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家入一真の冒険は2月9日から「はじまる」

  • 宇野常寛 (評論家)
  • 2014年2月8日

今回の都知事選について、僕の関心はひとつしかありません。それは家入一真がどこまで票を伸ばすことができるのか。この1点につきます。なぜならば、家入一真は、おそらくこの10年余り続いていた「インターネットで政治を変える」運動の、最後の希望だからです。最後の希望と言ってしまうと、それは大げさに聞こえるかもしれません。しかし、この1、2年で、僕たちがすっと信じて来た「インターネットで政治を変える」可能性は急速に萎みつつあるのは間違いない。

おそらく、インターネットが政治を変えるともっともたくさんの人が信じていたのは、2012年6月前後の反原発デモが盛り上がりを見せた時期でしょう。あのころ、僕らは「動員の革命」(@津田大介)をきっかけに、政治は変わると信じていました。しかし、そうは問屋が卸さなかったのが現実です。

たしかにあの頃、僕らはインターネットの力によって、デモは旧左翼的なイデオロギーと自分探し文化から解放され、カジュアル化することで大衆化を遂げ、あたらしい日本の市民社会のベースを形成するようになるのではないかと期待しました。実際、そうなったのだと手柄を自慢する人たちもいます。しかし、残念ながら僕にはそうは思えない。時間が経つにつれ、明らかになっていたのはやはり旧左翼的な運動の硬直性と、あれほど80年代に、あるいは90年代に古い政治性からの自由を訴えていたサブカルチャー・キッズたちが手垢のついた左翼性に、加齢とともに回帰していったさまだったのだと思います(僕が多少関わりのある、いわゆる「文化系」の業界にはいわゆる「放射脳」が多くてうんざりします。ちなみに、僕自身は将来的には原発ゼロが望ましいと考えていますが、彼らの思考にはついていけません)。

この状況に止めを刺したのが、2012年末の衆議院総選挙と、続く2013年夏の参議院選挙だったのだと思います。特に後者ははじめてインターネット選挙運動が解禁された選挙だということもあり、非常に注目を浴びました。しかし、結果を見る限り、この選挙は現時点での日本のインターネット文化がいくら政治化しても、「ネトウヨ」と「放射脳」しか得をしないということを証明してしまったとしか言いようがありません(象徴的なのが東京選挙区における鈴木寛の落選と、山本太郎の当選でしょう)。

これは、ソーシャルメディア上の文化人たちがこの数年積み上げて来た「動員」のノウハウにしっぺ返しを食らったものだと僕は考えています。現在のTwitter文化人たちの間で支配的な「動員」は基本的に「炎上」マーケティングです。ワザと極論を投下し、1万人のアンチと1000人のウォッチャーをつくる。そして100人の信者を囲い込む。この反復でフォロワー数を増やしていく。このノウハウが支配的になっているのが現代のソーシャルメディア文化であり、そしてこの文化空間においては「ネトウヨ」や「放射脳」などの陰謀論者が最強なのです。なぜならば、炎上力においては陰謀論者に敵う者はないからです。

いくら革袋(インターネット)が整っていても、そこに注ぐ酒(文化)が未熟ならまったく意味がない。それを証明してしまったのが先の参議院選挙だったと言えるでしょう。

したがって、単純に考えれば、あるいは単にソーシャルメディア上で自分を頭よく見せたいのなら、今は政治的なコミットを放棄してニヒリズムを押し出し、「こんな絶望的な世の中でも俺は希望を失わずに個人的な抵抗を続けるよ」とアピールすればいい。しかしそんなパフォーマンスで救われるのはその人のプライドと、その人に同一化する信者のプライドだけでしょう。

そんな中、家入一真はどう考えてもバカにされる戦いに打って出た。それも、既に8割型破綻した「インターネットで政治を変える」ことを標榜しての出馬です。

家入の視線はインターネットの若者たちに向いています。それは単に家入自身がインターネットの若者たちに「近い」からではありません。彼の発言を注意深く拾えば、いま、インターネットの若者たちの「声」にこそ、いま政治が拾い上げるべきものが存在すると彼が考えているのがわかります。

たとえば「家族」ーー戦後社会は「標準家庭」という言葉が象徴するように、正社員の夫と専業主婦の妻がいる家庭を「標準」として捉え、そこから外れてしまった家庭に生きる人たちにずいぶん生きづらい社会を作ってしまった。共働きもシングルマザーも、昭和の、戦後の、古い日本では「異常なこと」です。家入はインターネットに溢れるそんな「生きづらさ」を拾い上げて、政策に転化しています。これは未だに「サザエさん」から「クレヨンしんちゃん」の間に「家族」のバリエーションが収まると考えている、つまりいまだに「テレビ」を基準に成立している古い日本からはなかなか出て来ない発想です。

あるいは「働き方」はどうでしょうか。テレビの世界では、古い日本では、常に「正社員か非正社員か」が問われています。景気を良くして、誰もが正社員になれる社会を取り戻そうと訴えています。しかし問題の本質は、雇用規制の関係で、今の日本の労働市場では正社員という特権階級が生まれてしまっていることにあります。会社が社会保険からコミュニティまでを保障する時代から脱皮して、同一労働、同一賃金を基本にシンプルに一元化されたセーフティネットと流動化した労働市場を背景に、ひとつの会社に定年まで縛られることのない多様な働き方を可能にしようという議論は、インターネットで強く可視化されて出て来たものであり、またクラウドソーシングなど、こうした生き方を支援するサービスもインターネットから生まれつつあります。

