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  • 視点

“安倍政権的なるもの”との距離

  • 平野啓一郎 (小説家)
  • 2014年2月2日

東京都民になってから、四回目の選挙である。しかし、投票する前からほとんど結果が見えていた前三回とは違って、今回は、一候補者がさほどに他を圧倒しているわけではない。情勢調査によると(朝日新聞1/26)、舛添、細川、宇都宮、田母神の順で各氏が支持を集めているが、まだ四割が態度未定であり、逆転の可能性もある。現実的にはこの四候補の争いになる可能性が高いが、選挙の意味を考える上では、彼らに加えて家入氏にも注目している。

この選挙の争点は、結局のところ何なのだろうか?

公開された各候補の公約、政策だけを見ていると、実は非常にわかりにくい。オリンピックは既に決定し、子育て支援や高齢者問題、防災など、都としての緊急の課題については、自明のこととして、どの候補も「やります」とは言っている。

そうなると、是非はともかく、選挙の争点は、今の“安倍政権的なるもの”との距離となっているように見える。安倍政権自体が、いつまで続くのかわからないが、続く限りは、都が国と同調的であるのかどうか、政権交代が起こるならば、それでも都に於いては“安倍政権的なるもの”が存続すべきかどうかが、投票行動の背景となるだろう。

政党選挙というわけではない。自民党は、舛添氏を支援はするものの公認はしていないし、実際、“安倍政権的なるもの”の支持者の中には、思想的に寧ろ田母神氏に共感して、投票しようという者もいる。

他方で宇都宮氏、細川氏がそれぞれに支持を集め、しかもその支持が割れてしまっているのも、彼らがアンチ“安倍政権的なるもの”の受け皿だからである。非常に奇妙なことだが、都知事選は大体、前知事の施政に対して、支持か不支持かを争うものだが(現状維持か、変化か)、今回は誰も猪瀬都政の是非については論じようとしない。あまりにも短かったから、というのもあるが。

この構図に、脱原発一本で乗っかろうとしているのが、細川陣営の小泉氏であり、自民党がまさに警戒しているのも、都知事選が安倍対小泉の代理戦争と化すことである。

そもそも、細川氏と小泉氏との“安倍政権的なるもの”との距離感はかなり違うはずだが、その二人が結びつき得るところに、この選挙の一種、逆説的な象徴性がある。

原発は、果たして都知事選の争点にはなるのかどうか、そのこと自体が争点化しているが、私は、争点の一つではあると思う。東京は言うまでもなく、日本最大の電力消費地であり、都は東京電力の株主である。原発立地自治体じゃないからという意見もあるが、どれほど立地自治体の知事が原発廃炉に向けてがんばったとしても、東京の需要が高止まっている限りは、日本の経済がダメになるとか何とか色々言って、原発による供給体制の維持が説かれ、結局、押し切られるに決まっている。東京が変わらなければ、脱原発は実現困難だろう。

大体、地方行政から国政を変えるというのは、この十年ほどの間、散々皆が肯定的に語ってきたことではなかったのか? 石原都政にせよ、私は支持しなかったが、東京から日本を変えるというのが決まり文句だった。原発に限って、これは国政の問題だと切り離すのはおかしな話である。その上で、この問題を主たる争点と有権者が思うかどうかはまた別問題である。

小泉劇場自体は連日、盛況なようだが、その存在感が大きすぎることは、細川陣営にとっては諸刃の剣だろう。細川氏を支持しようにも、強い小泉アレルギーを持つ人はいるし、目立てば目立つほど、傍らに立つと、相対的に細川氏が小さく見えてしまう。当選の暁に都政を担うのは、当たり前だが細川氏である。小泉氏の脱原発はどうも本気らしいが、それにしても、彼のケンカにつきあうべきなのかどうか、迷っている有権者は多いだろう。

私はただ、小泉氏の脱原発の際のエネルギー源の代案など専門家に任せればいいという、無責任の極みのような考えに、実は意外と賛成である。

今日、最も難しい政治課題の一つは、技術革新のスピードとその方向性の極端な予想不可能性にある。丁度、STAP細胞の報道があったばかりだが、数年前の政策立案者は、この偉業を誰も予想出来なかったし、従って、この偉業が存在しない未来、つまり、今となっては既に非現実となってしまったパラレル・ワールドをこそ現実と信じ、政策を考えていた。もちろん、STAP細胞の研究がヒトの再生医療に繋がるかどうかは、まだ先の話だろうが、とにかくこうしたことは、生物学だけでなく、あらゆるジャンルで今後ますます起こるだろう。政治はだから、方向性を決定し、予算配分によってある分野の技術革新を特権的に促進するくらいしかできないじゃないかという小泉氏の意見には一理ある。その決定の根拠として彼が挙げる、原発の高コスト、福島第一原発事故で顕著となった危険性、放射性廃棄物の処理問題、もんじゅの失敗、そしてドイツでの成功例……という数々の点で、私は基本的に同意する。

