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【沖縄県知事選】2014沖縄県知事選挙――さまざまな温度差から見つめる民主主義

  • 舩橋淳 (映画作家)
  • 2014年11月17日

東京では、やれ解散総選挙だ、やれ消費増税率10%先送りだ、と政権のぶら下がり広報装置と化した大手紙は、ことごとく沖縄県知事選挙を軽んじる日々が続いている。

それは地方と首都の温度差と軽々しく言ってよいものではなく、幾重にも塗りたくられた犠牲と放置の構造があるのは、多くの人が知っているだろう。沖縄の問題は、安全保障など様々な局面で、私たち日本人全体の問題そのものであり、その点で今回の選挙を無視することは全くできないのだが、ここでは混在する様々な問題点を整理して、視界の見通しを改善してみたいと思う。

1.本土との温度差

遠く離れた土地へ、都市部では決して背負いたくない「迷惑施設」を押しつけるのは世界中どこでも見られる現象だが、ことに沖縄に関しては異常である。日本の米軍基地の74%が、国土の0.6%ほどでしかない沖縄に集中しているのだ。

人間は他人の痛みに疎いといえども、これだけ偏った押しつけはないだろうと思うし、この不平等さについて多くの日本人は気づいている。単に直視せずに放置しているだけなのだ。

311以後、福島—沖縄について「犠牲のシステム」(高橋哲哉氏)として、原発立地と沖縄の基地問題をつなげて議論されることがよく見られる。確かに自宅の前に建設するといわれれば、誰もが拒否する原発/軍事基地を、多額の交付金と引き替えに飲み込ませ、いったんできてしまえば既成事実として数十年も背負わせたまま、文句が出てくれば新たなカネで黙らせるという点、また「施設とともに生きる」歴史の中で地元経済が完全依存してしまい、経済的自立とアイデンティティを消失する点、また「次の時代を担う子や孫の世代に禍根を残すことのない責任ある行動(翁長候補)」が必要だ、と心ある人間がさんざん忠告を発しているにも拘わらず、いま目の前の経済政策として、施設は不可欠というレトリックで、現状維持を飲み込まされてきたという点、そしてそこから遠く離れた東京などの都市部は、福島/沖縄の恩恵を受けながらも、それに気づくことなく、無関心を決め込むという点——以上は共通している。

しかし、一方で琉球王朝以前は独立していた国家であったが、17世紀以降は実質本土に従属させられ、太平洋戦争では流血の現場として犠牲を背負わされた場所であるという意味で、長く虐げられた負の歴史があり、その独特な地域性を無視することはできない。

よって、沖縄基地問題については、そうした違いを受け入れつつ、しかし、日本の民主主義の問題として、犠牲のシステムをいかに解消し、可能な限り不平等さをなくすべきだ、という人権問題としての議論を中心にすべきだろう。放射能のないところで住むのと、放射能のある下で住まわされることは法の下で平等なのか、という議論が福島であるように、沖縄では「望みもしない軍隊基地に囲まれた環境で住む」のと、「そのような迷惑施設がない環境で住む」のが、法の下で果たして平等なのか、問われてしかるべきだ。

2.地元の経済という温度差

福島との共通点としてもう一つ言えるのは、置いてきぼりのまま翻弄されるのは、地元の市民であるということ。国政も県政も上から基地を作る、県外移転、かわって県内移転と、ころころ勝手をいうのは簡単だが、それを背負わされる市民は、日々の生活がもろに影響されるのだからたまったものでない。個人にとり、せっかくしっかりと整えた生活基盤を、全て台無しにされることほど酷い仕打ちはない。長年にわたり地元経済の中核になってしまった米軍基地を移転させれば、それが「激震」となり、生活基盤を喪失してしまう人は多くいる。しかしそれでも、共存はできない、傷を負ってでも沖縄のために米軍基地を排除すべきだ、と腹を括った人々も地元には多くいる。これが原発立地とは少し異なる点である。共存を拒み、痛みを伴ってでも「いらないものはいらない」と叫ぶ人々には敬意を払うべきだし、その傷の痛みを感じつつ、その主張は正当だと僕たち本土の人間は受け入れるべきだと思う。今回の選挙は、この沖縄の“基地拒否の民意”を再度確認するまたとない機会となるだろう。現実的な基地負担軽減は辺野古移転である、という国や県よる「大きな建前」に納得するのか、失われた平等を取り戻すべき!と怒りを表明するのか、はっきりするはずだ。

国は、長年沖縄に振興交付金を浴びせかけることで、地元の不満を和らげてきた。つい去年の暮れも2021年まで毎年3000億円への増資を首相に取り付け、仲井真前知事は「これでいい正月になる」と満足していた。また、「成長を遂げる沖縄経済や県民生活の流れを止めるな」とも発言しているが、これは、原発立地市町村の首長が、原発再稼働を推すときのレトリックとぴたりと一致する。目の前の、それこそ2~3年ほどの町の経済のために、町全体の自立性喪失を直視していない。沖縄では、交付金なしではやっていけなくなってしまった弱体化した経済が大きな問題である。

だからこそ、基地問題の出口とは、基地用地返還後の跡地利用・再開発による経済の立て直し、自立化のロードマップを示すことを意味している。そのように考えなければ、沖縄の未来が成立しないからであり、これを最も真剣に、信念を持って示す候補が民意を捉えるのではないかと私は考える。

