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大声を出す時期は終わった。忘却に抗い、考え、議論し続けるしかない

  • 開沼博 (福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員)
  • 2014年2月8日

今回の選挙について、既に新聞などいくつかのメディアから取材を受け、答えてきたことを中心に、以下いくつかの論点についてまとめておく。「新しいリベラル」、原発の争点化の是非、あるべき議論、3.11後の原発論争の推移と今後の見通しについてが主な内容だ。

本稿の大部分が原発に関する論点になっているので、はじめにそれとは関係ない論点を手短に提示したい。

「新しいリベラル」

今回の選挙に関して、「リベラルはもっとしっかりしなければ」「リベラルに失望した」「新しいリベラルが必要だ」などの議論を幾度か聞いた。この議論自体はかねてよりあったものだが、とりわけ2012年末の衆議院選の頃から増えてきたように感じるのは、当然、盤石な自公政権が成立する一方で民主党・社民党の衰退が明確になったことがあるだろう。議会レベルにおけるリベラル勢力の衰退がそういった意識を喚起したという背景もあるはずだ。そして、今回の選挙においては、その「新しいリベラル」待望意識と相まって、「宇都宮支持か、細川・小泉支持か」といった「脱原発議論に関心が高い層」内部での内紛も絡み、より議論が高まるきっかけが増えたということが想定される。

今回の選挙を見ながら、「新しいリベラル」がいないことに失望する見方もあるが、私は必ずしもそうは思っていない。それは、例えば、欧州の国々の政党やその内部にある思想の潮流の状況を俯瞰し直すと、今回の選挙は結構「新しいリベラル」的な要素が出揃っている選挙であるようにも見えてくるからだ。

ここでは、雑駁ではあるが、私が今回の選挙に「新しいリベラル」の可能性を感じる背景を整理してみよう。

まず「新しいリベラル」待望とは、「古いリベラル」への失望と表裏の関係にあることは言うまでもない。「古いリベラル」を整理しないことには「新しいリベラル」とは何かを明らかにしていくことはできない。

「古いリベラル」とは、具体的に日本で言えば共産党や社民党のようなイメージに近い。それは55年体制下で機能していた、マルクス主義を理論的背景にもち、労働組合や学生運動を主要基盤としながら営まれる「リベラル」を指す。その出自から、「労働・雇用」に関するテーマの追求を得意とし、広く資本・体制側の議論に反対・対案を示していくことを基本スタンスとする。

ただ、55年体制下の「古いリベラル」には、大きな転換点があった。それは、1970年前後を境目に世界的に起こっていくエコロジーやマイノリティへの関心の推移だ。例えば、日本でも60年代末に学生運動が最も盛り上がるとともに急速に衰退し、一方で水俣病が公に知られるようになって公害問題が意識されるようになった。そして、「環境の問題」や、そこともつながる福祉・文化・人権・ジェンダー・第三世界などを含む「生活の問題」にも、「古いリベラル」の目が向けられるようになっていった。同様の変化は欧州先進国でも同期するように起こっていて、70年代から80年代にかけて、各国にエコロジーが根付き、「緑の党」が生まれ、その安定的な支持者も一定数でてきた。その層は、衰退傾向にあったマルクス主義的背景に基づく政治運動の中から出てきている場合もある。一方で、既成政党の政治家出身者が合流したり、一般市民を支持基盤としている場合も多い。この流れは「赤(共産党)から緑へ」とも呼べるだろう。

とは言え、国によって、政党の体裁をとっている場合もあればそうでない場合もある、様々な形式で「赤」はいまでも残っているし「緑」も様々な変化を見せている。ちょうど、日本で言えば、環境政党や市民運動に支えられる党を目指そうとしてきた社民党の歴史がそれにあたるだろう(しかし、それは欧州におけるほど確固たる成果は出してこれなかったと言わざるを得ない)。

そのような中で、近年、「赤」でも「緑」でもない、別な観点から生まれつつある「リベラル」と言ってよいだろう勢力が存在する。それは海賊党だ。海賊党は、著作権における自由の確保や、ITを用いながら直接民主制的と間接民主制を混ぜあわせ、より意見吸い上げ機会を増やすことで満足度の高い政治の実現を目指す「液体民主主義」などを主張する政党だ。要は、IT・インターネットを用いて社会をより自由にし、満足度をあげることを目指す勢力とも言える。しかし、コンセプトは新しく、広く注目を集めてはいるものの、議会レベルではまだ泡沫候補止まりのことも多く、具体的な議席獲得は極めて限定的だ。

