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「都知事」とは何か――都民も知らないその権力の源泉を知る

  • 佐々木信夫 (中央大学教授)
  • 2016年7月28日

前回の都知事選以上に争点が見えづらい今回の東京都知事選挙。しかし一票を入れる候補を決める際、候補者の政策や主張を比較、整理する前に東京都知事にはどんな権限があるのか、どんな仕事をしているのか、その存在の輪郭をはっきりさせておく必要があります。

そこで今回のポリタスでも2014年の都知事選時の特集『「都知事選2014」を考える』で取り上げた、都庁での勤務経験もある中央大学教授の佐々木信夫氏の著書『都知事―権力と都政』(中央公論新社刊)から「第1章:都知事とはなにか」を佐々木氏のご厚意で再度転載させていただけることになりました。初めて読む方はもちろん、前回も読んだという方もぜひ再度読み返してみてください。投票者を決める軸がひとつ明確になるはずです。

また『都知事―権力と都政』では、これまでの都政の歴史から都議会、都の財政、都の政策決定プロセスなど、都政を考える上での重要な知識が新書一冊にぐっと凝縮されています。そして投票に行く前に、ぜひご一読を。各電子書籍ストアでも購入できますので、投票日直前で書店に行く時間のない方は電子書籍でどうぞ。

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第1章 都知事とは何か

1 知事とは何か

知事という呼び名

行政のトップの呼び方として、国は首相、基礎自治体は市町村長と呼んでいるが、都道府県は、なぜ「知事」(ちじ)と呼ぶのだろうか。これには歴史がある。

知事の語源は「物事を治め司る」という意味だ。中国では寺院の住職の呼び名に使われている。日本では古く奈良時代に知太政官事というように「知」と「事」の間に官職(たとえば太政官)をはさんで使われた。それが明治時代に地方官の呼称に用いられるようになる。

一八六八年(明治元)、政体書で知府事、知県事というポストが置かれ、翌年の版籍奉還により、全国の藩を治める諸侯(旧大名)を知藩事に任命している。その後、治める任地の行政区画である「府」「県」を間に入れ、知府事、知県事と呼んだ。現在のように〇〇県知事と呼ぶようになったのは、一八八六年以降である。

戦前の府県は内務省の出先機関として扱われていたこともあり、内務大臣が任命する地方官としての知事であり、管轄する府県区域の国家行政一般を担当していた。

戦後は、府県の性格は一変した。知事という呼び名は変わらなかったが、新憲法で地方自治が保障され、府県は国と市町村から独立した完全自治体となった。住民が直接選挙で選ぶ公選知事制に変わり、知事は都道府県という自治体を代表し、行政を統括する独任制の執行機関と位置づけられたのである。

知事の身分

知事の身分は常勤の特別職地方公務員である。公選のため地方公務員法の適用はないが、同じ公選の非常勤特別職である地方議員とは区別され、報酬ではなく給与が払われている。

日本の自治制度は「二元代表制」を採用している。都道府県、市区町村を問わず、首長と議員をともに有権者の直接選挙で選び、自治体の政治機関の役割を担わせるという仕組みだ(1‐1)。これは国会議員だけを直接選挙で選び、国会が内閣総理大臣を指名し、内閣総理大臣が執行機関としての内閣を組織するという、国が採用する「一元代表制」とは根本的に異なる。

直接公選された首長と議会には、それぞれ執行機関と議事機関という異なった役割を持たせ、両機関は相互に抑制均衡関係を保つよう求められている。これを「機関対立主義」ともいうが、基本的にはアメリカ大統領制に近い。しかし、アメリカの場合と次の点が異なる。

第一に首長に条例、予算提出権を与えている。アメリカの場合、大統領に法案や予算案の提出権はなく、これらは基本的に連邦議会の権限となっている。これに対し、日本の自治体は首長が条例案や予算案の提出権を持ち、しかも予算編成は議会の関与を認めない首長の独占的権限としている。

第二に首長に議会解散権を与えている。アメリカの場合、連邦議会と大統領をつねに対抗関係に置くことを想定し、連邦議会に大統領の弾劾権を認めているが、大統領には連邦議会の解散権を与えていない。これに対し日本の場合、首長に議会の解散権を認め、議会が首長の不信任を議決(三分の二以上の出席で出席議員の四分の三以上の賛成)したときは、首長は一〇日以内に議会を解散するか、辞職するかを決めなければならないとしている。

そもそも議会の解散権は、議院内閣制において首相や内閣が議会と政治的に一体であることを確保するための制度だが、大統領制の場合、首長と議会の一体性を求めてはいない。ではなぜ首長に議会の解散権を認めたのか。それはアメリカ大統領制が、大統領と連邦議会が完全に対立したとき、両者を調整する制度的方法がなく、それを回避したかったからだ。日本の自治体では両者の全面対決で両機関が機能不全に陥ることがないよう、議会に首長の不信任議決権を認め、それに対抗する権限として首長に議会の解散権を認めたのである。

