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  • 論点

都知事選を「究極の無理ゲー」でなくすために

  • さやわか (ライター/評論家/まんが原作者)
  • 2016年7月30日

今回の都知事選に対して、僕は困っている。でも、たぶん僕だけじゃなく、多くの都民が困っている。

誰に投票すればいいのかわからない。いや、より正確に言えば、どの候補に対しても投票したい気持ちになれない。

素朴に考えてみると、候補者の誰も選びたくない状況というのは、あり得るだろう。選べないものを選べというのは「究極の選択」みたいなもので、いささか乱暴なことだと言わざるを得ない。それでも、選挙においては、およそ「投票することが絶対」だとされる。投票こそが政治に対して自らの意志を示すことであり、もし棄権したり白票を投じるなら、政治参加への義務や権利を自ら手放すようなものだというのだ。だから、誰かを選ばねばならない。代議制民主主義を前提とする今の社会はそうなっている。

しかし、そもそも、なぜ僕は誰も選びたくないのか。言い換えれば、僕はどんな候補者であれば自然に投票したいと思えたのか。

代理戦争は「空中戦」

NHKは先だっての参院選の出口調査で、都知事選での投票では何を重視するのか、都民に尋ねている。それによれば「景気・雇用対策」を挙げた人が最も多く、次いで「医療・福祉」そして「政治とカネの問題」「子育て支援」などが続いたという。

また読売新聞が複数回答方式で実施した世論調査によると、「医療や福祉政策」を選んだ人が56%で、以下は「政治とカネの問題」(51%)「少子化対策や子育て支援」(48%)「地震などの防災対策」(44%)「景気や雇用対策」(43%)という結果だったという。ちなみに「五輪・パラリンピックへの取り組み」や「原発などエネルギー問題」を挙げた人は3割程度にとどまった。

候補者たちが上位にならんでいる課題に対して有効な政策を打ち出してくれていれば、もっと自然に投票先を選べたはずなのだ

他にもいろんな世論調査があって、それぞれ結果にばらつきはあるだろう。しかしいずれにしても、候補者たちが上位にならんでいる課題に対して有効な政策を打ち出してくれていれば、もっと自然に投票先を選べたはずなのだ。

ところが、そうはいかなかった。だいたい都知事選は、いつの間にか国政の代理戦争みたいにされてしまっていて、単純に与党とか野党などという言葉が飛び交いすぎている。もちろん都政が国政と深く結びつけて考えられるのは当然なのだろう。しかし、それでも過去に都知事になった候補は、国が何を言ってこようが、「東京は日本をリードする首都としてどのように強気で振る舞うか」という論調で選挙戦を繰り広げていた。たとえば猪瀬直樹などは政見放送の中で、国が東京に対して地方公共「団体」呼ばわりすることに苦言を呈したほどだ。

しかし、今回の都知事選は自民党の内紛とか、野党の統一候補がどうしたという話や、各候補の思想信条が受け入れられるか否かという話ばかりが先行している。報道のせいもあるのかもしれない。それは前述の世論調査にあったような、僕が争点と感じていることのはるか遠くで行われている、いわば「空中戦」のように感じられた。


Photo by iStock

支持したい政党や思想信条がある人でも、その派閥に属する候補者がいささか頼りなくて、投票に躊躇しているという人もいるだろう。彼らがアピールしている選挙戦からは、結局のところ「どんな都政が実現されるのか」という部分がなかなか見えてこない。これでは選べないのも当然ではないか。

1999年の都知事選には「夢」があった

最近、僕は思うところあって、1999年に行われた都知事選の資料をつぶさに見直していた。一期を務めた青島幸男が二期目への立候補を突然とりやめ、さらに石原慎太郎が告示日ぎりぎりのタイミングで出馬を表明した選挙だ。当時の東京は財政危機を迎えており、確実な都政の立て直しを必要としていたが、そのせいで戦局は大いに混乱、当時の史上最多となる19名が立候補した。