最後に、これら、「赤」・「緑」・海賊党といったリベラル側に対して、右派や保守、中道としていかなる勢力がいるか。

一つは、業界団体や宗教団体、地域共同体といった保守的な「中間集団」による固定支持層を地盤とした勢力だ。英・保守党、独・キリスト教民主同盟のような大政党がそれにあたるし、日本で言えば、自公政権がまさにそうだ。また、多数派をとることはなくても、議会に一定数議席をとる極右政党、あるいは排外主義的主張や軍事的に強行姿勢をとる議員はそれぞれの国に一定数いる。

さて、ここまで「古いリベラル」からはじまり、大雑把に欧州の国々の政党やその内部にある思想の潮流を俯瞰して整理してきた。こう見てくると、海賊党・「赤」・「緑」・保守的「中間集団」・右派といった主要な思想潮流の枠組みが、(多少我田引水な部分もあるかもしれないが)、実は今回の選挙の候補者たちに当てはめ可能であることに気づく。

家入一真:海賊党
宇都宮健児:「赤」
細川護煕:「緑」
舛添要一:保守的「中間集団」
田母神俊雄:右派

そう考えた時、ただ「リベラルはもうだめだ」「新しいリベラルを!」と嘆くだけではなく、そこを一歩越えて状況を捉え直す可能性があることに気づく。

冷戦崩壊から20年経つ中、世界的に静かに生じつつある一つの政治的枠組みの大きな変動が、日本にも多かれ少なかれ来ている。その流れの中でいかに理想的な政治体制をつくり上げるのか、思考し続けることが試されているのではないだろうか。

以下原発に関する議論だ。

原発の争点化の是非

今回の選挙において、「都知事選で原発を争点としていいのか、否か」という議論が様々な形で繰り返されてきた。「国策を地方自治体が決めるべきことではない」「いや、東京だって電力消費地として関わるべきことだ」などと。

私は「争点としても別にいい」が、だとしても、「それを主張することが必ずしも生産的な議論に結びついているわけではない」と考えている。

まず、「争点としても別にいい」について。

日本の政治・行政を見渡せば、地方自治体が「地方の問題」を超えた議論に踏み込むことは多々あることだ。例えば、日本全国に「非核平和都市宣言」をしている自治体があるように、平和・核廃絶、環境・公害、差別、男女共生など、本来ならば国として、あるいはグローバルに議論すべき、普遍的なテーマに手を出すというのはありがちなことだ。また、そうした理念的なことに留まらず、地元の商店を守るためにデパートや大型スーパーなど大規模小売店舗の進出を止める条例を自治体が独自に作ることで、公平性などの観点から国ともめるような自治体もある。

逆のパターンも言える。日本の戦後政治は、国が「国の問題」を踏み越えて「地方の問題」に過剰に手を出してきた傾向にあると評価する見方もある。例えば、「『国の問題』とは本来は外交・防衛・通貨管理など最低限のことに絞られるべきであって、それ以外は地方自治体や民間企業・組織に任せるべきだ」という「小さな政府」を志向する政治的主張がある。その立場からすれば、本来、「国の問題」を語るべき国会議員が、例えば田中角栄の政治のように、地方に新幹線・高速道路・原発を持って行くぞなどと、国政の場を舞台にしつつ常に地元の支持者に目を向けて動くのは、「本来業務」とは違った「地方の問題」への過剰な干渉に他ならないという主張もあり得る。

いずれの事例も、事実として、日本の政治が必ずしも「国の問題」「地方の問題」を明確に区分できる状態で運用されてきたわけではないことを示す。「国策である原発を一地方自治体の選挙に過ぎない都知事選の争点としてはいけない」という主張は、確かに実現できることなら実現すべき理想なのかもしれない「原則論」ではあるが、事実に則した時に、必ずしも根拠の確かなものではない。そこには、「国の問題」と「地方の問題」の境目は曖昧にされながら政治が行われてきた歴史があるからだ。少なくとも、民主主義や選挙制度のルールの内側で行われている以上、それを争点とすることは自由だ。