日本の自治制度は、アメリカ型大統領制にイギリス型議院内閣制の要素を加味することで、首長に強い政治的リーダーシップを発揮できるようにしたと理解することもできる。首長には条例、予算提出権以外にも、職員の任免権、行政執行権、課税徴収権、議会の解散権、条例の拒否権、さらに専決処分といった行政遂行上必要となる多くの権限が与えられている。

2 地位と権力

首都の知事

都知事とは首都の知事であるという見方がある。最近の都庁は新規職員の募集に「首都公務員」という表現を使っている。だが、実は日本の法律には「首都」の定めがない。首都は一般に「その国の中央政府のある都市」を指すが、そこでは政府の立法、司法、行政の主要機関が置かれている都市を指す。その点、東京はたしかに首都だ。しかし一方で、皇居の所在地を首都とする意見もあり、法律上明確になっていない。幸い現在は政府の主要機関と皇居が同一の東京都千代田区に置かれているから、首都をめぐる論争は起きていない。

とはいえ、首都は基礎自治体である「市」を指すことが一般的だ。その点、戦前の東京市は間違いなく首都だった。しかし一九四三年、東京市の廃止、東京府との合体で都制が敷かれて以降、戦後は首都にあたる市がない。そこで府県に相当する「東京都」を首都とみなすようになった。事実、都庁の英語標記は「Tokyo Metropolitan Government」である。そこから都知事は日本の首都を代表するポストと理解されるが首都知事という使い方はない。

都知事は直接公選によって選ばれる。その地位は全国有権者の一割に及ぶ一〇〇〇万有権者の最大得票を得た者が獲得できる。したがって都知事選挙は最初の候補者選びの段階から中央政党が関わり、選挙戦はマスメディアの報道も党首の応援も国政選挙並みに扱われる。

都知事の権力の源泉は、実はこの一〇〇〇万有権者から直接公選されるため、代表としての政治的正当性を獲得できる点にあろう。国民の支持と関わりなく、国会及び党内力学で首相が選ばれるという国政と基本的にこの点が異なる。

もう一つ、都知事は他の知事と違い、「都」という制度の特殊性により、知事と市長という二重の性格を持っている。二重行政の解消による戦費捻出をねらい東京府・市を合体させ「都制」が生まれたが、そこから現在まで都は府県であり市であるという二つの性格を併せ持つ。この二重の性格が行政や財政規模を大きくしている。

ここから都知事は他県知事より権力が強いという見方もできよう。一三〇〇万人という一般の県の五、六倍の人口規模と一二兆円という財政規模、そして知事権限と市長権限の一部を併せ持つ都知事は大きな影響力を持っているのである。

首相より強い権力

都知事は首相より強い権力を持つと言われる。

その根拠として、①先述したように都知事は全国有権者の一割に及ぶ一〇〇〇万有権者の手で直接選ばれる、②都の予算規模は韓国の国家予算並みの一二兆円、職員数一七万人と飛び抜けて大きく、トップに立つ都知事は裁量権も大きい、③議院内閣制の首相の任期は脆弱であるのに対し、大統領制の都知事は身分が安定し四年間全力投球できる、④閣僚の全員一致を原則とする合議制内閣の首相より、一人で意思決定できる独任制の都知事のほうが強いリーダーシップを発揮できる、などが挙げられる。

だが一方で、都知事はほかの四六知事と比較して、特別視できない面もある。①他の知事も有権者から直接選ばれ、都知事だけが別格ではない、②法律上、特別な権限を与えられているわけではない、③都の財政規模、職員数が飛び抜けて大きいのは、人口が多いからにすぎない、④かつてのように全国知事会長の指定ポストではない、⑤また都知事が国の大臣を兼ねているわけでもなく、まして都知事から次期首相が誕生するといったパリ市長とフランス大統領のような政治的関係もない。事実、戦後都知事から日本の首相になった者はいない。

だが、なぜそれでも都知事は強大な権力者だと言われるのか。

これは都知事というポストが持つ実権としての権力より、〝見えざる権力〟、潜在的権力が都知事を大きく見せているからと言えよう。それは都知事に就く者の個性や政治力によって、より増幅して見える場合もある。

第一は、国際社会における東京都が持つ影響力である。金融市場はニューヨーク、ロンドン、東京の動きが大きく影響する。もし経済規模を権力の淵源とみるなら、GDP(国内総生産)で東京都はカナダを抜く世界第九位の国に当たる。世界上位五〇〇企業の都市別本社数でも、東京が五一社とパリ(二七社)、ニューヨーク(一八社)、ロンドン(一五社)に比べ群を抜く(二〇〇九年)。都市別GDP(国内総生産)では東京がトップにあり、次いでニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、ロンドンと続くかたちだ(〇八年)。

第二に、国内における東京都の影響力である。東京には政治、行政、経済、情報、文化の中枢機能が集中している。GDPの約二割、国税収入の約四割、株式売上高の約九割、本社・本店、外国企業の五割、情報サービス業(売上)の五割、銀行貸出残高の四割、商業販売高の三割を東京が占有している。国公私立の大学有名校の多くも東京にあり、大学生の四割近くが東京で学んでいる。

