ポリタス

  • 視点

若者を追い込まない「東京」にするために

  • 安田菜津紀 (フォトジャーナリスト)
  • 2014年2月3日

本当の“豊かさ”とは何だろう

「どうしてこんなにたくさん人がいるのに、誰も目を合わせずにただ通り過ぎていくんだろう」。今から10年前、高校生だった私が新宿駅に降り立って感じた率直な気持ちだ。これまで当たり前のように歩き回っていた場所に突然感じた違和感。このとき私はちょうど、はじめてカンボジアに赴いた帰りだった。

カンボジアでは貧困に喘ぐ厳しい現実がある反面、人同士の生きたつながりが残されていた。首都プノンペンの中でさえ、赤の他人と路上で談笑することが珍しいことではなかった。首都から少しでも離れれば、食事の火をおこすところからすべてが手作業。当時は栄えている場所でもほとんど信号を目にすることがなく、道路を渡るにも運転手と歩行者がコミュニケーションをとらなければ成り立たない。不便どころか危険すら感じるのだが、その分誰かとつながっている、誰かに必要とされているような感覚の中で常に過ごすことができた。

東京に戻って私が真っ先に感じたことは、「帰ってきた」という安堵感よりも「帰ってきてしまった」という空虚なものだった。せわしなく通り過ぎていく人の群れに囲まれ、空を見上げても、建物に切り取られた空しか見えない。それが高校生の自分なりに寂しく思えた。本当の“豊かさ”とはいったい何なのだろうと、そのときはまだぼんやりとしか考えることができなかった。

若者が自死を選ばなくて済む社会を

大人になるにつれて、徐々にその違和感の正体をつかんでいくことになる。大学に入り、「あしなが育英会」という奨学金団体に携わるようになったときのことだ。ここでは親を亡くしたり、親が障害を持つために働くことができず教育費に困っている学生たちが、奨学金を得ながらボランティアとして活動している。私自身も父を亡くし、アルバイトに明け暮れながら大学に通う学生の一人だった(ちなみに東京都育英資金は大学生を対象としていない)。

あしながの学生たちの中でまず驚かされたのは、「自死遺児」の多さだった。私が関わり始めた2006年頃、高校奨学生中、自死が原因で親を失った学生たちは既に16%を超えていた(自死遺族は自死で亡くなった方の4倍から5倍の数と言われている)。先日警察庁が発表した情報では、自死者が4年連続減少し、2012年に続いて3万人を切った。けれども10万人あたりの自死率だけで見れば、東京都内はむしろ上がっている。

近年は親世代だけではなく、若者にとっても自死は決して他人事ではない問題となってきている。あしながで関わった同世代を見ても、「兄弟姉妹を自死で亡くした」学生が数多くいる。東京都福祉保健局の発表によれば、都内での10代、20代、30代、この3世代すべてにおいて最も多い死因は自死なのだ。東京都では2010年に相談ダイヤル「こころといのちのほっとライン」(0570–087478)が開設されたが、当時は相談の終了時間が21時半までとなっていた。それが「家に帰り着き、若者が“死にたい”と思う時間はむしろ深夜ではないか」などの指摘を受け、今では朝6時までとなったものの、心の拠り所作りはいまだ急務となっている。

「自己責任」から「再挑戦」できない社会の恐怖

若者は何に絶望を感じるのだろうか。言い方を換えれば、なぜ彼らは“自死しか選択肢がない”と思うような状況に追い込まれたのだろうか。一つには、一度どん底に落ちてからの“再挑戦”を阻む社会の仕組みがあるのではないだろうか。

若者ホームレスの取材を進める中で、同い年のホームレスの青年に出会ったことがあった。彼の家庭は母子家庭であったが、母親の体調不良を理由に都内の児童養護施設で育った。高校卒業後、航空会社の下請け会社に勤務していたが、ある日機体の清掃中、掃除機を倒してしまった。たまたま打ち所が悪く、飛行機のドアは交換せざるを得ない状態となってしまった。それを機に、彼は依願退職という形で会社を辞めさせられた。この場合、自己都合での退職となり、失業保険を申請しても約3カ月の待期期間は受給することができない。寮を追い出されたものの、母親は既に死別しているため、帰る場所がなかった。まず彼は北区役所に生活保護の申請に出向いた。すると役所からは「まだ若いんだから」とハローワークに行くように勧められた。ハローワークに行ってみると、「連絡先がなければ仕事の紹介のしようがない」と役所に追い戻された。そうしたたらいまわしが何度か続き、彼はとうとう春先の寒さが残る赤羽公園で、寝泊りの生活を送ることになった。

その後、NPOの仲介があり、ようやく北区から生活保護を受けられることが決まった。区に紹介された自立支援施設に入居したものの、そこはベニヤ板で仕切られた2畳ほどの個室。隣のかすかな物音まで漏れ聞こえ、大人がやっと横になれるくらいの空間だ。これに対して家賃は53,700円、そこに食費や光熱費などを加えて更に5万円以上が引かれる。手元に残るのはわずか7,000円ほど。施設側に生活保護費の管理も委託されており、明らかな貧困ビジネスであった。

彼は追い詰められていた。けれども彼を追い詰めていったのは「お金がない」状態というよりも、むしろ「お金がない」という状態を誰にも相談できない、誰にも解決してもらえない状態に追いやられてしまったことではないだろうか。家族のいない彼にとって最後の砦であった役所の対応が、むしろ彼を窮地に立たせてしまったのだ。“自己責任”という一言では片づけられない落とし穴がそこにはあった。これは決して私たちの世代にとって他人事ではない。誰でもこの穴に突然落ちていく可能性がある。その恐怖感が、じわりじわりと同じ世代に迫ってきているように感じる。

本当に“豊か”な社会に変える

自死は減っている、ホームレスは減っている……こうして数字の裏側に追いやられてしまった声が、これまで切り捨てられてきた。“居場所作り”の声が若手の候補者から挙がってくるのはある意味自然な流れなのかもしれない。

社会が抱えている問題は、残念ながらたくさんの人に認識されなければ、“問題”として扱われることがない。けれどもその“問題”を抱える当事者は、ほとんどの場合自ら声を出せない立場にある。大切なのは、その現実を見据え、“変えてほしい”という思考ではなく、“変えていきたい”という能動的な気持ちの集まりだ。「投票」は、その意思表示なのである。

著者プロフィール

安田菜津紀
やすだ・なつき

フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる -ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。共著に『アジア×カメラ 「正解」のない旅へ』(第三書館)、『ファインダー越しの3.11』(原書房)。上智大学卒。

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