だが、その混乱にもかかわらず、政見放送においては、ほぼすべての候補がちゃんと経済政策を軸にした主張を行っていた。もちろん、具体的でない案や、実現不可能な政策を挙げる候補はいた。しかし、そこには近年見慣れてしまった、主要候補が論点を見誤った演説を行う場面はない。

そしてそんな中で、最も具体的かつ現実的な政策を提案していたのは、当選した石原慎太郎だった。だからこそ、都民が彼を当選させたのだ。

ここで注意しておきたいのは、新都知事が本当にその政策を実現してくれるかどうかは、ひとまず重要ではないということだ。少なくとも選挙戦の段階においては、僕らが「なるほど、こいつは俺たちが期待していることを、すぐに、うまく、やってくれそうだ」と思えればいい。むろん、ちゃんと実現してくれたほうがいいのだが、しかしせめて、まずは選挙活動でそう思わせるところから始めてほしい。ましてや、有権者が課題として感じていることについて、具体的で現実的な政策を魅力的に語ってしまわれたら、それこそ、嫌でも投票してしまうではないか。

1999年の都知事選で都民は、まだしも「夢」を見ることができた

要するに1999年の都知事選で都民は、まだしも「夢」を見ることができた。それが結果的に悪夢に終わるとしても、投票率の低下が叫ばれて久しい昨今からしてみれば、積極的に票を投じるためのアピールがあったことは疑いようがない。


Photo by When I was a lad (CC BY-NC-ND 2.0)

目下2016年の都知事選には、夢も希望も現実味もない。したがって候補者たちが僕らの気になる課題について語ったとして、そこにいささかの魅力も具体性も宿らない。

「女性が活躍する社会」とか「クリーンな都政」とか、あるいは「子育てしやすい社会」でも「住みやすい東京」でもいいが、それらはスローガンであって政策ではない

スローガンにしても聞き飽きた感が満載で、もはや耳に心地よくすらない。それを実現するためのプランにしても、パフォーマンス的に大言壮語を繰り広げるばかりではないか。大切なのは、具体的にどうするのか、そしてそれが実現可能かだ。そういう話は、この選挙戦に存在しない。だからやっぱり、選べない。

究極の無理ゲーなんかやりたくない

しかし、考えるべきなのは、いったいなぜ、そんな候補ばかりになってしまったのかだ。政治家なんてろくでもない奴らばかりだと吐き捨てることはたやすい。しかしそれでも、2011年からの5年間で4回も都知事選をやっていて、合計170億円もの莫大な費用がかかっている。やっぱり、僕らは何か妙なことになっていやしないか。

僕たちは「究極の無理ゲー」のガチャにのめり込んでしまったプレイヤーのように、都知事選を繰り返している

次々に首をすげ替えれば、いつかまともな政治家が出てくるという保証はない。ソーシャルゲームのガチャのように、際限なく回していける選挙などないはずだ。次第にまともな候補が現れる確率が下がっていくという意味では、ガチャよりもひどい。それなのに、僕たちは「究極の無理ゲー」のガチャにのめり込んでしまったプレイヤーのように、都知事選を繰り返しているのだ。

むろん週刊誌や新聞が報じるように、悪いのは汚職にまみれた政治家たちなのかもしれない。たしかに「政治とカネの問題」が都民にとって悪となるから、前2人の都知事は辞めさせられたことになっている。が、それだけが重要な焦点であるのならば、前述の世論調査の結果だって、それが関心のトップになるはずだ。そうではないというのは、何か報道と実態に食い違ったものを感じる。

前述のように都知事選はどんどん国政の代理戦争にされている。報道の力を借りて世論が高められ、首のすげ替え合戦が行われたのは、まさしく国政でずっと行われてきたことだ。その結果、少なくとも日本の政治議論では政策がどんどん置き去りにされていった。その問題が、本来国政とは切り離すべき都政にも降り掛かっているのが今という状況なのだ。国政で失敗している方法論を、都政に取り入れることはない。