第三は、東京の情報発進力である。主要テレビのキー局はすべて東京にある。全国紙、出版社の本社機能もほとんど東京にある。地方の特産物ですら東京発がよく売れる。都民の市場であるはずの築地市場は全国に水産物を供給している。外国人を含め出張、観光、買い物など多数の人であふれており、住みやすさランキングでも、チューリッヒ、コペンハーゲンに次ぎ世界第三位と国際的にも生活面の発信力が高い。

江戸から東京へ、四〇〇年以上も実質首都としての役割を果たしてきた東京の持つ強み、これが「東京ブランド」である。こうしたことが都知事を大きく見せていると言えよう。

都庁の最高権力者

都知事は都庁という巨大自治体のトップとしての権力を保有する。

自治体の首長は独任的な意思決定者という立場だが、それは政治家であり、外交官であり、経営者である三つの側面からなる。巨大な東京都の経営者という面をみておこう。

都知事は、都民の直接選挙で選ばれ、都庁を「統括し、代表する」東京都の顔だ。執行機関を代表する知事は政策立案、政策執行のほか、予算案・条例案の作成、地方税の賦課徴収、副知事、教育長など特別職の任命、局長以下一般職員の人事、教育委員や公安委員などの任免および指揮監督の権限を有している。

東京都の財政規模は、繰り返しになるが特別会計を含め一二兆円。警察、消防、学校職員を含む職員数は一七万人でこの任免権は都知事にある。自衛官を抱える防衛省は二五万人近い規模だが、それを除くと、国のどの省庁よりも都知事の人事面での影響力は大きい。

首相は内閣を代表しているが、予算執行や個別の政策決定に関わる主務大臣ではない。この点、都知事は行政執行のあらゆる分野に関わる権限を有している。東京都の公文書は基本的に都知事のサインを必要とし、都知事の名前で出される。

もとより、一般職の公務員は試験採用であり、昇進も一定のルールに拠っている。都知事の自由裁量による人事上の政治的任用ポストはそう多くない。たとえばアメリカ大統領は連邦政府の補佐官や閣僚、局長など幹部職三〇〇〇ポストを超える任用を行う。一説では大統領の交代で一万人の幹部公務員がワシントンを去るという。東京都と同規模のニューヨーク市でも、市長は助役や補佐官、局長など一〇〇人を超える幹部ポストを任用する。彼ら政治的任用スタッフはまさに首長の直属ブレーンとして機能するわけだ。

それに対し都知事は、地方自治法などの制約もあって、副知事四、教育長一、特別秘書二、若干名の参与(非常勤)の任用という程度の権限しかない。しかも、副知事や教育長は都議会の同意を要し、都知事の思うように決まるわけではない。事実、美濃部亮吉、石原慎太郎両知事は一期目の副知事人事で議会の同意を得られず、大きく躓(つまず)いた。

日本の警察は都道府県警察だが、都知事の警察権力はどうか。アメリカでは市警察で日本と仕組みが違うが、ニューヨーク市では市長が市警察官の総指揮官であり、治安判事として広範な警察権を持っている。大統領や州知事にいたっては軍の最高司令官である。

だが、都知事は日本最大の警視庁を配下に置きながら、警視総監はもとより警視正以上の幹部人事権はない。彼ら幹部は国家公務員という身分で警察庁長官の指揮下に入る。警視庁の予算も国に依存し、警察官の定数も都条例ではなく国の政令で定められている。都知事は警視庁の警察権全体を掌握してはおらず、自衛隊にも治安出動の首相への要請権しか持っていない。

とはいえ、巨大都庁の経営に関わるヒト、モノ、カネ、情報に関わる権限は基本的に都知事にある。大統領制での都知事は、日本の首相に次ぐ権力者という見方はそう間違いではない。

都知事の待遇

都知事の執務室は新宿都庁の第一本庁舎七階にある。都庁は第一、第二本庁舎と都議会議事堂の三つのビルからなるが、そのなかでひときわ高いツインタワーが第一本庁舎である。建築家・丹下健三の設計で地上四八階建てである。都知事はその七階を占有している。首相官邸が新しくなったとはいえ、一階のフロアを占有するような余裕はない。もちろん七階が都知事のフロアとはいえ、ワンフロアすべてを一人で使ってはいない。知事の執務室は一〇〇平方メートル(三〇坪)で、他は会議室や応接室など来客の対応などに使われている。

都知事には二名のSPがついている。警視庁から派遣されたSPは知事室に常駐し、知事の身辺警護に当たる。自ら任用した外部からの特別秘書二名のほか、都庁の部長級、課長級秘書など一〇名程度の職員が秘書スタッフとして日常仕えている。