あるべき議論

一方、だからと言って、「それを鬼の首をとったようにドヤ顔で主張することが、必ずしも生産的な議論に結びついているわけではない」とも考えている。

生産的にするためには「当事者意識から始まる具体的な議論」をすべきだ。

「原発を論点とすべき」派の方々の主張を見ていくと、その多くが「電力の巨大消費地たる東京でこそ原発のことを議論すべきなのだ」「東京だって原発事故によって生まれた放射性物質が飛んできたし、避難してきた/していった人が一定程度いるんだ」と「当事者性」を強調している。

なるほど、確かにそういう見方もできるだろう。であるならば、「当事者性」を持ってできるであろう具体的な議論を深めるべきだ。

例えば、「仮にコスト高になるとしても都内では原発由来の電力は一切使わないよう技術的・制度的条件を整え、そのための条例を作る」「原発が生み出す問題の解決に向け、最大の懸案事項である使用済み核燃料の最終処分場を、まず都が引き受ける」などと。あるいは、再生可能エネルギーや火発の活用に言及する候補者がいることは評価できる。ただ、それならなおさら「では都内のどこに何をどれだけ作るのか」など、実現可能性を示す必要がある。仮にそれが本当に都民の支持を得られる合理的な主張になると思うなら、土地を確保し、地域住民の合意をとり、そのプロセスに必要な時間と費用を算出し提示すべきだ。そういう「ある政策を実現するために何を負担するのか」という現実的な議論を深めない限り、定義の曖昧な「脱原発」という理念は、「メリットは受けたいけどデメリットは誰かがかぶってくれるだろう」という他人任せのマジックワードであり続ける。「もしそこに踏み込めば票を減らしてしまいそうだ」とあえて触れないでいるのだとすればそれは「実態のない人気取り」に過ぎない。

無論、現実的な議論を深める必要性について、小泉純一郎的な「権力を握り、方針を決めさえすれば、あとは誰かが考えてくれる」型の主張もあるだろう。これまでも、原発に関する議論においては「細かい議論は後からでいい。まずは声をあげることから全てが始まるんだ」などと具体的な議論をしないことを手放しで(自己)肯定するレトリックは繰り返されてきた。ただ、事実としてそのパターンで3年近くやってきて、具体的な議論の進展がないどころか、事態はただ単純に以前の状態に戻りつつある現状を直視し、結果を見れば、それが「思考停止を肯定する方便」に過ぎなかったことを引き受けなければならないだろう。

また生産的な議論のためには「原子力政策の特異性を踏まえた議論」も必要だ。

既に他の論者も指摘していることだが、都知事が都政の中で原発をどう議論しようが、制度上、原発政策の大きな方針には何ら影響を与えることはない。「いや、都知事選の結果が現政権に影響を与えるんだ」という主張もあるが、仮に脱原発を訴える候補が勝ったとして、現時点の状況から民主党政権がとろうとした以上の「脱原発」的な政策転換をもたらすシナリオを想定することは難しい。「脱原発候補が勝てば、自民党内の隠れ脱原発派が小泉と共鳴して声を上げはじめ」などと希望的観測を繰り返す方々もいるが、その程度でオセロが一気に反転するような状態なのだとすれば、すでに「脱原発」方針は実現されているはずだった。

具体的に原発政策に影響を与えるためには、二つのスイッチを押す必要がある。一つは中央にあるスイッチだ。民主党政権はエネルギー政策における原発政策の大きな方針転換を閣議決定しようとしてし損なった。一度決まればその大きな方針を覆すことは容易ではない閣議決定などを中央ですることが重要だ。

もう一つは地方にあるスイッチだ。原発政策は、制度上、とりわけ原発立地自治体の首長に強い権限が与えられている。例えば、直近の安全審査などに関する新潟県・泉田知事の動きがそうだし、10年ほど前、福島県の佐藤栄佐久知事(当時)が原発の稼働停止方針をとった時もそうだが、原発の稼働に向けたプロセスは首長の判断に依存している。

