残念な? 知事選候補
今回の都知事選で、うーんと唸ってしまう都民は多そうだ。実際にネットの論調でも、いくつか失望を感じている人は多い。ポリタスでもクロサカタツヤ氏が論じている( http://politas.jp/articles/6 )。確かに、家入候補以外は55歳以上の候補ばかりで高齢者が多いという問題提起は筆者も共感するところがある。Twitterでも都民の人口と、候補者の年齢分布を端的に示した印象的なグラフ( https://twitter.com/chibicode/status/426280504770306048/photo/1 )に注目が集まるのもうなずける。
もっとも、候補をどうするか? ということに悩んでいるのは都民よりもむしろ選挙のプロフェッショナルである政党の方かもしれない。今回の選挙に向けて、各主要政党では候補者の擁立にかなり時間をかけて調整していた。実際に立候補要請を断られたケースもあると報道されている。また維新の会やみんなの党など本来都市部で強いはずの政党が自主投票になったのも少し意外なことである。もっとも、主要政党幹部の声を代弁するとすれば、「直前に立候補表明したほうが有利」と考えられている都知事選の奇妙な習わしが、都知事選に対する組織的な取り組みをやりにくくさせているという側面もある。だがいずれにせよ、既存政党にとっても都知事というのは戦いにくい選挙であることには変わりない。
また、突飛な政策を掲げたり、知名度や政治経験が全くない候補が多数登場するのも都知事選の風物詩である。俗にそのような候補を「泡沫候補」などと呼ぶ向きもあるが、選挙期間中でもあり、本稿ではなるべくそのような表現は避けたい。彼らは大きく分けて二通りに分けられる、ひとつは当選や次の政治活動に向けた立候補というより、選挙公報や各種メディアでの氏名掲載を通じて、知名度を高めたいという、個人レベルでは比較的合理的な動機による候補であり、もうひとつは本当にの意味での政治家、革命家のような志向を持っている候補である。後者はともかく、前者は本来の選挙の目的からするとあまり望ましい候補とはいえない。
選挙的に大きすぎる東京都
これらの都議選の候補にまつわる批判に対して、がっかりだ。という表明をすることは容易だが、本稿ではもう少しシステム的な要因について検討してみたい。選挙の制度として考えると、東京都知事選は最大の小選挙区である。ちなみに、小選挙区というと衆議院の300選挙区がイメージされるが、制度としてはひとつの選挙区から1人の候補者を選ぶ方式のことを指す。だから、首長選挙はおのずと小選挙区になる。つまり、都知事選は1082万人もの有権者で1人の人を選ぶ、オバケ的「小選挙区」選挙であるということだ。
そのようなオバケ的な小選挙区で勝ち抜くためには、事実上選挙の候補者になるために、一定のフィルターをクリアしなければならない。そのフィルターとは、地上波TVレベルでの、恒常的なマスメディア露出である。その露出が多数なければ、いくら自民党の閣僚経験者であっても、選挙区を同じくする参議院議員であっても、なかなか勝算が立たないという選挙になってしまっている。つまり、都知事になるためには一度タレントにならなければならないというフィルターがあるのだ。
これは本当に不幸なことだと思う。なぜかといえば、社会の特異点を紹介するテレビだからこそ、「普通の人」ではそのフィルターをクリアすることは到底おぼつかないからだ。例えば、インパクトのある政界デビューを果たし、維新の会という大きな流れを作った前大阪府知事(現大阪市長)の橋下氏は「茶髪の弁護士」というキャラクターで獲得した知名度を知事選挙に流し込んだということになる。今回の有力候補で言えば、宇都宮候補は多重債務者問題などの消費者問題で「庶民の味方の弁護士先生」という立ち位置を獲得したし、田母神候補は「タカ派すぎて更迭された元自衛官」がそれにあたる。家入候補はマスでの知名度はそれほど高くないが、しばしば炎上する連続起業家として、一定のネットでの知名度を持っている点で半分フィルターをクリアしている。そのような特異点を作らなければならないフィルターによって、候補者は一癖も二癖もある動物園的状況を生み出す遠因になる。
そのような中で、舛添候補は「元大学教員のタレント的政治評論家」という、都民に最も受け入れられやすいクリア方法が強みである。そこが一度は除籍した自民党がメンツを失ってまで支援した理由であるとすればわかりやすい。さて、そのフィルターをクリアする候補の擁立で困ったのが民主党であるが、結果的に民主党立党の原点のさらなる源流に辿り着き、細川氏の支援に立ったというのは、このフィルターがいかに強固なものであるかを物語っている。
適切なサイズはどのぐらい?
実質的に立候補の自由を阻害しているそのようなフィルターの存在は、民主主義にとって望ましくない。なにより、超巨大な役所組織である都庁をマネジメントするトップに、そのようなタレント性は不要だ。今回ポリタスでも竹田圭吾氏が「都知事はデカい話しかやることがない」と大変興味深く論じている( http://politas.jp/articles/4 )ように、都知事にはそんなに大きな仕事はないのだ。その点で、過去にもタレント性の強い知事が国政進出のための得意のパフォーマンスを繰り出し、国益レベルで懲り懲りした記憶に新しいが、それにはシステム的な要因が無視できないということを指摘したい。
つまり、その問題の要因が有権者数の大きさという制度的、システム的要因であるとすれば、設計を変更すればよいという単純な話である。情緒的に、都民の政治関心が低いといった、精神論や啓蒙活動に勤しむ前に、もっと根本的な設計論を論じてもよいのでないだろうか。それも、複雑な制度を論じるというよりは、適切なサイズに合わせるという単純な話である。都民歴49年の竹田氏が意識したことのない東京都をいくつかに分割したところで、多分困る都民はいないだろう。むしろ役所が近くなって便利だ。都の官僚や関係者は反対するかもしれないが。
さて、それでは、どの程度のサイズまで選挙区を小さくするのか? ということが問題になる。他の都道府県の知事選を見た範囲では、神奈川、大阪、愛知、千葉などのサイズでは、まだ知事選挙におけるタレント性が無視できない。そのため、北海道や福岡レベルの人口500万人クラスが上限となるのではないか。今の東京都の人口1300万人であれば、23区東部+島嶼部、23区西部、多摩地域ぐらいの3地域に分割するのが妥当だろう。選挙制度という観点から見た場合、そのぐらいが都道府県としての適正な規模であり、安定した地方行政にはふさわしいのかもしれない。