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都知事に必要なのは「垂直」の権力行使よりも「水平」の意見調整能力

  • 武田徹 (ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授)
  • 2014年2月2日

都知事選も公示から時間が経ち、政策論議もある程度進んだと思う。ここから更にもう一歩、議論を深めるためには、このあたりで一度、リフレッシュの機会を挟んでもいいのかもしれない。生々しい票読みや具体的候補への言及から少し距離をおいて、ここでは国と都、つまり国家と地方自治体との関係についての議論を試みたい。

水平的問題解決と垂直的統治

かの吉本隆明が、かつて「国家論」と題した講演で興味深い内容を語っていた。そこで彼は田畑の境界争いを話題に引く。もしも一方の土地所有者が土地境界を越えて耕作を行い、過剰な収穫を得ていたとしたら、土地所有者同士で話し合い、多く獲た農作物の一部を相手に提供するなどの方法で和解することができるだろう、と。この時、両者はあくまでも対等な立場で関わっているので、問題解決方式として「水平的」である。

しかし、この種の争いが増えて、当事者同士では解決できず、傷害事件などが起きるようになると、問題発生を未然に防ぐために法を制定し、違反したものに罰則を定めて戒めたり、重罰を示して被害者の発生を抑止することを期待するようになる。すると境界侵犯は人間関係の中での解決されるものでなく、法という制度に対する違反として取り締まられることになる。

こうして「水平的」な人間関係から「垂直」に立ち上がる「法」こそ「国家」の原型となると吉本は考えた。そして、恣意的に作られたに過ぎない、その意味で「幻想としての国家」が、やがて神聖不可侵なものと崇めたてられるようになり、実質的に人々を支配するようになることを批判するのが吉本の代表作『共同幻想論』の論旨となってゆく。

『共同幻想論』は全共闘運動の時代に一世を風靡した著作だったが、「法」による統治を全否定するところまでゆくとやや行き過ぎの感がある。「国家論」で吉本が語ったように、社会には水平的な人間関係の中で維持される秩序と垂直的な権力の行使によって秩序維持される二つの側面がある。そして人間関係の中で調整・解決できない問題が存在するのも確かで、その解決のために「法」が必要になり、あるいは「国家」を構築すべきケースがある。だが問題解決のために作った「法」や「国家」が新たな問題を作るようでは、確かに吉本が言うように本末転倒だ。だが、だからといって「垂直」的な権力を全否定する必要はなく、水平的な人間関係の中で修正可能な状態に「法」や「国家」を留め、利用できるようにしておけばいいだけの話だろう。だが、実際には垂直的な「国家」が水平的な人間関係と切り離されて実体化されてしまうことはよくある。

国と地方自治体は作動原理が異なる

こうした議論の枠組みは、図式的ではあるが、地方自治体と国家の関係を議論する際にも役立つのだと思う。もちろん地方自治体も議会を擁して条例を制定し、運用させるので「垂直」的要素がないわけではない。国政に関してもそれぞれの地元から議員が選ばれているということでは「水平」的に選ばれているといえる。

しかしそれでも軸足を置くべきところは国と地方自治体では自ずと異なろう。地方自治体はより水平的な問題解決法を重視し、国家は垂直的な解決の役割をより強く担う。そうした異なる作動原理に基づく役割分担があると考えなければ、地方自治体と国家が重なって二重の統治構造をなしている意味がない。都市や地域を統べる首長は「水平」の側の代表者として、その地域に生きる人たちの利害の調整に腐心し、必要とあれば国家による「垂直」的な権力の行使に対しても、住民の人間関係の中で望まれた修正を求めて行く責務を担っているのだ。

そう考える立場から今回の都知事選を見てみる。たとえば争点のひとつになっている原発についてはどうか。国のエネルギー政策が実際の住民の意識に反していると感じられれば、それに異議を申し立てることも必要であり、知事候補者が脱原発を公約に掲げることに問題はないはずだ。衆参のねじれが解決され、自公の圧倒的有利な状況でまともな議論を経ずに国政が動いている状況で、地方自治体が国政に対するブレーキ役を果たし、広く議論を導くことはむしろ望ましいとさえ言える。

知事は東京に君臨する王ではない

ただその際に最も避けるべきなのは、都の立場から他の地元自治体の自己決定に上から圧力を加えるような発言をしたり、政策を選ぼうとすることだろう。都市部の反原発運動に対して立地地元の人は「地方の実情を何もわかっちゃいないのに勝手なことばかりいっている」と鼻白む思いをしてきた。それが311後になってなお地方選で反原発派が勝てずに来た理由である。都がそうした独りよがりを上書きすることは避けるべきだ。もし東京が脱原発を本気で望むのなら、原発を擁する他の自治体との間でもあくまでも水平的な利害調整が必要となる。

東京は原発が産出する電力に支えられて一方的に発展してきた。この非対称な構図は、吉本が例に出した収穫量で差がついてしまった田畑に似ている。そうした非対称性に対して国が提示した解決策が、(一般的には地方交付税制度だが、原発を巡っては、)リスク施設を過疎地に押し付けた代償として財を移動する電源三法交付金制度だった。

過疎を進めた原発立地は、今や電源三法交付金なしには経済もなにもかもが立ち行かない現実に直面している。そして電源三法自体が原発推進を前提にした制度なので、脱原発を選べない結果にもつながっている。そんな状況の中で、豊かで原発を持たない東京都が脱原発を望むのであれば、たとえば電源三法交付金相当の額を東京都が独自に立地地元に供出する。経済的な観点からはこれほど簡単な話はない。電源三法の枠組みから離れてなお経済的自立を確保できるとあれば、今度こそ原発立地も脱原発に踏み出せよう。しかし、福島での五輪開催などはそれに近いアイディアなのかもしれないが、夢物語のレベルを超えて実際に財を地方に譲るとなった時に、都民がそれを許容できるかは未知数であり、そこでも地道な水平的な調整が避けられないだろう。その過程で、これほどの負担が強いられるのであれば、原発の安全性を高める方向で解決しようとする声が多数になることもあるかもしれない。

一方で原発依存体制について継続を表明している候補も安穏とはしていられない。議席数では多数派を背景にしているとはいえ、原発への不安の封は切られてしまったのであり、、今までのように無風状態の中で国策の原発推進を「垂直」に地方自治体に下ろして来て済ませるわけにはゆかない。都政の混乱を避けるには、こちらも「水平」的な意見調整が必要であり、その過程を通じて推進の立場自体が修正されることもあるかもしれない。

実は原発は本来こうした丁寧な議論を経て受け入れるべきだったのだ。スタートの時期で通過しておくべきだった作業を改めて行う場になれば都知事選挙には大きな歴史的価値があったことになるだろう。逆にこのように「水平」の側で、様々な立場の人々の利害を調整しつつ進められないかぎり、原発をどうしてゆくかの政策も、石原慎太郎知事時代の尖閣都所有と同じように突如上から降ってくる暴力的施策になりかねない。それを思うと、今回の都知事選候補者に望まれることは、いかに東京の経済規模が他の自治体を圧倒的に凌駕しているとはいえ、小さな国の大統領として選ばれるのではなく、地方自治体の首長選であるという認識をきちんと備えていること。つまり国の「垂直」的な権力行使と交差するかたちで「水平」的な調整作業を行う自らの職務について理解があり、それをしぶとく成し遂げる政治的腕力を備えていることとでもいえようか。そんな観点から改めて後半戦の選挙活動の推移を見てゆきたい。

著者プロフィール

武田徹
たけだ・とおる

ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授

ジャーナリスト、評論家、恵泉女学園大学現代社会学科教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』など。

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