今度の都知事選は、日本の政治的に——いや歴史のうえでも、重要な意味を持つだろう。
重要な意味を持つ理由は二つある。
一つは、東京オリンピックを六年後に控えていること。
東京オリンピックを開催するときに都知事でいることは、大変な名誉である。その役職は、世界中から注目される。またその肩書きは、世界中どこへ行っても通用する。だから、その役得の大きさは計り知れない。
これがポイントの一つになる。新しい東京都知事は、オリンピックという世界的な祭事の主幹事になるのだ。それを誰にするかという眼差しが、都民には自ずから芽生えるのである。それが、今度の都知事選を、これまでの都知事選とは大きく異ならせている。
もう一つは、都知事選の結果如何が、日本の今後の「右傾化」を占うものになる——ということだ。
今、日本の政治は大きな曲がり角に来ている。きっかけは、安倍首相が靖国神社に参拝したことだ。都知事選は、賛否両論あったこの靖国神社参拝後に行う、初めての大きな選挙になる。だから、この選挙の結果は、そのまま安倍首相の靖国神社参拝の是非を問うものとなる——という意味合いを持つのである。
もしこの都知事選で安倍首相率いる自民党の擁立する候補が当選したなら、それはそのまま、民意が安倍首相の靖国神社参拝を容認したという格好になる。そのため、もしそうなったら、安倍首相をはじめとする多くの政治家は、今後ますます右傾化した政策を推し進めるようになるだろう。
ところで、安倍首相が靖国神社に参拝したことについては、多くの人が、「安倍首相が自らの信念を貫いた」と解釈している。
しかし、ぼくの解釈は違う。
安倍首相が靖国神社に参拝したのは、自らの信念という以上に、民意を意識してのことだ。つまり今、靖国神社に参拝すれば、もっとたくさんの票を集めることができる——そういう読みがあってのことなのだ。
なぜかといえば、安倍首相は政権交代前の首相だった。そして政権交代により、野党に下るという経験をしている。その後再び政権に返り咲き、復位を果たした首相なのだ。
だから、野党に下ることの屈辱を誰よりも知っている。あるいは政権の座にいることの重要性を、誰よりも理解しているのだ。
そのため、今の安倍首相の頭の中は、「いかに政権を維持するか」ということで大半が占められている。それに比べれば、自らの信念など取るに足らないもののはずだ。
そうして今、民意が右傾化しているのを敏感に感じ取って、靖国神社へ参拝に行ったのである。そんなふうに、今の安倍首相、あるいは自民党の政策は、ほとんどポピュリズム的なもので決定されるようになっている。
そういう状況で都民が安倍首相の擁立する候補を支持したなら、彼はますます自信を深めるだろう。そうしてますます右傾化し、今後は憲法改正や、場合によっては中国や韓国との戦争に突入するという事態さえ、非現実的ではなくなってくる。
その意味で、今度の都知事選は単なる一地方の首長を決める選挙にとどまらない。それは、日本の右傾化を加速させるか、それともそこに歯止めをかけるかの、大きな分水嶺となるのである。
それが、オリンピックのこととも相まって、都知事選の存在感を否応なく大きくさせているのだ。
しかしながら、そうした状況であるにもかかわらず、多くの都民はそのことに気づいていない。彼らの、今度の選挙に対する眼差しは冷ややかだ。
それというのも、東京都民には独特の自意識や矜持というものがあって、オリンピックに対してはどこか無関心を装ったり、あるいは政治に対しても、「誰がなっても同じ」と高みの見物を決め込んでいるところがあるのだ。
ここに、ちょっとした「ねじれ」が生まれている。本当は大きな意味を持つ選挙なのに、多くの都民がそうとは受け取っていないのだ。
あるいは、争点としてにわかに「原発問題」が浮上したがゆえに、右傾化の問題についてはなおのこと軽視されたり、あるいは置き去りにされた感がある。
歴史というのは、こういうねじれが起きたときに、えてして大きく動くものなのである。そのねじれの間隙を縫って、思わぬ「誤作動」が働き、人々を予想もしていなかったような方向へと押し流していく。
だから、今度の都知事選に関しては、もっと多くの人が深刻に受け取り、よく考えた方がいいと思うのだが、現状はそうなっていない。「これを境にして歴史が動く」という予感を、ほとんどの人が抱いていない。
そのことに、ぼくは少なからず焦りを感じさせられる。
それは、嵐が来ると予言したにもかかわらず、誰からも相手にされなかったノアのような心境——といったらいい過ぎだろうか。
しかし、人々の都知事選の受け取り方に、大きなもどかしさを感じているのは事実なのだ。
ただし、そうかといってぼくにできることはほとんどない。ぼくがどう考え、何を言おうと、ほとんど誰にも届かない。民意は、あるいは歴史というものは、そういうふうに圧倒的な力を持って、我々を運命が決めた方向へと押し流していくのだ。
だから、ぼくにできることといえば、せいぜいがこうして呟くように警告を唱えたり、あるいはぼくやぼくの近しい人が乗ることができるくらいの小さな方舟を作って、嵐に備えるくらいなのだ。