四人の副知事や秘書以外の知事室機能は六階のフロアに陣取る。庁内では事実上、警備の厳しい七階は都知事のフロアと理解されている。

都知事の月給は本来は一五一万一〇〇〇円だが一〇%減額しており一三五万九九〇〇円、それにボーナス二・八四ヵ月(減額前三・一五)を入れ、年間二〇一八万円が給与所得である(二〇一〇年度)。これは必ずしも日本一ではなく、全国知事の給与所得の平均額一七七五万円(二〇〇六年分)より少し高い程度である(1‐2)。

国は小泉政権時に大幅値上げをした関係もあり、首相と最高裁長官が月額三三四万九〇〇〇円、年額五一四一万円(推定)、衆参議長が四八五七万円。国務大臣は月額一五一万二〇〇〇円、年額三七五三万円(推定)である(二〇〇七年度)。国会議員は国会法第三五条で「議員は、一般職の国家公務員の最高の給料額より少なくない歳費(給料)を受ける」と定められており、一般議員で月額一三七万五〇〇〇円に七一八万円のボーナスを加え年間約二四〇〇万円の歳費を受けている。

このように見ると、都知事の待遇は、給与面では一割減額しない場合で大臣並みの月給、年俸で国会議員以下、首相や最高裁長官と比べると半額になっている。

石原慎太郎の場合、作家として印税収入などもあり個人の年間総所得は四七知事のなかではトップ(約四二〇〇万円)とされている(『読売新聞』二〇〇八年六月三〇日)。

また国会や都議会の議員と違い、都知事には一任期ごとに退職金が支払われる。かつて知事らの退職金の計算は一ヵ月の給与に在職月数(四八ヵ月)、定率(各都道府県で決まっている)を掛けて計算する慣わしがあったが、世論の高額批判を浴び、現在は約半分に減額している。それでも石原知事で一期終了毎に四七〇〇万円(推定)の退職金を得る。これも日本一ではなく、ある県知事は五〇〇〇万~五五〇〇万円の退職金を得ている。四年一期でこれだけの退職金を払う根拠は何か、国民的な議論に付すべきときだろう。

国会議員の場合、文書交通費の名目で月額一〇〇万円、会派(政党)に一人当たり月六五万円の立法調査費、さらにJR各社や航空会社の特殊乗車券が支給され(国費負担)、公務出張の場合、別途交通費などが支給されている。これらを含めると、国会議員一人に対し税金から支払われる額は年間四四〇〇万円に及ぶ。

都知事の場合、知事交際費などで公務に関連する経費を賄うが、国会議員のように一議員に三人の公設秘書がつき、その費用も公費から支出するという仕組みはない(人件費二〇〇〇万円)。石原知事の場合、二人の特別秘書がおり、特別職公務員として処遇されている。

都知事の仕事ぶり

都知事はどれぐらい忙しいか。少し古いが、都の局長から都立大教授になった磯村英一が、東京五輪が行われた一九六四年の東龍太郎都政の様子を次のように描いている。

〝世界で一番忙しいのは東京都知事だ〟というのがライフ記者(外国人)による都知事に会っての印象である。数年前、その知事に会うため、国連から派遣された都市調査団の一行の団長格のワイズマンが、知事の面会にいった。応接室に通じる廊下は、お世辞にも広いとはいえない。やっと一人通れるくらいの広さ。そこを役人の一人が脱兎のごとく駆け抜けていった。ワイズマンは、なにか災害でも起こったかと聞いたが、格別のことがあったわけではない。そこでいわく〝神風役人〟だと。外国では、よほどのことがないかぎり、かけ足などするものではない。役人のかけ足がそのまま知事の忙しさにつながる。(『東京都知事』)

たしかに都知事は〝世界で一番忙しい〟のかもしれない。しかし、週二、三回しか出勤しなかったと批判されたこともある石原知事の場合、そうではないだろう。都知事の仕事はやり方で変わる。対照的な都知事の仕事ぶりを紹介しよう。

鈴木俊一(在任一九七九~九五)が都知事であったときは、毎日九時までに出勤し、そこから平均五分刻みで来客があったという。面会者は一日平均三〇人。局長などの局務報告五件、記者会見・会議二回。夕方五時以降はパーティーや会合二ヵ所、そして帰宅し知事公館でも人に会うという日々だったという。

休日、出張を除いて年間二八〇日で計算すると、年間、面会者八四〇〇人、局務報告一四〇〇件、会議やパーティーへの出席が各五六〇回となる。それに海外出張が年三回程度(三〇日)、そこでの面会者も膨大な数である。首都の知事として海外からの公式・非公式の訪問客も多かった。外部各種団体の会長などの肩書きが一七〇に及んだ。そして、一年でまとまった休日は八月の一週間のみだったという。知事秘書らの証言によるものだ。

だが、鈴木の後任として青島幸男(在任一九九五~九九)が都知事に就任すると様相が変わる。執務時間が終るとまっすぐ帰宅しパーティーや宴席にもほとんど出ない。副知事らに代理を頼むことが多く、外部の肩書きの多くは返上している。実は石原知事も青島スタイルに近い。在任中も作家活動を続け、何冊も本を出している。外部団体などの仕事は副知事に任せている。大相撲千秋楽で石原知事が都知事賞の優勝カップを渡す姿を見たことはないだろう。石原の動静は公式の日程以外ほとんど発表されていない。

