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脱・脱原発したい無自覚都民のための都知事選エンジョイ法

  • 竹田圭吾 (ジャーナリスト・編集者)
  • 2014年1月25日

都知事選がユニークなのは、投票する人々が自分を「都民」だと思っていないことである。

私は生まれてから49年間、ずっと東京に住んでいるが、ああ俺って都民だなあと感じたことはないし、そう意識している人間に出会ったこともない。

年賀状は郵便番号さえ書けば宛先に「東京都」はいらないし、住民票などの手続きは区役所や市役所ですむ。

東京都に所属する職員は17万人もいて、そのうち10万人が公立学校の教職員と警視庁管内の警察官だが、彼らはせんせいでありおまわりさんであって、都の職員として認識されることはない。

東京都は47都道府県で唯一、地方交付税の交付を受けていない。だから人々は分権改革や道州制にほとんど興味がないし、首都移転構想も他人事と思っている。

都の知事(候補者)が原発のようなデカい話にやたらと首を突っ込むのは、今に始まったことではない。巨大開発とか国際博覧会とかオリンピックとか尖閣諸島とか、むかしから都政だか国政だかわからないイシューにかまけている。都議会は盲腸みたいな存在だし、都庁の幹部職員の人と飲みにいくと、知事のことを「うちの社長は」なんて呼んでいる。

東京には、居酒屋の会話でネタにしてもらえる「県民性」もないし、ご当地性をぷんぷんと匂わせるゆるキャラやB級グルメもない。職場で一緒に働いていても、そこには千葉や神奈川や埼玉の県民さんが少なからず混じっている。個人としてもコミュニティーとしても、都民としてのアイデンティティーを自覚しようがないのです。

というわけで、東京都というものを意識するのは、子供のころは早口言葉のトウキョウトッキョキョカキョクだけだったし、今は新宿西口の高層ビル街に行けばいやでも目に入る悪趣味な外観の都庁舎くらいだ。

都の第一本庁舎は地上48階、243メートルの高さがある。知事室は7階にあるが、各部局のオフィスはかなり上層の階まで詰まっている。それらは「天の視線」からまちを見下ろすように睥睨して、一人ひとりの都民ではなく、都市としてのTOKYOをマネジメントする場所である。

それは、昼間人口1500万人の都市をあずかるうえで必要な視点とは言える。これだけあらゆることの中枢が集まる首都の機能や、国家並みの予算の配分が効率を欠いてはたしかに困る。

東京都には財政調整制度というものがあり、裕福な区から貧しい区へ税収を再配分している。港区など都心部の区と、荒川区や足立区では財政力に3倍から4倍もの開きがある。都自身が歳入の多くを法人税に頼っているため、財政が景気の影響を受けやすく、かつて美濃部知事が行ったようなバラマキ型の福祉政策などは危険きわまりない。

都知事はデカい話しかやることがない

東京都知事はパリやロンドン、ニューヨークと異なり、メトロポリスの市長が広域自治体の首長を兼ねる世界でも珍しいポジションだ。必然的に、そうした行政のこまかな運営は熟練の官僚と職員がにない、知事はもっぱらグランドデザインを描くことが仕事になる。

というか、それしかやることがない。

都知事は大統領に似ているとよく言われるが、じつはそれほど権限はない。人事で直接任用できるのは副知事、出納長、教育長、特別秘書くらいで、これらも議会の同意が必要になる。警察に対する裁量権はほとんどないし、自衛隊にも治安出動の要請権しかない。

今までの都知事がプロジェクト的な政策でばかり注目を浴びるのには、そのような背景がある。しかも石原知事の銀行税導入(高裁敗訴で返還)や横田基地の軍民共用化(実現せず)、猪瀬知事の天然ガス・コンバインド発電計画(中止)など、アドバルーンを上げただけで終わることが少なくない。

今回の都知事選でも、脱原発とか、日本橋の真上にかかる首都高速道路を撤去するとか、文明論や歴史観でとらえたようなハナシが脈絡もなく出現した。空の上から降ってきたように。

