言語感覚が相当世間の現実とかけ離れていることになるわけで、何のために今まで本読んだり文章書いたりしてきたのかと悲しい。
マニフェストという言葉が登場した時も、政治家の人たち、急にこぞって英語使い出してどうしたのだろう、と思っていた。古くは衣紋掛けをハンガー、白粉をファンデーションと言い、時代が下るに従ってホテルのシャンプーや石鹸をアメニティと言い、飛行機の客室乗務員をキャビンアテンダントと言い換えるなど変化は目まぐるしけれど、選挙公約はシンプルにただ選挙公約と言えば良いのになぜ変える必要があるのか。
毎日、無数の広告を目にしての消費行動に私たちが慣れ切ってしまっているところに、似たようなアプローチで新しげなカタカナ混じりのコピーをぶっ込まれると、混乱させられる。アなんとかもマなんとかも、企業が商品を売るときの言葉だろう。こっちは何も買おうとしてるわけじゃないのにアメリカ人みたいでカッコいいでしょ、良い仕事しまっせ~と売り込まれているようで、かまびすしい。政治家は国民が選挙を通じて選ぶ代表者ではないのか。日本国民全員がやる気を出して毎回国会に出席していたら数が多過ぎて大変なことになっちゃうし絶対まとまらないから、代わりをお願いしているだけじゃないのか。当世の代理人は商売っけが勝ちすぎると思うが、いつの時代にもそんな議員大勢いただろうし、今に始まったことじゃないのかもしれない。
「選挙の主役は、私たち」という今回の衆議院選の期日前投票キャンペーンのコピーも、多分、大勢の担当者の面々が真剣に頭を捻って「これだ!」と発案したものだろうけど、なんだかなあと思う。犬が西向きゃ尾は東という話だ。「右足出して左足出すと、歩ける〜♪」という「あたりまえ体操」の歌みたいだ。「私たち」が、国会議員を選ぶ主体であるから、選挙という事態が起こるわけで、わざわざ「アンタが主役!」と言われなくても、選挙に行く人は、主体的に権利を行使するつもりで、ただ、行くのだ。行かない人が多いから、こんなキャンペーンが張られるんだろうけど、仲間由紀恵さんに笑顔でそう言われると逆に、「え~、私はいいから、由紀恵さんが主役やりなよ(美人で演技もできるんだから……)」と逃げたくなる。美しい仲間さんに罪はないし、考案者が気を悪くするかもしれないが、毎回投票に行く私でもそんなふうに思ってしまうんだから、キャンペーン・コピーとしては効果が薄いのかもしれない。
2. 個人的な選挙
そう私は毎回選挙に行くのだ。投票所は出身の小学校の体育館なので、否応無しに小学生の頃を思い出す。自分の名前の入った投票所入場券を携えて、徒歩で5分の道を行き、懐かしい校門をくぐる。あんまり社交的な子どもじゃなかったから、休み時間は読書したり裏庭を歩いたり、ある意味人生の暗黒時代だったなあ。今もちっとも性格変わらないけど。
自分のための1票が用意されているという感覚は、義務教育たる小学校の過程で五十音順に列を作って身体検査を受けたり、時間割に従って教室移動をしていたときのものに少し近い。立ち上る強烈な帰属意識、幼い頃は机の前に縛りつけられる不自由さが嫌だったけど、今は自由すぎて心許ないような生活を送っている分、指定された場所で他人と同じ行動をすることに、変な話ちょっとした快感もある。チェーン系ラーメン店「一蘭」のカウンター以上に秘密めいた、仕切りのある投票机に純然たる個人として向かい、よく削られて尖った鉛筆を手に、投票用紙に間違えぬように丁寧に候補者名を書く。
自分の場合は普段、誰に投票するとかどこの政党を応援するとかいう話をあまり人としない。漏れ聞こえてくる周囲の話に耳を傾けた上で、選挙公報を一通り読んで目星をつけて自らの代理人を選び、誰も見てないのに記名された紙をこっそり手の中に隠して、銀のジェラルミンケースにひらりと入れる。体育館を出て、これで良かったのだろうかと少し案じながら小学校の校庭を横切って家に帰る。
選挙の日は晴れであることが多い気がする。抜けるような青空の下、校庭が一面雪に覆われていたこともある。
3. 書物の中の言葉
「ケストナーの終戦日記」(高橋健二訳、福武書店)という本の、まえがきばかりが気になって、何度も読み返している。児童文学「飛ぶ教室」を書いたエーリヒ・ケストナーは、ヒトラー政権に好ましからざる作家として執筆を禁じられ、二度ゲシュタポに逮捕されながらもベルリンに留まり、一貫してナチス批判を続けたという。彼は大戦中に綴っていた日記を元に、一大長編小説を書くつもりであったが断念した。
