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なぜ都知事選から、子どもたちの姿が見えないのか?

  • 乙武洋匡 (作家・東京都教育委員)
  • 2014年2月2日

2月9日に行われる都知事選。「しっかりとした政策論争を」との声が聞かれるが、私が最も重視する「教育」について熱く語る候補者はほとんど見受けられない。

仕方がない面もある。「この国を戦争に向かわせたのは、戦争を肯定する軍国主義教育にも責任があった」という反省を踏まえ、現在では「教育の政治的中立」が原則とされているからだ。もちろん、教育委員や教育長の任命権は首長が有するなど、政治は教育に一切関わることができないというわけではない。だが、それでも戦後日本では、政治と教育が一体化しないよう、一定の配慮がなされてきた。

だが、政治はいつまでも教育に無関心であっていいのだろうか。私には、そうは思えない。たしかに、公立の学校教育については各自治体が設置する教育委員会の所管となっており(東京都なら東京都教育委員会)、予算や人事を除いて、政治が介入することは許されていない。しかし、「教育」とは学校教育だけではないはずだ。

3年間、公立小学校にて教員を務めた。教師という立場で最善を尽くしたという自負はあるが、同時に教師という立場での限界も感じた。たとえば、担任するクラスの子どもたち。突然、忘れ物が多くなった、授業中におしゃべりするようになった、友達に暴力をふるうようになったなど、彼らの行動に著しい変化が表れることがある。どうしたのだろうと事情を聞いてみると、家庭において何らかの環境の変化があったというケースがほとんどだった。しかし、担任という立場では、家庭の問題に深く入り込むことができない。結果、子どもたちの悩みの根源である部分には触れられず、対症療法のようなケアしかできずに、もどかしい思いをしたという事案も少なくなかった。

子どもたちが育つ場は、学校だけではない。家庭と学校、そして地域——この三者がそれぞれの役割を果たしながら、子どもたちを見守り、育てていくことがいかに重要であるかを実感した。「教育」と言うと、すぐに学校教育を思い浮かべがちだが、家庭教育や地域教育も、同様に重要なファクターなのである。そして、この家庭と地域に対するアプローチこそ、教育委員会ではなく、政治の出番ではないかと思うのだ。

たとえば、政治にどんなことができるのか。日本でも、深刻な格差が広がっている。とくに、貧困家庭で育つ子どもの学力向上は大きな課題だ。年収1500万円以上の家庭で育った子どもと、年収200万円未満の家庭で育った子どもでは、同じテストを受けても正答率が20%近く異なるというデータがある。つまり、貧困家庭に育ったことで、子どもたちは将来の選択肢を大いに狭められてしまっているという現状があるのだ。いつまでも負の連鎖を断ち切ることができない社会を、私は望まない。

北海道釧路市や埼玉県の取り組みを取材した。これらの自治体では、生活保護を受ける世帯の子どもたちの学習支援を行っている。彼らの親は仕事のために不在であることが多く、塾通いする経済的余裕もない。家でひとり勉強するほかないが、わからない箇所があっても質問できる相手がいない。こうした状況で、学力定着が望めるはずもない。そこで、釧路市や埼玉県は、学生ボランティアや元教師などがこうした子どもたちの学習を支援する仕組みづくりに着手したのだ。埼玉県では、対象者の高校進学率が格段にアップするなど、大きな効果を見せている。

これは、ほんの一例だ。全国には、学校教育の枠組みの外で、子どもたちの学びや育ちを支援する取り組みがあちこちで行われている。首都である東京が、“教育後進地域”になるわけにはいかない。新しい都知事には、ぜひとも教育の重要性に目を向けてもらいたい。

著者プロフィール

乙武洋匡
おとたけ・ひろただ

作家・東京都教育委員

1976年、東京都生まれ。大学在学中に出版した『五体不満足』(講談社)が580万部を超すベストセラーに。卒業後はスポーツライター、杉並区立杉並第四小学校教諭を経て、2013年2月には東京都教育委員に就任。2014年4月には、地域密着を目指すゴミ拾いNPO「グリーンバード新宿」を立ち上げ、代表に就任する。2015年4月より政策研究大学院大学の修士課程にて公共政策を学ぶ。三児の父。

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