今回の選挙で、一つ考えるべきことは、有権者が政治家の「変節」をどう見るかである。

選挙に於いては、勿論、何よりもまず、政策を見なければならない。その上で、結局は人を見なければならないというのが、この十年ほど、ろくでもない議員を大量に生み出してきた国政選挙の苦い教訓である。

しかし、有権者は、個人的に知り合いでもない候補者をどうやって見極めるのか? 予測可能な問題に関しては、大体公約で対策が挙げられている。まずそれをその通り実現してくれるのかどうか。そして、予測不可能な事態が生じた時、彼がそれに対処し得るのかどうか。

その信頼性を見るには、現在の候補者だけではなく、ネットの中を駆けずり回って、彼らの過去の言動を確認する以外にない。公的な場での言動もあれば、SNSなどを通じて垣間見られる思想、人間性もあるだろう。

細川氏も小泉氏も、以前は脱原発論者ではなかった。親の介護を通じて福祉の重要性に目覚めたという舛添氏は、2009年の年越し派遣村での「怠け者には税金を使うつもりはない」発言が改めて注目されているし、今回の政策とは整合性がつかない90年代の原発推進発言も取り沙汰されている。

政治家の言動には、重みがある(べきである)。しかし、政治家を過去の言動の奴隷としてしまえば、例えば一度極右的な思想に染まった人間は、考えが変わろうとも、死ぬまで極右的であり続けなければならないというジレンマに陥る。

過去の言動は、当然参照されるべきだが、それは、その人の未来を見るためである。その上で改めて判断する。小泉氏の主張に耳を傾けながら、有権者は、彼がもう一度、「この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と、今度は気楽な応援者の立場で言うのかどうか考えるだろう。細川氏が、またあっさり都知事の職を辞するのかどうか、やはり考えることになる。その上で信じるかどうか。

そうした意味では、対極的ではあるが、宇都宮氏と田母神氏は、立場も主張も一貫している。“安倍政権的なるもの”との距離に於いては、細川氏と宇都宮氏とは近いのかもしれないが、公約だけ見ると、宇都宮氏の方が遙かに具体的で、多岐に亘っている。現実的に可能性がある候補はどちらなのか、最後まで迷い続ける有権者も多いだろう。

本来は、大きな争点がない、というまさにそのことが、打ち上げ花火的ではない、成熟した都知事選を行うチャンスのはずだった。つまり、誰もが共有している子育ての問題や高齢者問題、防災などの問題について、では具体的に、どういうアイディアがあって、どれだけそれに実現可能性があるのか、それを巡って緻密な議論を交わすことこそが重要だったはずである。ところが今は、それらの課題に各候補が一応言及しているというだけで、有権者は政策的には「あまり、代わり映えがしない」と感じている。そこで、思想的な問題に投票の根拠を求めることになる。オリンピックの成功というのは、言うは易しだが、今でさえ公共事業は、人手不足と建築資材の高騰で危機的状況に陥っているというのに、一体どうやって、東北の復興を最優先させつつ、都内の整備を行っていくのか? 議論すべきは、まさにそうしたことである。

私は、ほとんど話題にもならないが、自転車に関しても何とかしてほしいと思っている。震災後、自転車の交通量は目に見えて増えたが、その乗り方はメチャクチャである。環境問題、交通渋滞の緩和、いずれにも有意義であり、また歩行者との衝突による死亡事故など緊急にその危険性を取り除く必要がある割に、まるで重視されていない。細川、舛添両氏の公約には、一応、サラリと言及はあるが。

いきなり自転車の例などを挙げると、いかにも些末な話をしているようだが、繰り返すが、その感覚こそが実は選挙を我々から遠いものにしてしまっている。ベルリンやアムステルダムのように、見事な自転車道が整備されているヨーロッパの都市と比較すると、東京の道路事情は酷いものである。パリでさえ、数年前から自転車のシェアが始まっている。都民が都政に求めるべきは、そうした、日常生活の細々とした実感から出てくる問題であるべきだが、公約としてそれらを無数に列挙することは効果的でないと見做されている。

その意味で、政策はネットを通じて集めるという家入氏の発想は、いかにもいい加減なようでいて、都政とは何かという根本問題をつきつけている。彼の「政治を僕らの手に取り戻したい」という発言は、核心を突いていると思う。

この選挙の根本的なやるせなさの一つは、候補者が高齢者ばかり(そして、男ばかり)というところだが、その点でも、家入氏の立候補は重要なサプライズだった。

著者プロフィール

平野啓一郎
ひらの・けいいちろう

小説家

1975年愛知県生。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書は『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ド-ン』、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『モノローグ(エッセイ集)』、『ディアローグ(対談集)』、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』など。近著は、作品集『透明な迷宮』、エッセイ&対談集『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』。

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