ナチスの千年の国家は大長編の材料を持っていない。それは大きな形には役に立たない。『人間喜劇』にも『非人間喜劇』にも。——十二年間にわたってふくれあがった犠牲者と刑吏との数百万名の名簿を建築学的に組み立てることはできない。統計を作曲することはできない。それを企てたところで、大長編はできあがらず、できるものは、架空のアドレスや偽名に満ちた、芸術的見地で整理された、すなわち、ゆがめられた血なまぐさい人名簿だろう。
一千年は続くと誇大に呼号したナチス第三帝国への嫌悪も相まって、作家はこのまえがきで、大いなる芸術の名の下に、個々の人間の等身大の姿が、ひとつの大きな物語の中に取り込まれ、抹消されてしまうことを徹底的に批判している。日記は長編小説の材料にはならず、そのまま日記として出版された。
個々の人間は、大年代記の中にはおらず、他の書物の中に見出せる。のぞきこむには望遠鏡も顕微鏡も要らない、肉眼で十分だ。とケストナーは書いている。どんな言葉が個人を生かすのだろう。ご大層なお芸術風にけばけばしく化粧された大長編小説の文章にも、大衆に消費を促すカタカナ混じりのコピーにも、子ども相手の口うるさいお説教じみた標語にもゆだねられないなら、どのような言葉で綴られた書物が、天と地ほども違う考えを持つ大勢の他者とも共存しなくてはならないこの社会で、生まれて死んでいく等身大の個人の姿を描き出せるのだろうか。
4. 民主主義には形がない
あまりに大切な物を前にしたときに人は口をつぐむ
少しずつだが仕事で文章を書き続けるほどに、過去の書物の数々に深い敬意を抱かずにはいられなくなってきた。理由はうまく言えない、ただ衝動的なまでに闇雲な敬意があるばかりだ。あまり選挙に行かなかった二十歳頃の自分に、なぜ年長者たちが「いいから黙って行け」とせっついたのか、今なら少し分かる気がする。「民主主義」というものには形も色も味もない。キラキラしたコインの輝きもない。ただの角ばった四つの漢字の連なりであるし、現行の制度に問題は山積みなのかもしれないが、それは過去に同じ地に生きた人々が、命を懸けて勝ち取ったかけがえのない遺産であるらしい。あまりに大切な物を前にしたときに人は口をつぐむ。自由とか人権とか憲法とかいう言葉を前に少し神聖な面持ちで黙っていたあの大人は、身近な人かあるいは数十年前、百年前、一千年前に死んでいった人たちのことを悼んでいたのかもしれない。
歴史上稀に見るような、自由で豊かで平和な社会を、いつかどこかに築けるかもしれない。肉眼で見える等身大の個人が、真っ白いページの上で呼吸して生きている、瑞々しい書物の中のような社会を。そんな希望を僅かに繋いで、太古の昔から人は知の遺産を引き継いできたのかもしれない。そこでは一人一人が自分の頭で物を考え、発言をし、行動するのだ。言葉にすると素敵そうだが、実際は寒空の中裸で放り出されたようなもので、恐怖で震えは止まらないわ鳥肌は立つわで心許ないこと、確約済みだ。よろけて立っていられなくなる者が続出するのは目に見えている。だが、そこでは手を差し伸べる人間が必ずいるのだ。元来、知は共有されるためにあるもので、力を誇示したり、他者を脅かして支配するためのものではないのだから。
そんな社会は、あり得ないかもしれない。
でも、もう実現されているのかもしれない。
見渡せば、すぐそばで政治学や社会学、経済学に自らの人生を投じて向き合ってきた人々が数多の書物を著し、常に意見を交わし合っている。生きの良い言葉があたりに飛び交っている。自分は政治に関してはド素人で、こんなふうにホットケーキがどうしたとか要領を得ないトンチンカンなことしか書けないわけだが、「ポリタス」の記事の中にも思わず膝を打ちたくなるような小気味良い論考が幾つもあった。学ぶのを楽しんでいるうちに思いがけない景色が目の前に開けているかもしれない。
政治や社会に参加するということは、同時代の人間に対して直接的に働きかける行為だけではなく、すでに死んだ人たちや、まだ生まれていない人たちに向けたラブレターを誰にも見せずに黙って綴り続けるような行為とも言えるのではないか。それほどまでに、ごく個人的なことだと自分は最近思い始めている。
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