もし、都知事・都民の立場から、原発政策を動かしたいならばこの二つのスイッチのいずれかを、遠回りをしてでも押しに行く必要がある。

例えば、「原発立地自治体の電力以外の代替産業の育成を都税を使ってでもやる」という方針がある。なぜそれが必要なのかピンと来ない人もいるだろう。(この議論は2011年6月刊行の拙著『「フクシマ」論』以来、述べ続けていることであり、ジャーナリストの武田徹さんはじめ同様の議論を提示してきた人もいるので細かいことはここでは触れないが)わかりやすい事例をあげるならば、3.11から現時点まで、原発立地自治体の首長選で脱原発を掲げた候補が勝った例は一例もない。原発立地自治体は、いわば「民主的に」原発を再選択してきている。そこには、「結局、電力以外の代替産業がないうちは、どうにも現状維持以外に選択肢がない」という立地自治体の置かれた社会構造がある。これを直視しすることなしには、地方のスイッチを押し、民主的にその方針を動かすことはできない。そうできてこなかったのがこれまでだし、都知事選においても一切そういった特異な制度を踏まえた現実的な議論はでてきていない。

よって、「都知事選において、原発を争点としても別にいい」が、だとしても、「それを主張することが必ずしも生産的な議論に結びついているわけではない」ということになる。

3.11後の原発論争の推移と今後の見通し

「原発を争点としてもいいか、否か」という議論は一見、表面的には新しいようにも見えるが、内実はもはや陳腐化した「脱原発か否か」という二項対立型議論の焼き直しに近づいてきている側面もあるだろう。端的に言えば、脱原発を言いたい人が「原発を争点としてもいい」と言い、それを止めたい人が「原発を争点としてはダメだ」と言う強い傾向がそこにある。

3.11から現在まで続く二項対立型原発論争は、1970年代から延々続いている原発否定/肯定論争の焼き直しでしかなかった。3.11前の議論も、3.11後の議論も、何も新しい論点を生産できず、政治に実質的なインパクトを与えず、むしろ、感情任せに何かを糾弾する方々の声ばかりが響く中、安全確保や現実的な将来像を構想するための冷静な議論をする場を壊してきた側面は否定できない。今回も選挙も、その結果自体がいかなるものであろうとも、これまでの歴史の不毛な再生産となるのかもしれない。

東京で盛り上がる選挙において、「脱原発か否か」という議題設定が形を変えつつ、反復・再生産しているのだとすれば、もはやそこには明確な縮小再生産の傾向を見ざるを得ない。

「脱原発vs必ずしもそうではない主張・勢力」の対立構造を、選挙を基準にあらく整理すればこうなるだろう。

3.11の衝撃によって生まれた原発論争、あるいはそこに仮託された、原発に限らない、より広い意味での社会変革への願望は、はじめは官邸前デモのような直接民主制や「未来の党」をはじめとする「第三極政党」のような「最も左端から既成政党が為す政治の基盤自体を揺るがすこと」を目指す勢力に託された(「直接民主主義派&革新新政党vs既成政党」)。しかし、2012年末の衆院選はそれが夢にすぎないことを示し、大衆的な熱を冷ました。

それでも、と残った根強い願望ももちろんあった。しかし、2013年夏の衆議院選において、その受け皿となりうる、ならざるを得ない民主党らも、「原発が争点」と言いつつ、やはり大敗を喫した(「既成政党革新派vs既成政党保守派」)。

そして、2014年頭の都知事選では、もはや、「直接民主主義派&革新新政党」や「既成政党革新派」を象徴するような方々は顔を見せなくなる一方、小泉純一郎が登場し「原発が争点」というカードを切ってみようとしている(「既成政党保守内革新派vs既成政党保守内保守派」)。

このカードは、一見、選挙に勝つために極めて有効そうに見えるが、実際に使ってみると無効であることに多くの人が拍子抜けしてきた奇妙なカードだ。また、「原発が争点」カードは左から右へと受け渡され、これ以上右には誰も残っていないように見える。

仮に、この都知事選においてすら「原発が争点」というカードが選挙で使えないことが明確になってしまうのだとすれば、もはや、これ以後の選挙において、「脱原発か否か」という主張は主要論点として議題設定されることはなくなってしまうだろう。つまり、「原発が争点」「脱原発か否か」という、この3年間続いてきた議題設定は、少なくとも東京での選挙においては、今回が最後となるのかもしれない。