だからといって、仕事をしていないわけではない。石原は政治に徹するという哲学のもと、国会議員や元同僚、作家、スポーツ選手、海外の要人らと精力的に会っている。そこで話し合われたことが、たとえば東京五輪招致への立候補となる。都庁幹部にとっても寝耳に水の話だったというが。石原の隠密裏ともいえる行動が、彼の権力を増幅させているともいえる。

3 四人の副知事

副知事とは

都庁には四人の副知事がいる。原則として四年任期で都知事を補佐している。他の県では二人制が多く、一人は内部からの生え抜き、もう一人は国からの出向者となっている。都の場合、ほとんどが内部の局長からの抜擢である。もとより石原都政の浜渦武生、猪瀬直樹のように外部からの起用も時々ある。

都知事の内部ブレーンにあたる副知事は、どんな役割を果たすのか。長らく副知事は三人制だったが、鈴木都政四期目に女性登用をねらい定数を四に増やした。ただその後の青島、当初の石原は副知事を三人しか置かなかった。だが、石原は三期目の残り任期一年のとき、四人とする。

自治体では首長以外のすべての職員は法律上「補助機関」とされる。副知事は実質上この補助機関の頂点である。三ないし四人で担当部門を分担し、知事の職務代理者として仕える。この職務代理者をあらかじめ定めておくことが法定化されており、この代理順位によって序列ができる。

都庁では副知事(vice governor)の順位によって通称V1、V2、V3などと呼ぶ慣わしがある。これは必ずしも上下の序列ではなく、知事職務代理者としての序列にとどまる。まして副知事の実力や庁内影響力を表すものではない。通常は、V1が知事の持つ人事権を補佐し、庁内的には実力者と言われることが多い。だが、石原都政では外部移入の浜渦副知事(V3)に知事自らが持つ人事権と庁内の統制の代行役を委ねたり、その後の猪瀬副知事に国との交渉や特定プロジェクトの運営を委ねるなど重用した。彼らは序列にかかわらず、強い影響力を持っていたともいえる。

事務次官との酷似

都の副知事は各省の事務次官と酷似している。しかし、事務次官は一人であり、省庁官僚のトップに立つが、慣例的に一年から二年交代が多い。それを使う大臣には事実上事務次官の人事権がなく、省庁官僚のなかの序列で決まることが多い。省庁の官僚人事を一手に握り、エリート官僚たちが究極にめざすものは「事務次官」とされる。

事務次官は政治家たる大臣を補佐するという意味では「副」だが、所属の省庁官僚制のトップとして省益を守るように行動することが多い。自民党政権下では内閣の政策決定に影響力を持つ事務次官会議の構成メンバーであり、事務方の内閣官房副長官ともなれば各省庁間の政策の調整役として政治と行政の接点に立っていた。だが、政治主導を唱える民主党政権に代わってからは、政治主導を阻害するものとされ事務次官会議は廃止された。

都庁の場合、人事は純血主義と言われ、副知事から末端の職員までほとんど都庁採用職員で固められる。毎年、国の省庁から部課長クラスへの出向は若干あるがその数は少ない。局長への登用や副知事への起用はまずない。二年程度で所属の省庁に戻る。

都の副知事は四年という知事の任期と原則的に連動しており、知事との運命共同体の色彩が強い。したがって人選は知事の一存で決まる。過去の就任例でみると副知事に就くキャリアに一定のコースらしいものがあった。たしかに知事が交代すると猟官運動もあるが、国の事務次官と違い副知事をめぐる人事抗争が表面化することはまずない。

あるとすれば、副知事が議会の同意人事のため、それを逆手に議会が抵抗する場合である。知事と議会の関係がうまくいっていない場合、副知事人事を否決することで議会の存在感を誇示しようとする。たとえば、美濃部都政の一期目は議会の抵抗で副知事を一人しか置けなかった。また、石原都政の一期目に、石原は自分の政治秘書を副知事に起用しようとしたが議会の抵抗に遭い就任は予定より一年遅れた。

副知事の選ばれ方

副知事はブレーンなのか事務補佐役なのか。歴史的に試行錯誤の上、流れができている。都庁の副知事は内部起用が多いと述べたが、最初からそうであったわけではない。戦後の初代知事の安井誠一郎(在任一九四七~五九)は一期目の前半は副知事三人をすべて外部から起用した。ブレーン役として元貴族院議員の大木操、会社役員の住田正一、東大教授の山田文夫と政・財・学からの登用だった。

だが、東知事時代は国の官房副長官であった鈴木俊一を筆頭副知事に迎え、二期八年行政を実質委ねた。都政の実権は行政にアマチュアの都知事・東より、プロを自認する筆頭副知事・鈴木の手中にあり、東都政とはいっても「主演・東、演出・鈴木」都政とも評された。この間、副知事・鈴木のほかは内部から四人の副知事が選ばれたが、いずれも生え抜き職員で事務的な役割を果たすにとどまった。

