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若い頃、選挙に行かなかったことを後悔する

  • 平野啓一郎 (小説家)
  • 2016年7月10日

若者に、選挙に行けと促す中高年の少なからぬ人たちが――私も含めて――自分の過去は棚に上げている。大学生だった頃、お前たちは、言うほどそんなに投票所に足を運んでいたのか?

正直に告白すると、私は、否、だった。

理由は非常にお粗末なもので、面倒くさいだとか、無関心だとか、政治不信、政治家不信など、大体、そんなようなことだった。私だけでなく、選挙に毎回行ってるなどという友人は、今の言葉で言うなら「意識高い」系の、どちらかというと変わり者扱いだった。

私はそのことを反省しつつ、どうしてそうなのだろうかと、最近よく考える。言いわけのためではなく、その背景にある問題を放置していては、結局、いつまで経っても、若者の投票率は上がらないからである。

そもそも、東京にいると、国会議事堂も目に見えて存在しており、テレビや新聞を通じて知る政治というものを、身近に感じる機会もあるが、十代まで地方で育つと、なかなかそうはいかない。

私は、北九州の出身だが、政治家というのは、地元の盆踊りだの、運動会だのといった集いに顔を出しては、エラそうなような、腰が低いような、愛想がいいような、笑顔が強張っているような、独特の態度で、支援者たちと挨拶を交わしている人、という程度の印象だった。

小中学校、高校と、それぞれに政治家の子供や親戚、あるいは、親がどこそこの政治家と親しいという友人たちがいたが、一体どこの党で、何をしている人なのかといった話は、ほとんど出なかった。あまり詳しく訊くべきではないという雰囲気も、幾分あったように思う。

選挙で目にするのも、連日大声で名前を連呼する選挙カーくらいで、政策云々についてはまったく無知だった。テレビで見るような政治家が応援演説に来れば、「有名人」が来た、というような感覚で、握手してくれれば、「有名人」が握手してくれた、という体験となった。

私の家族は、選挙には必ず行っていて、特に戦争世代の祖母は「国民の権利」として、決して棄権しなかった。それでも、普段から、食卓で頻繁に政治問題について議論を交わすというような家庭ではなかった。

大学に進学して京都に転居してからは、法学部だっただけに、さすがにもっと政治に関心のある友人もいたが、今度は地元でないだけに、話が政策的な問題へと一気に飛躍し、政党については詳しくなったものの、個々の政治家となると、むしろ、地元にいた頃より遠くなってしまった。あの人は信用出来る、出来ない、といった土地の人間ならではの会話から、京都で選挙権を得た私は、切り離されていた。積極的に聞こうともしていなかった。私だけでなく、極端な話、今でも投票所に行くまで、支持政党は決めていても、候補者の名前は知らないという有権者も、少なからずいることだろう。

人ではなく、政策で選ぶべきだというのは、二大政党制が目指されていた時期には、随分と語られたが、その後、選挙の度に出現する何とかチルドレンを見ていると、やはり、人を見ないことには話にならないと強く思う。

学生の政治意識が高まらないのは、ひとつには、消費税以外の税金を多くの者が納めていないからだろう。

有権者になる年齢とは、なるほど、他方では就職を考える年齢でもある。しかし、たとえ社会に対してありあまるほど不満があり、自分の生活に苦しさを感じていても、そういう年齢でまず考えることは、仕事を通じて世の中を変えたい、自己表現したい、あるいは生活の苦境を脱したいということであり、政治に期待するというのは、どこか、雲を掴むような話である。その仕事をするということこそが、実のところ、政治とは切っても切れない関係にあるということに気がつくのは、もう「若者」とも呼べない年齢になってからだろう。尤も、それに気づかないままの人もいて、例えば、現在のSEALDsの活動に対しても、そんなことしている暇があるなら、自分の仕事の心配でもしろと、揶揄する向きもあるが。

