ポリタス

  • 視点

選挙の空気から考えてみよう

  • 塚越健司 (学習院大学非常勤講師)
  • 2014年2月5日

すでにポリタスでは識者の様々な主張とともに、候補者の政策なども公開・検討されている。そこで筆者は各候補者の政策や選挙争点ではなく、選挙に伴う空気の問題を考察したい。

空気とは

山本七平が1977年に『空気の研究』を発表してからすでに35年以上の日々が経過する。山本は太平洋戦争当時の政府首脳陣のやりとりの中に、場の空気の読み合いの中で論理や合理性が排除され、言いたいことが言えなくなる日本人の習慣を読み取った。

日本を覆う巨大な空気が、合理性を超えた力をもって我々の意識を拘束するという事実は、学校の教室や会社の会議において我々が常々感じていることだ。空気を前に我々が考えることは、問題の是非ではなく、どのボスに従うことが自分に有益かという論点に矮小化される。この点において空気は一人一人が問題に向き合う思考力を奪う。

車内マナーとミウチ空間

空気問題はさらに複雑だ。近代以前は共同体中心の生活を送っていた日本人は、近代化を背景にした人間関係の希薄化を経て、共同体や世間の目の圧力はよくも悪くも相対的に低下した。電車内の携帯電話マナーの悪化はそれを象徴している。公共空間である電車内にいながら他空間にいる個人と会話するという行為は、公共空間への配慮の欠如であり、その場に居合わせた人々の存在を無視する行為であるからこそ、我々は電車内の通話に不快感を覚えるのだ。車内で電話する人は、その場を世間とは感じていない。ここでは読むべき空気からの自由=逸脱が生じている。

世間や共同体の目から「自由」になることで、人々が公共空間のルールから「自由」に逸脱する一方、友人や会社内といった自分に直接関係する「ミウチ空間」では、合理性を排した壮絶な空気の読み合いを強いられるのも事実だ。人はその場その場で空気の読み方が変化する。この両極端の空間認識に立たされたこの社会の中で、さらにインターネット空間が介入するとどうなるか。

インターネットと政治

ミウチ空間と公共空間の認識ギャップの中で、都知事選への関心はどうなるか。テレビでは1月30日に主要候補者4名の討論が放送された。また原稿執筆現在未視聴ではあるが、ネットでも2月1日にニコニコ動画で大規模な討論会が行われる。ネットはミウチの空気を気にせず物事を判断できると思われていることから、ネットの意見を参考にする有権者も多いと推察される(本稿もその意見の一つだ)。

ただしネット上では、これまた公共空間とは異なるネット独自の空間が生じている。簡単に言えば、脱原発中心のグループや原発推進グループといった、趣味や政治観を媒介にしたミウチ空間の乱立であり、それらのグループが一斉に議論を交わす場はほぼ存在しない。憲法学者のキャス・サンスティーンが述べるように、インターネット空間においても同一意見を持ったグループが集まると、より同一意見への偏りが強化される「集団極化」が生じる。すると皮肉なことに、むしろ自由だと言われるネット空間の方が、同一意見で満たされることで、個人の思考力を奪い偏った意識を醸成するという結果を招きかねない。

空気や同一意見の大合唱に縛られるミウチ空間は、現実空間だけでなく趣味や政治意識を共有することでネット空間にも浸透する。ネットは参入離脱が現実空間以上に自由であるからミウチ空間=空気に縛られないとの意見もあるが、一度ある意見を良いと感じることで、他の意見を排斥する力はネット空間に顕著に現れる。

では政治に意見を持たないノンポリ層の政治意識はどうなるか。そもそも投票に行かない層は別としても、政治に意識を持とうとしても関心を持てない層は、ここでもネットの意見を重視するというよりは、ネットで交わされている問題の「空気」を読み取ると思われる。なぜなら、各候補者の政策をみても、それが何を意味するかを十分に理解できなければ、またそうであっても自らの意見を持つことは困難だからだ。するとここでもまた、合理性を排した空気への迎合が生じることで、「この候補者がいい(という空気)」といった結論となる。残念なことに、我々は人々の意見を参考にすると言いながら、実際には意見とともに、それに伴う空気を感じることに焦点を置いてしまっているのだ。すると問題は、如何に空気を操る者が多いかが選挙の命運を握ることになる。当然マスメディアを掌握することは、大きな要因となるだろう。

もちろん、他者の意見がなければ自らの考えを練り上げることも難しいのは事実だ。とはいえ、いずれにせよ我々は何を正しいと感じ、何をすることが自己決定であるかという認識を持つことは、限りなく不可能に近い現状にあるといえる。そこで我々に少なくとも必要とされることは、個人がどう意見を持つか、ではなく、空気が何によってつくられ、何に人々が動員されていくか。その原理を理解することではなかろうか。

おわりに

ここまで現代社会における人々の空間認識ギャップや空気の問題を指摘した。筆者はだからといって「みんなもっと頭良くなって考えようぜ」といいたいわけではない。むしろそのような不透明な目標は、かえって人々の意志を挫くことにもなりかねない(筆者だってそんなこと他人に偉そうに言われたくない)。

筆者はそうではなく、どういう空気がある問題に対して生じており、それはどの程度合理性が排されているものなのかを少し冷静にみてみようと言いたいだけだ。何が正しいかを自分で決めるのは難しい。だが、どういう空気が作用し、自分もそういう空気感を感じているかどうかは、自己の意志決定に比較すれば容易なはずだ。この点から空気と合理性の度合いを検討することは、自分の意見を持たないまでも、少なくとも選挙に限らず物事を客観的に考察することが可能ではなかろうか。

現実世界でもネット空間でも、とにかく声を大きくあげることで空気が醸成されることは多い。都知事選に対して自分が何をどう考えれば良いのかわからないと思う人は、まずはどういった空気がマスコミや自分がよく覗くネット空間で生じているのかを、主張の是非に関わらず検討してもらいたい。政策内容や論理も重要であるが、支持・不支持を取り巻く世論や動員といった論点に着目してみるのはどうだろうか。

著者プロフィール

塚越健司
つかごし・けんじ

学習院大学非常勤講師

1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。ハッカー文化等を中心に研究。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』月曜「ニュースクリップ」コーナーにレギュラー出演中。

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