以後、美濃部、鈴木、青島、石原と都知事は替わるが、石原都政が外部から浜渦、猪瀬を副知事に起用したことを除くと、外部から副知事を起用した例はない。すべて内部起用という慣行ができ、しかも複数局を分担管理する大局長制的な副知事体制ができあがっていた。

内部からの副知事起用が伝統となった都庁では、副知事人事への関心が高い。四年に一度の人事でもあり、都知事選が終わるとその話題で賑やかとなる。そのポストに誰が抜擢されるかでそれに続く局長人事が大きく変わる。それに関連し部長人事も変わるからだ。その点、副知事人事は都庁人事の最大のドラマかもしれない。だが、都民が関心を持つことはまったくない。副知事は特別職なので定年はないが、局長クラスは一般職であり定年がある。そのため、副知事は概ね主要局長のポストにいる定年の近い者から選ばれることが多い。

戦後副知事四七人の就任時の平均年齢は概ね五五歳だが、最近はそれより高まる傾向にある。

副知事のコース

政策ブレーンとしてより、いくつかの局を束ねる大局長制を取る都庁の副知事は、そこに辿りつくキャリアも影響する。

副知事になるには伝統的に三つのコースがある。第一は財務局長からのコース。戦後、安井から石原都政まで一六回の副知事人事が行われているが、うち一〇回は財務局長(再任含む)が起用されている。第二は総務局長ないし企画系局長(知事本局含む)からのコース。都庁の総務局長は各省官房長に当たる役目。また企画系局長は政策ブレーン的存在で副知事昇格の至近距離にある。第三は事業系局長からのコース。時の重要な政策テーマを抱え、脚光を浴びている局長が選ばれることが多い。美濃部都政で清掃局長、鈴木都政で港湾局長、石原都政で産業労働局長からの起用といった具合だ。

一方で、話題となりながら実現しないのが技術系の副知事だ。土木系の都市整備局長や建設局長からの起用が取り沙汰されるが、いまだに東京都技監という処遇にとどまっている。都市再生を旗印に掲げた石原都政でも実現しなかった。

このように都庁の副知事は他県と選ばれ方が大きく異なる。だが、いつまでもこのような都庁純血主義を続けるのがよいのだろうか。仮に副知事三人制を前提としても、事務官僚的な副知事は一人でよく、残る二人は政策ブレーンとしての副知事が望ましい。そして、人材は内外から広く迎えるべきではないだろうか。

異色の二人の副知事

石原都政で外部から招いた二人の副知事はいずれも異色な人材だった。一人は一期目から二期目前半にかけて副知事を務めた浜渦武生だ。彼は石原が参院議員から衆院議員に転じた一九七二~八六年まで公設秘書だった人物である。石原都政が始まった翌月の一九九九年五月から都知事の特別秘書となり、二〇〇〇年七月から副知事となり、〇五年六月の都議会で問責決議が可決され、辞職するまで五年余にわたり在任した。

都庁に出勤することの少ないとされた石原知事に代わり、都庁幹部の動静を把握する。浜渦は自分への面会の可否を権力増大の手段として使ったとされる。会ってもらえない都職員は、〝お手紙〟(各部局が進めようとする施策の要点メモをA4版にまとめたもの)を副知事本人ではなく秘書に渡す。返事が「〇」とあれば了解、「×」とあれば練り直しと理解され、この回答も秘書から受け取るという仕組みだ。時に叱責された幹部職員に〝詫び状〟を出させるなど、独裁的な体制を築いていた。

二〇〇五年三月、議会で知事への「やらせ質問」が問題となり、それを浜渦が仕掛けたとされた。都議会に百条委員会が設置され、同年六月に問責決議が可決され、浜渦は辞任に追い込まれた。再三にわたり浜渦を「非常に有能な腹心」と持ち上げてきた石原も、最後辞職を求めざるを得なかった場面で「浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬しょく(謖)を切る以上に大事な人材」と心境を吐露している(『日本経済新聞』二〇〇五年六月五日)。

もう一人は猪瀬直樹だ。石原知事による一本釣りである。小泉純一郎政権下で行革断行評議会委員や道路関係四公団民営化推進委員会委員として、メディアへの露出度も増えていた。官僚制への切り込み隊長のイメージを評価したのか、石原は二〇〇七年六月から副知事に選任している。参議院宿舎建設差止め、周産期医療体制整備チームの責任者、財政破綻した夕張市への都職員派遣や東京メトロ・都営地下鉄統合問題での国との折衝役などを引き受け、都議会でも再三石原に「都庁官僚の発想にはない優秀な副知事」と持ち上げられている。猪瀬は自らの体験を『東京の副知事になってみたら』といった本に記している。

