ポリタスで紹介されている「公約集」と、諸氏の原稿を拝読した。ザンネンながら立候補者のなかに「意中の人」はいない。消去法的に、この人は他の人よりマシかなという人はいるが、おそらく当選しないと思われる。
そもそも都知事を選ぶとはどういうことなのか、都知事の選挙制度自体のもつ課題と、ネットの力の活用方法について考えてみた。
多数の票を背景とした強い権力と、求められる資質のミスマッチ
東京都は人口1300万人、有権者数1000万人を超え、都知事選は単一候補者を選ぶ日本最大規模の選挙である。人口で続く神奈川県、大阪府には、知事とは別に横浜市長、大阪市長が存在し、知事のもつ権限の及ぶ範囲は、「東京市長」がいない都知事の方がはるかに大きい。
国の最高権力者である総理大臣は、議院内閣制のもとで国会議員によって選出され、一般国民が直接選ぶことはできない。都知事は、日本でもっとも多くの数の国民によって選ばれる権力者といえる。事実、猪瀬前知事は2012年に約434万票と、歴代最高数の票を得た。国政選挙での歴代最高得票は、1968年の参議院全国区での石原慎太郎の301万票で、猪瀬氏はこれを大きく上回り、個人として日本の選挙史上最多票を集めた人物となった。
東京都の予算規模は、特別会計を含めれば13兆3000億円(2014年度)となり、フィンランドやインドネシアの一国分にほぼ匹敵し、順位でいえば世界25番目位の国に相当する。ちなみに人口800万人余のニューヨーク市の予算額は727億ドル=7兆3000億円(2014年)で、東京都の半分強だ。
都知事はこの多額の予算の編成・提出権と、さらに条例の提出権をもち、一期4年の任期が保障され、途中で解任されることはまずない。
知事の権力の監視役は都議会となり、副知事などの主要人事と予算案は議会の同意を必要とするが、知事は選挙で得た膨大な票数を背景として、政治的な正当性を強く主張できるため、議会も抵抗することは容易ではない。たとえ都議会で不信任案が可決されても、議会を解散して対抗することができる。
ポリタスで佐藤哲也氏が書いている( http://politas.jp/articles/45 )ように、当選に必要な大量の票数を集めるための「フィルター」が働き、タレントとしてメディアに高い露出度をもつことは、都知事に選ばれるためのほぼ必須の条件となる。そのため、行政の長として知事に求められる資質とは必ずしも適合しない人物が有力候補者となり、結果として知事に選ばれるという構図が成立する。
最近の青島、石原、猪瀬の3都知事は、いずれもこの流れに属するといえる。今回舛添要一氏が最有力となっているのも、テレビ出演による高い知名度が主因であるし、大阪の横山ノック氏、橋下徹氏も同様にして知事となった。
強すぎる権力を抑えること
こう考えると、人口の多い東京都で、行政の長としてというよりは、主としてタレントとしての資質をもつことによって選ばれる知事の権力が強大であるということは、それ自体が大きな構造問題だと思えてくる。当然だが、周囲の官僚がへつらうことも含めて、構造的に権力者としての「奢り」を生むのだ。猪瀬氏に限らず、石原氏にもその傾向は強かった。
この強すぎる都知事の権力を抑えるために、佐藤氏は制度設計を変更して、「23区東部+島嶼部、23区西部、多摩地域ぐらいの3地域に分割するのが妥当だ」と主張している。それも一案だが、23区をまとめた「東京市」を置き、知事と市長との対抗・緊張関係をもたせることも、案外有効ではないかとさえ思えてくる。「大阪都」構想ではなく、「東京府」にするといっても良い。行政体をひとつにして効率を良くすることは、必ずしも正解とはいえない。
選挙戦の期間をもっと長く
都知事選には、16名が立候補している。彼らの公約を読むと、なかにはどう見ても本気とは思えない、文字通りの「泡沫候補」もたしかにいるが、まず当選できないとみられる人物でも、耳を傾けるべき内容や資質をもつ人々が少なくないことも事実だ。
1000万人の有権者に選ばれるためにはメディア露出度の高さが必須となるという構図と、まったく逆の発想はできないだろうか? 露出度ではなく、資質の高さで人物を選ぶ方法はないのか。ここで思い起こされるのが、アメリカの大統領選挙である。公式の選挙戦に入る前に、民主党も共和党も、数名の候補者が1年以上にわたって激しい戦いを続け、その予備選を勝ち抜いてはじめて党の公式候補者となる。その間、メディアは手ぐすね引いて待ち構え、候補者の弱みを洗おうとする。スキャンダルが露呈すれば、レースから脱落する。実質的な選挙期間が長期にわたることで、最初は知名度が低い地方の知事も、主張が浸透し、泡沫候補的な存在からの浮上も可能になる。