私の経験した十代の頃とは時代も違えば、選挙制度も違う。しかし、今の若者の低投票率の背景を想像してみるに、状況的には似たり寄ったりではないかと思う。政治への無関心もさることながら、政治家への無関心も同様に根深い。この二つは、切り離しては語ることが出来ないだろう。そして、普段からこの状況を改善する取り組みが行われていなければ、選挙の度に唐突に政治に関心を持てと言っても、効果は限定的に違いない。

18歳から選挙権が与えられることになった今、学校教育でどのように政治を教えていくべきか? しばしば話題に上る話だが、私の時代にも添え物的な扱いだった「倫理・政経」のような科目の時間を増やして、憲法や政治を思想史的な根本のところからもっと学ばせるべきだと思う。ホッブズやロックが考えた「自然状態」とはどんなものだったのか、という想像は、近代の政治システムを考える上で、やはり不可欠ではないか。その上で、やはり、政治的な問題を討論する時間を作り、発言を求め、思考を促すべきだろう。テーマは、夫婦別姓や原発再稼働の是非、政治権力と表現の自由、差別、経済格差、少子高齢化など、出来るだけ「大問題」を論じた方がいい。そうしたテーマは、教室に一種の対立をもたらす可能性があるが、議論は議論として、感情的なしこりを残さずに行う術を学ぶ必要もある。さもなくば、ネットで匿名の罵声を浴びせるくらいしか、意見表明の術を知らない人間になってしまう。それこそ、「学校に政治を持ち込むな!」と、クレームを言ってくる父母もいるだろうし、政治の圧力もあるだろうが、選挙権を得れば、現に国政に影響を及ぼすことになる未成年に対しては、必要な教育であると、明快に説明すべきだろう。

重要なのは、テーマとなっている問題についてよく調べ、自分の頭でよく考え、相手の意見に耳を傾けることである。

今日では、私の十代の頃とは違って、ネット上にも玉成混淆ながら豊富な情報がある。SNSなどを活用している人は、社会問題などについて、気負わず発言した方がいいだろう。いつもそんな話ばかりでは疲れるだろうが、昼食で食べたウマいトンカツの写真と、基本的人権さえ否定するような政治家を批判するツイートとが、混ざり合ってTLに上がってくるのが、普通の大人であってほしい。

もしそうして、普段から自分の今いる社会について考える機会が与えられていれば、個々の政策を通じて政治にアクセスすることが可能になる。地元の候補者のうち、自分は一体、誰と考えが近いのか? ツイッターやラインだったら、誰をフォローしたいと思うか。ネット上には、候補者と自分の考えとのマッチングをサポートしてくれるようなサイトもある。

投票は、世の中を変えるだけでなく、自らを、政治的に主体化する経験でもある。それなくしては、自分に対しても他人に対しても、政治への口出しは説得力を欠くだろう。いずれにせよ、我々は民主主義国家の国民であるのだから。

その上で、やはり、今回の参議院選挙には、どうしても投票所に足を運んでもらいたい。幾つかある選挙のどれかに行かなかったというのではなく、この選挙に行かなかったということが、将来、非常に大きな後悔となることが目に見えているからである。

今回の選挙でまず見るべきは、経済から安全保障に至るまでの現政権の実績だろう。そのために行ってきた政府による報道機関への圧力など、投票の際の判断の根拠は幾つもあり、私の評価は非常に低いが、それと併せて重要なのは、首相自らがこれまで何度も明言していて、この選挙ではひたすら隠蔽している「現政権下での改憲」の是非である。これに賛同出来ないのであれば、野党に投票するより他はない。野党を積極的に支持できないとしても、阻止するためには、そうする以外に方法はないのである。

少し昔話になるが、1997年の終戦記念日に、まだ故筑紫哲也氏がキャスターを務めていた「ニュース23」で、「ぼくたちの戦争'97」と題する企画が持たれ、高校生がスタジオで討論をしていた。その時、参加者の一人が、こんな疑問を口にした。