この二人は、石原にとってブレーンとしての副知事であったことは間違いない。都庁内部の統括ブレーンとしての浜渦、国、メディア対策など対外折衝ブレーンとしての猪瀬と、それぞれ持ち味は違うが、都庁官僚をあまり信用しない石原にとって重要な存在であったことは間違いない。この二人が都庁純血主義の組織風土にインパクトを与えたことも事実だ。

知事特別秘書

副知事以外にも特別秘書や政策ブレーンとしての「参与」(非常勤)も数少ない側近のポストである。特別秘書には特別職公務員の地位が与えられ、一般職員の秘書と異なり、知事の個人的関係から登用され、政治的補佐、政務情報の収集などにあたる。

都庁職員から任命される秘書を事務担当秘書とするなら、特別秘書は政務担当秘書と呼んでいい。石原は、副知事選任を否決された腹心の浜渦を議会の同意を得るまで特別秘書に起用したが、これは例外中の例外である。特別秘書はあくまでも秘書業務を行う腹心と理解してよい。国会議員が公設秘書二人と政策秘書一人の人選を自分の一存で行うのと似ている。

美濃部は一二年間の在任中、特別秘書を五人登用した。知事就任とともに雑誌『世界』の編集部出身のジャーナリスト安江良介、都議会議事部長出身の金子光の二人を起用。のちに都労連副委員長出身の組合運動家石坂新吾、日本社会党専門委員経験の菅原良長、さらに最後は組合運動家で自治労本部事務局長の山本昭である。

鈴木は都庁の広報室長出身で何度も鈴木の部下として仕えた奥野昭三と、メディア対策として『毎日新聞』のベテラン記者浅井健二の二人を三期一二年にわたって使った。青島は、参議院議員のときの公設秘書・逸見廣明一人を使い、石原は、浜渦らと同様、石原の秘書軍団といわれた兵藤茂と高井英樹という腹心の二人を特別秘書として使った。

4 都知事の選ばれ方

時代で変わる知事像

時代が持つテーマにより選ばれる都道府県の知事像は変わる。

第一期は戦後から一九五〇年代の復興期。戦前の官選知事がそのまま立候補し当選するものが半数にのぼった。安井誠一郎もその一人である。

第二期は一九六〇年代の高度成長期。経済成長を目的に地域開発が進み、自民党系知事が半数近くを占めた。東龍太郎もそれに近く東京五輪の成功が課せられていた。

第三期は一九七〇年代の成長のひずみ期。高度成長の影が問題にされ福祉や環境、住宅問題などが焦点。美濃部亮吉らストップ・ザ成長を掲げる革新系学者知事が台頭した。

第四期は一九八〇年代の低成長期。地方財政は危機的となり、行財政改革が最大のテーマになる。保革相乗りで実務家の官僚出身知事が支配的となった。鈴木俊一は典型例である。

第五期は一九九〇年代から現在。不況脱出と地方分権の推進が課題となり、強烈な個性とリーダーシップを持つ改革派首長が台頭する。青島幸男、石原慎太郎などもそれだ。

どのようなキャリアの持ち主が知事になるのか。時代ごとにタイプが違うが、大きく五つに分けられる。①県庁生え抜き組、③自治官僚(総務省)組、③他省官僚組、④国会議員組、⑤学者・文化人組である。当初は②③タイプが多かったが、一九七〇年代は都市部で⑤タイプが目立ち、現在は②③の官僚出身者が知事全体の六割を占めている。特に中堅課長(四〇代後半~五〇歳前後)からの転身組が多く、次官、局長といったクラスではない。また、最近の特徴としては、国会議員から知事をめざす者が増えている点が上げられる。

都知事候補選び

国政への影響が大きいため、都知事選挙には国政の介入が強い。政党本部が候補者選びから選挙戦まで仕切ることも多い。しかしそれは必ずしもよい結果を生んではいない。他県では政党本部が指名した省庁からの推薦候補が「お墨つき候補」として当選する確率が高いが、都の場合、都知事は都民の意思で選ばれている。そこには歴史がある。

たとえば東京五輪の成功を花道に退陣する東龍太郎知事の後任選びである。東都政を八年間副知事として支えた内務官僚のエース鈴木俊一は、後継候補は自分と思っていた。しかし、高度成長の歪みで公害問題など都市問題が噴出するなか、「鈴木では勝てない」と自民党政権は後継指名をせず、鈴木は大阪万博の事務総長への転出を迫られた。

また、鈴木の四選出馬に反対した自民党は、小沢一郎幹事長が主導しNHKキャスターの磯村尚徳を立てた。このとき鈴木は「東京の自治を守る」と強く反発し、再選にこだわり、結果、大差で四選を果たした。

さらに、鈴木都政一六年が終わるとき、自民党は内閣官房副長官を長く務めた石原信雄を後継候補とし、公明党など多くの政党が相乗りした。だが、相乗り候補への反発と官僚都政への批判から大方の予想とは違い、都民は青島幸男を選んだ。