選挙戦が長期にわたって続くことで、政策面でも、有権者とのコミュニケーションにおいても、候補者の力量が国民の前に広くさらされ、鍛えられ、向上していくという側面があるのではないだろうか。
アメリカでもメディアによる広告合戦、最近ではネット利用も含めて、相手候補の弱点を叩く「ネガティブ・キャンペーン」が展開されるなど、長期化する選挙戦が必ずしもプラスにだけ働くとはいえないが、多くの人にチャンスを与えるという意味では、選挙期間の延長は一考に値すると思われる。クラウドファンディングの活用においても、期間が2〜3週間と数カ月とでは、成果がだいぶ違ってくるだろう。
選挙の後が大事、そこにこそネットの力を
これまでポリタスに寄せられた記事のなかで、内容的にもっとも共感を覚えたのは、安田菜津紀さんの「若者を追い込まない『東京』にするために」( http://politas.jp/articles/65 )だった。東京の自殺率の高さは、たしかに憂うべきものである。しかし、「若者が自死を選ばなくて済む社会を」という彼女の主張をまともに受け止め、効果的な施策を実現できる候補者がいるのかはなはだ疑問である。少なくとも当選しそうな「主要候補者」の年齢と政策内容を見ただけでは、希望がもてない。
この点を含めて、大事なのは、誰が知事になったとしても都民の求める施策を実現させる有効な仕組みをもつことではないだろうか。その意味で、問われるのは、選挙後の我々の行動だともいえる。選挙という「お祭り」を通して、いわば一人のヒーローを選び、後はお任せ、というモデルでは、何も変わらない。
「公約」を守るかどうか、本当に行政の施策を必要としている社会的弱者、新しい活力を生むためのイノベーションなどの実施において、うるさい市民、厳しい監視役が常に存在し、声をあげ、行政に取り入れさせる仕組みを実現していくことが必要だ。
そして、そのためにこそ、ネットの力の活用が期待できるのではないかと、あらためて思う。これは、選挙期間だけにエネルギーを注ぐことよりはるかに難しいかもしれない。ネットでも「祭り」が人気なように、人々は、一時的な盛り上がりは好きだが、長い間、同じテーマにじっくり取り組み、地道でもその実現を求める、ということはあまり好まれない。
しかし、そこを突破しなければ、市民が求める政治、行政は実現しないだろう。
オープンデータの活用、オープンガバメントの推進
ここで大事なのは、知事というトップに立つ個人の資質に依存することではなく、オープンデータの活用を含めたオープンガバメントを推進することではないか。ネットの力を活用し、行政の透明性を高め、市民参加を積極推進すること。世界の政府・自治体では、オープンガバメントは、もはや無視できない大きな潮流となりつつある。
ところが、今回の都知事選挙では、オープンデータやオープンガバメントを政策に積極的に取り入れて主張している候補は一人もいない。
MIAU(インターネットユーザー協会)によるメディア政策についてのアンケート( http://miau.jp/miaupub/tokyogov2014/ )には、横浜、千葉、ニューヨークなどの例をあげてオープンデータの活用についての設問がある。舛添氏と細川氏は「積極的に行政が持つ情報を公開し、民間とのコラボレーションを推進すべき」、という前向きの選択肢を選んでいるが、彼らの政策を記したウェブサイトにはそうした記載はまるでなく、自前の政策として積極推進する姿勢はみられない。
家入氏のサイトには、そうした主張をする人のコメントは書かれているが、やはり候補者本人の主張になっているわけではない。宇都宮氏は「公開をする前に、行政が持つ情報を自治体自身でもっと積極的に活用することを推進すべきである」という答えにとどまっている。
誰が選ばれても、オープンデータ、オープンガバメントの推進は、硬直化している行政の仕組みを変え、市民の発想を行政施策に効果的に反映できる手段となる。若者の声を生かし、元気なシニア世代の知恵を取り入れる良薬となる。
東京都に限らず、日本中の自治体、省庁で、オープンガバメントを実現していくことは、かつての英国首相、ウィストン・チャーチルが言った、「デモクラシーは最悪の政治形態だが、これまで試されてきた他の様々なものよりはましだ」を乗り超える方策と思われる。
願わくば、当選した知事が、都庁を開かれたオープンガバメントとすることを。