Photo by MIKI YoshihitoCC BY 2.0

強いガチャが出る確率は下がる一方

だから僕は、今から本当にうんざりするようなことをしなければならない。まず今回の候補者から、誰かを選んで投票しなければならないのだ。しかし、それだけではない。本当にうんざりするのは、実際に決定した都知事に従わざるを得ないことだ。

冒頭に書いたように、僕は選挙において、投票することで自分の意志を示すことができる――ゆえに投票は大事なことだ、と考えている。客観的に捉えても、それはどうやら疑いようがない。

だが僕は同時に、その考え方によって、選挙の目的をはき違えてはいけないとも思っている。

僕は先ほど、石原慎太郎のことを書いた。正直言って、彼の都政にはうんざりさせられた。けれど、彼をただちに排除すべきで、そのためだけに足を引っ張り、その地位から引きずり下ろしてやろうとは思わなかった。

自分の投票しなかった候補者が当選したとしても、そいつを引きずり下ろすことだけを考えればいいと思うのは楽観的すぎる。本来、選挙というものは、投票によって意志を示すということ以上に、そこで決定されたことに従わなければならないからこそ、重みがあるものなのだ。

むろん批判的であることは問題ない。おかしな候補者が多いのだから、おかしな政治を始める可能性がないか監視し、警鐘を鳴らすのは当然だ。つまり都民がここらで考え直さねばならないのは、選挙の際に誰を選ぶかだけでなく、「決定された新都知事を的確にコントロールし、都政を円滑に運営させるよう仕向ける」ことだ。

失敗続きの東京が、ガチャでいいキャラを引ける確率は下がる一方だ。望むレベルの候補者が出なかったら、僕たちは手持ちの札で妥協し、ガマンしてそいつを育てないといけない。


Photo by iStock

弱小キャラを辛抱強く活用するしかない

もし新都知事の都政に見過ごせない悪があったとして、それは本当にただちに辞めさせるほどの悪なのか、一期を務めさせたあとで堂々と落選させればいい程度の悪なのか、僕たちは試されることになるだろう。僕たちがこの選挙制度を尊重しようとする限り、ガマンしてでも、そうあるべきだ。

僕はもっと選挙を重く考えたい。首のすげ替えをすること、いくらでもガチャを回せばいいさという安易さから、距離をおきたい。イギリスのEU脱退の例を思い出すまでもなくそうだ。

僕らの都政でおかしなことになっている部分があるとしたら、第一には、この首のすげ替えショーなのだ

これを読んでいる人には、そんなの嫌だと思う人もいるだろう。かえって、投票する気力が萎えていくという人もいるに違いない。当然だ。僕だって、今からうんざりしているのだ。だからこそ、なかなか選べない。しかし、少なくとも僕はそうやって選ぶことにした。そうやって、選挙に対する責任をちゃんと果たしたい。僕らの都政でおかしなことになっている部分があるとしたら、第一には、この首のすげ替えショーなのだから。

僕たちは本当は、誰に投票するかだけを選んでいるのではない。その先の未来を決めているはずなのだ。

選挙で未来を決定するのだから、その未来には、僕も参加していなければならない。既にしてガチャの目には期待できないのだとしても、ここから僕は弱小キャラを辛抱強く活用して難局を乗り越えることを目指そうと思う。都民の中に、僕と同じことを考えるプレイヤーが増えてくれたら心強い。

著者プロフィール

さやわか
さやわか

ライター/評論家/まんが原作者

ライター、評論家、まんが原作者。『ユリイカ』『クイック・ジャパン』ほかで執筆。『AERA』『ダ・ヴィンチ』『ビッグガンガン』ほかで連載中。関心領域は物語性を見いだせるもの全般で、小説、漫画、アニメ、音楽、映画、演劇、ネットなどについて幅広く評論。著書に『僕たちのゲーム史』『一〇年代文化論』『僕たちとアイドルの時代』ほか。近著に『キャラの思考法』。

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