「なぜ人を殺してはいけないんですか?」

この問いに、スタジオにいた者たちは絶句し、うまく答えることが出来ず、そのことまでをも含めて、その後大きな話題となった。私にとっても非常に印象的な放送で、後に拙著『決壊』には、これを模した場面を挿入した。

この少年の発した問いは、恒常的なニヒリズムに見舞われている今日の我々には、痛烈なところがあり、その後、多くの者が、これに対して倫理的、思想的、あるいは宗教的な見地から、応答しようと試みていた。しかし、そのいずれもが、万人に納得のゆくものではなく、たとえば、「自分が殺されることを想像してみろ。」という、最も常識的な答えでさえ、むしろ死刑になりたいがために通り魔殺人を犯したり、自爆テロを行うような人間に対しては、無力だとの印象を禁じ得ない。

この時もし、「そんなの、法律で禁じられてるからに決まっているだろう!」と言った人がいたとしたなら、恐らくはその浅さの故に、あまり感心はされなかっただろう。ところが、我々が今日、考えてみるべきは、まさにそのことなのである。

法律は勿論、憲法に基づいて制定されている。一体、憲法は、我々全員が殺人の禁止に合意しているからこそ、基本的人権の尊重を定めているのだろうか? それとも、いかなる理由を持ち出そうとも、全員が合意するということは不可能であるが故に、敢えてこれを定めているのだろうか?

日常というものは、私たちになかなか、法秩序の存在を意識させない。とりわけ、十代の若者にとっては、万引きだとか、ケンカだとか、あるいは原付バイクのスピードの出し過ぎだとか、そんなようなことで、法律違反をした時にだけ、わずかにその一端に触れた感触をもたらすだけである。

しかし、実のところ、ふと思い立ってコンビニに向かう途中で、誰からも殺されなかったという日常は、人間性にまつわる思想的、宗教的理由もさることながら、最低限のところでは、やはり、立憲主義に基づく法秩序が安定的に実現しているのである。そして、その法秩序を維持してきたのは、過去から現在に至るまでの有権者たちである。自発的に信号待ちするのも、その間に、突然、警察から不当に逮捕されたり、撃たれたりすることがなかったのも同様である。もしそうした事態が生じた時に、個々人の人権を尊重してくれるのもまた法秩序である。

シリアやイラク、あるいは南スーダンなどでは、実際に、そんな日常が全く保証されていない場所が存在している。日本の自衛隊とて、国連PKOとして派遣され、「戦時国際法/国際人道法上、合法的な紛争の当事者」となれば、当然に殺し、殺されるわけで、しかもその際に、戦闘員ならばまだしも、自衛隊員が民間人を殺してしまえば、現在の日本では、刑法の国外犯規定により、個人的な殺人として裁かれることになる、というのが、伊勢﨑賢治さんが熱心に議論している問題である。

この時、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」「法律で禁じられているからに決まっているだろう!」という浅いやりとりは、この問題の核心に於いて議論されることとなる。

私たちは、この国の法秩序をどのようなものであると考えるべきなのか? それは、私たちの日常がどうあってほしいか、ということに直結している。

政治には、なるほど、正負両面がある。政府は、政治権力を正しく用い、悪用してはならない。決して、正しいこともするから、負の面も我慢しろであってはならないのである。立憲主義とは、そうした権力の乱用を防ぐための前提である。

自民党の改憲草案にもう一度、目を通して欲しい。その危険性の解説は、既に様々な論者によって指摘されている。取り分け、真っ先に取り組む予定であるとされる「緊急事態条項」は必見である。

自分はなぜ今、こんな日常を生きているのか? その実存的な問いから、政治と法について考え、是非、投票所に足を運んでもらいたい。

著者プロフィール

平野啓一郎
ひらの・けいいちろう

小説家

1975年愛知県生。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書は『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ド-ン』、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『モノローグ(エッセイ集)』、『ディアローグ(対談集)』、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』など。近著は、作品集『透明な迷宮』、エッセイ&対談集『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』。

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