一期で終焉した青島都政の後継をめぐって、自民党は国連事務次長の明石康を推し、鳩山邦夫、舛添要一、柿澤弘治ら有力候補がひしめく乱戦となった。だが最終的に勝利を手にしたのは、無党派を標榜した石原慎太郎だった。

このように都知事選挙は、国政に大きな影響を与えるとはいっても、時の政権や中央政党の思惑通りになったことはほとんどない。

都知事選の特徴

都知事選挙は、1‐3のように戦後一六回行われている。都知事選の特徴を挙げると次のようになる。

第一に、数名の有力候補とそれを取り巻く一〇人以上の候補者によって争われる。これまで他県のような無競争当選はない。都知事選は地方選の天王山とされ、国政の先行指標にもなる。その点、候補者には首相並みの関心が集まる。

第二に、都知事が交代する場合、まったく違うタイプの人物が選ばれる。たとえば、経済学者だった美濃部亮吉から内務官僚のエースだった鈴木俊一、親しみやすさが売りだった青島幸男から強いリーダーシップを期待された石原慎太郎のようにである。

第三に、当選者の獲得票である。都知事はみな二期目(再選時)に最大得票を得ている。二期目の安井は初当選時の二倍、東も一・二倍、美濃部は一・六倍、鈴木は一・二倍、石原は一・八倍だった。もっとも都知事に限らず、総じて首長選は二選目の選挙が一番強いと言われるが、都知事選もその例外ではない。

第四に、初当選の年齢が高く、都知事を終える最終就任年齢は七〇歳に達しているのがほとんどだ。安井の初当選は五六歳で三期目を終えたときは六八歳。東は初当選が六六歳で二期目を終えたときは七四歳。美濃部は初当選が六三歳で三期目を終えたときは七五歳。鈴木は初当選が六八歳で四期目終了時は八四歳。むしろこれは例外だろう。青島は初当選が六二歳で一期目の終りが六六歳。石原は初当選が六六歳で三期目終了時は七八歳と鈴木に近い。

全国的に知事の年齢が四〇歳から五〇歳台へと若返りが見えるなか、高い知名度とカリスマ性が求められる都知事は、年輪を重ねた世代が選ばれる傾向にある。

さらに第五として、過去のデータから言えるのは、現職の立候補に敗北はないことである。都知事の交代は現職が退陣したときのみである。また立候補はしても他府県知事の経験者が都知事になった歴史もない。

いずれにせよ、誰が都知事になっても、首都の顔、日本の顔として国政にも大きな影響を与える。都知事には①都民を代表する政治家としての顔、②巨大な予算、職員機構を率いる経営者としての顔、③首都東京を代表する外交官としての顔という三つの顔がある。この三つの役割をバランスよく果たせる資質の持ち主―それが都知事の条件と言えよう。

さらに、都知事選の争点は経済重視か生活重視か、ハード政策重視かソフト政策重視かで争点が大きく振れることである。大胆に表現すると、1‐4のようになる。

アジア初の東京五輪を開催するに当たり、東都政は首都高速道路の整備やスタジアムなど公共施設の整備に追われた。そこで展開されたのは経済重視、ハード政策重視の都政であった。だが、次の都政はこれを批判し、福祉や教育、公害問題の解決を訴えた生活重視、ソフト政策重視の革新・美濃部亮吉が都知事選を制し、一二年間の革新都政が行われている。

しかし、美濃部都政の終わりは革新都政の終わりとなり、バラマキ福祉を批判し財政再建を旗印に掲げた自民党などが推す鈴木俊一が当選。マイタウン東京構想、多心型都市構造への転換を求め、臨海副都心開発など経済重視、ハード政策重視の都政が一六年間続く。

鈴木退陣にともない、それを批判し生活重視、ソフト政策重視で当選したのが青島幸男。世界都市博を中止し循環型のリサイクル都市を掲げ生活者起点の都政を展開した。

次に登場した石原都政は、構造改革路線を鮮明にした小泉政権と二人三脚で都市再生を掲げ経済重視、ハード重視の政策を展開。凍結されていた外郭環状道路の工事を再開、羽田空港の国際化に向けた拡張工事などに力を注いだ。

こうしてみると、アメリカ大統領選挙が民主、共和両党の政策の違う候補を交互に大統領に選ぶのと似て、都民有権者も都政の政策に関する振り子を大きく振るような投票行動をとる傾向が強い。

著者プロフィール

佐々木信夫
ささき・のぶお

中央大学教授

1948年(昭和23)岩手県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。法学博士(慶應義塾大学)。東京都庁勤務を経て、89年聖学院大学教授。94年中央大学教授、2001年より中央大学大学院経済学研究科教授。専攻、行政学・地方自治論。主な著書に『都市行政学研究』(勁草書房,1990年)、『都庁――もうひとつの政府』(岩波新書、1991年)、『東京都政』(岩波新書、2003年)、『自治体をどう変えるか』(ちくま新書、2006年)、『現代地方自治』(学陽書房、2009年)、『地方議員』(PHP新書、2009年)、『道州制』(ちくま新書、2010年)ほか。

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