それはそれでいいが、一人ひとりの都民は地を歩いている。その視線の先には、知事と都庁が見下ろしてスコープするのとは別の都市生活の実景がある。そこでは、自分を「都民」と意識しない住民が、東京都とのかかわりを意外なかたちで思い知らされることがある。

今回の都知事選が行われることになって頭に浮かんだのは、昨年5月に東京都小平市で行われた住民投票のことだった。

くわしくは、哲学者の國分功一郎さんが著書の『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)に書いている。半世紀前に立てられた都の道路計画に対して、住民から反対運動が起きる。計画は、交通量からして必要性があまり感じられないだけではない。憩いの場の雑木林をつぶし、住宅を立ち退かせてコミュニティーを分断するものだった。

ついに都で初めての直接請求による住民投票が行われる。しかし結果は、投票率が50%に達しなかったため不成立。國分さんは著書で、民主主義というのは建前で、実際の政策決定は行政によって行われていること、その行政は住民の直接参加を強く拒絶することなどを指摘している。

東京都というものは、ふだんアイデンティティーを自覚できないほど希薄な存在でありながら、そのように住む人々の日常にからみついている。

都知事選はそんな行政に対して、人々が「路上の目線」から感じていることをメッセージを発する機会である。選ぶ対象は知事だが、届けるべき相手はトップから末端にいたる都政そのものだ。

「路上の目線」で自分だけの争点を選ぶ

何を基準にするかは、人によって違うだろう。ちなみに私の場合は、とにもかくにも災害対策だ。

土建業の経営者だった祖父が復興にかかわった関東大震災、取材で歩いた阪神淡路大震災直後の西宮や神戸の記憶、あの3月11日に家族と体験した東京の大混乱、消防車両が入れず「災害トリアージ」が存在する木造密集エリア、家業の関係で耐震建築の専門家から聞いた耐震化の実状、業界ですでに申し合わせてあるという首都震災後の「大手ゼネコンの担当地域」振り分け、知人友人から耳にするマンション高層階の孤立の恐怖……。

地震に関する政府の被害想定の数値がしばしばニュースになるが、首都直下型であろうとなかろうと、私が皮膚感覚で感じる地震や大災害のリスクはもっとミクロでリアルなものだ。それと比べれば、脱原発やオリンピックは私にとってはほんとどうでもいい。

災害が起きたときにこの人が都知事で大丈夫と思えるかどうか、理想論の防災ではなく現実的な減災対策をどれだけ講じてくれるか、などが私にとっては「路上の目線」でもっとも大切な要素だ。それが待機児童対策である人もいるだろうし、介護施設に入居できない待機高齢者の対策だという人もいるでしょう。

自分が実際に誰に投票するかは、公約や政策のディテールをみて、自分にとって二番目(介護施設整備)、三番目(築地市場移転)の要素もチェックしながら考えていくことになると思う。

ただ、公示日前日の各立候補予定者の会見をみて、個人的に最も印象に残ったのは、家入一真氏だった。

自身が中学生のときに引きこもりになったという家入さんは、同じように行き場所を失った子供や若者が集まることのできるコミュニティーやシェアハウスをつくり、それをビジネスにしてきた。そして都知事候補としての政策の第一に「居場所がある街・東京をつくる」を掲げた。

「天の視線」で脱原発やオリンピックや、抽象的な福祉の充実を熱く語る候補者が並ぶなかで、彼だけが「路上の目線」で(ぼそぼそと)語っていた。

いいじゃんいいじゃん、と思った。価値観や理念の異なる候補者がバラエティー豊かにそろってこそ、選挙は意味がある。ネット選挙が解禁されて初めての都知事選でもあるし、政策やパフォーマンスに注目しながら2月9日まで選挙を楽しもうと思う。

著者プロフィール

竹田圭吾
たけだ・けいご

ジャーナリスト・編集者

1964年東京・中央区生まれ。2001年から2010年までニューズウィーク日本版編集長。現在はジャーナリスト・編集者、名古屋外国語大学客員教授。フジテレビ『とくダネ!』『Mr.サンデー』などのコメンテーターも務める。

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