私は消費者団体に所属し、活動している。
ところで「消費者」とはなにか……その定義は色々とあるが、一番シンプルなものは、「自然人」であること。つまり「生身の人間」ということだ。
その生身の人間が相対しているのは「組織」である。事業者、あらゆる団体、そして国家もある種の組織だ。生身の人間はとても弱い存在だから、「組織」との間には経済力や専門的知識など、圧倒的な差がある。その構造から様々な問題が生まれる。消費生活の問題だけでなく、貧困、環境、特定秘密保護法、憲法も消費者問題だ。消費者運動とは、「組織」の利益の論理によって生身の人間の命や健康、財産、おだやかな生活が損なわれることのないようにすることだ。
最大の消費者問題
それは原発だと私は考えている。「生身の人間」対「組織の利益」の最たるもの。長年、あらゆる政策面で原発が有利になるようになってきた。複雑にからみあって巨大化した組織の利益の構造だ。
原発はひとたび過酷な事故が起きると破滅的で修復不可能な被害をもたらす→その被害は許容限度をはるかに超えている→リスクはどうやってもゼロとはならない→ならば原発は即時ゼロとすべき。
リスク管理の基本であり、シンプルで合理的な結論だ。たとえ仮に原発に「メリット」があるとしても、許容できないリスクと計りにかけることはできない。
というわけで、私は脱原発をはっきりと掲げている候補を応援したい。その前提に立って、
- 生身の人間(組織に守られていない状態のひとりの人間)の痛みがわかる人
- ぶれない理念と政策
- 粘り強い実行力
この3つを基準に絞り込むだろう。その人なら、生身の人間を苦しめている原発以外の問題についても、有効な施策を打ち出すはずだ。
国政への意見表明として
今回の都知事選挙は安倍政権が進もうとしている方向を修正させる大きな力になり得ると考えている。
昔読んだ本の中から、最近よく思い出す言葉がある。
「『戦争』と名づけられるものに関わる多くの魂、これらの魂は膨大な創造力に変わり得たかもしれません。——(中略)——最も低い知性の表われです。最高の地位にあってものごとを操作する人々は、この知性の低さを備えているのです。彼らがこうした戦争を創り出すのです。全人類がそれを理解すべきときが来ています」
(指揮者ストコフスキの言葉。1969年、ベトナム戦争が激しさを増していた頃のインタビューより。東京創元社『グレン・グールド変奏曲』p.225)
昨今の報道を見ていても、この言葉を頻繁に思い出す。決定権をどんな人に持ってもらうべきか、ということを考えてしまうのだ。
首都東京の有権者の意思表示は、国政に対して大きなインパクトになるはずだ。その点でも都知事選に私は期待している。
「思うツボ」にはまらないで
「脱原発依存」と「脱原発」は、似ているようでまったく異なる意味で使われているということは押さえておかなければいけない。昨年12月、経産省の総合資源エネルギー調査会が出した意見書には、「原発依存」を「可能な限り低減させる」とはっきり書いてあるが、それでは脱原発か、といえばまったくそうではない。同じ意見書の中で、原子力発電のことを「準国産エネルギー源として、優れた安定供給性と効率性を有しており、運転コストが低廉で変動も少なく」、「安全性の確保を大前提に引き続き活用していく、エネルギー需給構造の安定性を支える基盤となる重要なベース電源である」と謳い上げているからだ。
要するに彼らが使う「脱原発依存」は、原発の割合を、よい程度のパーセンテージに保つという意味だ。何をもってよい程度かは、「我々(政府)」が考える、ということに過ぎない。その判断いかんによっては、再稼働だけでなく、新設もする、というのがその本音なのだ。
脱原発を望んでいる有権者は、争点論議=「原発を争点にすることはおかしい」に影響されないでほしいと思う。少なくとも候補者が「争点にすることはおかしい」と言うのはそうすると不利だからであって、そうでないならきちんと自説を主張しているだろう。争点にすること自体の是非に問題をすりかえているだけのことなのだ。「おかしい」という空気になんとなく影響されてしまっては、争点にしたくない陣営の思うツボではないのか。
都知事には原発をゼロにする権限はない——その通りだと思う。脱原発派が都知事になったから、簡単に原発ゼロが達成できるわけはない。でもならなかったら、もっともっと「最大の消費者問題」の解決は遠のく。脱原発を望む首都東京の票がどれだけ集まったか、その数がどれだけ多かったかということだけでも、この運動の大きな後押しになるのだ。得点を重ね続けて、粘り強く、ぶれずに、一歩でも前に進まないと!