今後はどうなるか。再稼働や最終処分場などに関する問題が浮上する度に、選挙や政党ではなく、(もちろん、これまでもそうであったが)メディアが主要な議題として議題設定をしていくことになるだろうが、それがどれほど政治的なインパクトを持ちえるのか、あるいは持続可能なのかはわからない。むしろ、政府・与党は、今回の、あるいはこの3年間繰り返されてきた「原発が争点」「脱原発か否か」という議題設定の元での選挙で、結果的に見れば立て続けに、民主的に勝ってきたことを「我々の提示するエネルギー政策は信任された、民意を得た」と喧伝し、それが政治的決定において有効に作用することの可能性のほうが高いだろう。

大声を出す時期は終わった

上記のような現状分析に、不満や違和感を覚える人もいるだろう。

一つは論理や解釈の矛盾へのそれだ。その点での個々のご批判は受け入れよう。

もう一つは「認知的不協和」的なそれだ。「認知的不協和」とは、自分の中にある認知(論理的にこうなるに違いないと思っていること)がある時に、それとは矛盾する認知を知らされた状態やそのときに感じる不快感のことだ。

例えば、もう前々回になってしまうが、2011年の都知事選で石原慎太郎が圧勝したことに対して「TwitterとかFacebookを見ていたら、今回こそは絶対石原が負けると思っていたのに‥」と不満や違和感を訴える人を少なからず見た。TwitterやFacebookを見て、同じような指向性をもった人同士で作り上げられた認知は一つの幻想であり、その幻想=認知を現実が裏切り、補正した結果、認知的不協和が起こったと言えよう。

上記のような現実に沿った現状分析は、幻想に寄りかかり続けようとする人にとって「認知的不協和」を起こしやすい。そして、原発論争は他の政治的イシューに比べて幻想を投影しやすい。私はこれまであえて「認知的不協和」を起こしやすい議論を提示してきた。3.11前から原発と社会の関係を研究する者として、幻想を現実に引き戻して生産的な議論を促進し現実を是正する必要、義務を感じてきたからだった。しかし、上記のような一つの節目となる帰結に現状分析が至らざるを得なかったことを鑑みれば、そういった3.11以後の一貫した意図は一定程度は達成されたものの、一定程度以上に、大勢に影響を与えるほどにはならなかったと反省もしている。

最後に、ただ「認知的不協和」をはねのけ、現実を受け入れた上で、不満や違和感を主張する人もいるだろう。おそらくそれは「現状はわかった。じゃあ、どうすればいいんだ!」「選挙の直前になってこのような議論を提示されてもどうしようもないではないか。今後なにが必要なんだ?」という類の、今後の指針を求める不満や違和感だろう。答えは明確だ。「大声を出す時期は終わった。忘却に抗い、考え、議論し続けるしかない」。ほんとうの意味で社会に必要な原発に関する議論は、3.11以後、何も進んではいない。いや、むしろ後退したと言ってもよい。安全確保や現実的な将来像を構想するための議論はこれから持続可能な形で始めなければならない。

他の論者の方々には後出しジャンケンになって申し訳ないが、私は、いまこの原稿の締めを選挙直前に書いている状態で、ここまで様々な議論の展開を見、メディアの取材に応え、その都度情報収集をする機会にも恵まれた。既にマスメディアや政党・支援者は情勢調査を重ね具体的な得票予測の数字を持っていて、その数字を聞けば、すでに選挙結果の方向性はだいぶはっきりと見えていると言わざるを得ない。ただ、「だから選挙は既に終わっている」などと言うつもりも毛頭ない。

言うまでもなく、政治は選挙が終わった時からはじまる。だから、私たちは投票結果を待ちながら改めて認識しなければならない。「大声を出す時期は終わった。忘却に抗い、考え、議論し続けるしかない」。

著者プロフィール

開沼博
かいぬま・ひろし

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員

1984年福島県いわき市生まれ。読売新聞読書委員(2013-)。復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員(2013-2014)。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(同、佐藤栄佐久氏との共著)、『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店、編著)など。学術誌の他、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポ・評論・書評などを執筆。第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

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