インターネットに足場を持つ、いや、インターネットにしかもたない家入一真はこうしたインターネットの声が、いま政治によって実現されるべき問題を抽出できると信じて行動しています。友人の一人として言えば、いい加減でカラッポな彼には「人の話を聞く」ことしかできません。でも、それでいいのだと僕は思います。

家入は政治を通じて「居場所」をつくりたい、と度々口にしています。それはとても素敵なことだと、僕は思います。なぜならば、今の日本には古い、戦後的な「会社(学校)」や「家庭」だけが国家に保護された居場所で、そこからこぼれ落ちた人は野ざらしになってしまう「居場所のない社会」だからです。そして、そんな古い居場所に席を見つけられなかった人たちは、自分と社会(国家)がつながっているという実感が持てません。テレビのニュースを見ても、政治家の演説を聞いても、自分の住んでいる社会だとは思えませんし、選挙に行っても「この1票が世界を変える」と信じられません。

しかし家入一真は「居場所」というキーワードを通して、この問題にメスを入れようとしています。個人と国家、個人と世界をつなぐものとしての中間のもの=居場所(学校、会社、家庭)のバリエーションを増やし、再構築しようとしています。家入一真は「居場所」をつくることで、もう一度個人と社会を結び直すそうとしているのだと思います。

たしかに今の日本はバラバラです。しかし、それを昔のやり方でーーたとえば6年後のオリンピックにテレビを通じて国民を夢中にさせることでーーひとつにしても、僕には意味があるとは思えない。そんな古い「絆」からは、こぼれ落ちる人たちがあまりにも多いからです。

選挙前に、僕は家入とこんなことを話していました。オリンピックという体育祭には乗っかれない僕たちのようなマイノリティのための文化祭を、2020年にやれないか。変則開催されるであろうコミケを中心に、マンガでもゲームでもアイドルでも何でもいいので、日本のサブカルチャーのイベントを2020年の夏に同時に、集中的に開催して五輪目当ての外国人観光客達と一緒に盛り上がることはできないか。そう、これが彼の「120の公約」の中にある「裏オリンピック」の原型です。

これは単に「僕たちの好きなサブカルのイベントで盛り上がりたい」というコトではありません。既存のオリンピックのようなみんなが同じものに夢中になって盛り上がるタイプのものとは違った「つながり方」を、あたらしい「絆」のかたちを作り上げよう、という企画なのです。

そして何より、僕が今回の「家入祭り」を支持するのは、それが一瞬の「祭り」で終わりそうにない点です。

今回の家入祭りはインターネット上の「祭り」であると同時に、長い間溜まって来た「新しい政治」への要求が爆発したものです。そしてその背景にあるのは、社会趣味の人たちの自分探しではなく、この10年で可視化されて来た新しい日本人の新しいライフスタイルです。新しい家族形態であり、新しい働き方であり、新しいメディア消費です。「義の言葉」ではなく「生活の言葉」であり、非日常の言葉ではなく日常の言葉です。そして、祭り=非日常が一瞬で終わっても、生活=日常は永遠に続きます。

したがって家入一真の次の課題は、この選挙を通じて集まった人たちの声と力を集めて何をやるのか、だと思います。彼がどれだけの票を集めるかわかりませんが、それが5万票でも10万票でも、その人数から出発して僕らはゆるやかに連帯し、やれることから手を付けていくべきだと思います。それをやらないと、家入一真も盆凡百の炎上マーケッターと変わらない。しかし僕の知っている家入という男はそんな奴じゃありません。

もちろん、当選できるに越したことはありませんが、ダメだったら「やっぱりネットで社会は変えられない、はい、解散」ではなく、その日から「このネットワークを使って何ができるか」を考えるべきだと思います。じゃないと、夏の参院選の二の舞いです。夏の参院選はとにかく意図的に「祭り」「炎上」を起しては1万人のアンチと引き換えに100人の信者を生み、それを何度も反復して勢力を拡大するというSNS第一世代の「新しい動員」手法の敗北だった。これからはそれを反面教師に、持続可能なコミュニティをつくっていくしかありません。

この「家入祭り」がこうした2013年以前の「炎上マーケ的〈新しい動員〉」の反復で終わるのか、ネット世代が持続的に団結する運動のきっかけになるのか、いま、われわれはとても微妙なところにいるはず。もちろん僕は後者につなげていきたいと思っているし、その目は十分にあると思います。家入一真の冒険は2月9日からはじまる、そう僕は考えています。

著者プロフィール

宇野常寛
うの・つねひろ

評論家

1978年生。評論家/批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)。『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)。『日本文化の論点』(筑摩書房)、『原子爆弾とジョーカーなき世界』(メディアファクトリー)。共著に濱野智史との対談『希望論』(NHK出版)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)。企画・編集参加に 「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポップカルチャー学部非常勤講師、オールナイトニッポンゼロ金曜日パーソナリティも務める。

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