3.「国家の安全保障」という温度差

米軍が沖縄に駐在していることが抑止力になる、とよく耳にする。本当だろうか。今、尖閣諸島問題や靖国参拝、従軍慰安婦否定などで首相みずからが傷つけ、悪化させ続けている日中関係があるが、例えば、中国が日本へ本気で戦争を仕掛けるのなら、わざわざ狭い沖縄を攻撃せず、直接本土を爆撃するだろう。沖縄が本土の防衛戦線となることは、地理上有り得ない。さらに、中国と日本が本格的に戦争へ突入したとき、果たしてアメリカは日本を守ってくれるだろうか。言うまでもなくアメリカにとって中国がアジアで(or 世界で)最も重要なパートナーであり、日本のためにそれを反古にするなど有り得ない。これはよく誤解されているが、日米同盟には、日本が攻撃を受けたときアメリカが軍隊を出動させる義務はない。大統領は、出兵するか否か米国議会の議決を経て初めて承認されるのであり、アメリカが中国を敵に回して、日本を守ることなど議決されるはずがない。製造業の多くを支える「世界の工場」中国を傷つけることは、アメリカ経済にとって自殺行為だからだ。「集団的自衛権によってアメリカの船を守れば日本が平和になる」と首相が宣っているが、それ政権内のフィクション(共同幻想)としての日米同盟であって、リアルな世界ではアメリカはむしろ中国に味方するしかない。

いま日本という国家の安全保障を考えるとき、米国の傘の下という半世紀を超える日米安保のフレームワークはもはや有効ではなく、日本は主体的に自衛と向きあうしかない。それには自衛隊の再定義が必要になってくるだろう。平和憲法を遵守した形での自衛とは何か、というとてつもなく難しい議論である。

沖縄について言えば、米軍がそこに集中して駐在することに、日本側のメリットは少ない。むしろアメリカ側のメリットで沖縄が維持されているのが真実である。(理由は以下に記す)

4.アメリカ本国との温度差

「実はアメリカは、沖縄を必要としていないのではないか?」「中国大陸に対して沖縄は近すぎる。グアムぐらいが丁度いいとアメリカは思っている」という、沖縄不要論を耳にすることもあるが、これは果たして本当なのか。

実際に外交専門誌Foreign Affairsや The Diplomat やTIME誌など、近年のものをサーチし、読んでみたが、アメリカ側の言説で沖縄不要論は、殆どなかった。むしろ逆で、沖縄は東アジア安全保障の”Linchpin”(要)とする意見が多数見られた。ここにいくつか紹介すると、

Aside from US forces in South Korea (which are exclusively focused on the North Korean land threat) there are just two significant concentrations of US troops in East Asia: in Okinawa and on the Pacific island of Guam. Okinawa lies just an hour’s flight time from both the Korean Peninsula and Taiwan; Guam, by contrast, is 1000 miles from any potential theatre of war.

It may be easier for us to be there [in Guam], as far as the diplomatic issue is concerned,’ says Air Force spokesman John Monroe. ‘But if we’re in Guam, we’re out of the fight’ due to the distance. For combat forces to be capable of reacting quickly to the most likely crises, Okinawa is the only realistic option.

北朝鮮との領土紛争にフォーカスせざるを得ない韓国駐留軍はおいて、東アジアでアメリカの軍事力が集中している重要な駐留施設は二つある:沖縄とグアムである。沖縄は朝鮮半島と台湾という衝突が起こりうる現場へ一時間の距離にあるのに対し、グアムは1000マイルも離れている。「外交問題を考えれば我々がグアムにいる方がよっぽどいいだろう。」空軍のジョン・モロー氏は言う「しかし、グアムにいれば戦場からは圏外だ。可能性のある軍事衝突に急行し、介入するためには、沖縄が唯一の現実的な選択肢である。

<The Diplomat誌. Why Allies Need US Base

“For many in Okinawa, Futenma and its 2,000 American personnel have been a perpetually noisy and polluting symbol of continuing U.S. dominance. But U.S. military leaders insist that as long as the 3rd Marine Expeditionary Force is based on Okinawa, they need the air base, which allows them to rapidly deploy Marines throughout the region.”

沖縄の多くの人々にとり、普天間基地と2000人のアメリカ人は不断にうっとおしく、米国による支配のシンボルである。しかし、アメリカ陸軍幹部は、海兵隊第3遠征隊が沖縄にある限り、東アジア一帯に海兵隊を派遣できる、普天間飛行場は不可欠であると主張する。

<TIME誌. Why Japan and the U.S. Need the Futenma Base on Okinawa

これらアメリカ軍関係者の証言は、普天間基地移設問題が、米軍兵によるレイプ事件があった後19年間もデッドロック状態であったことを自ずと説明している。アメリカ側にとって沖縄は最重要基地であり、韓国やプエルトリコなどのように、現地の反対運動があったからといって易々と撤退する訳にはいかない。一方、日本は地元の反対運動が強烈で、県内移転が出来なかった。2009年当時の鳩山政権が普天間の県外移転を打ち出した時、国内のみならず、アメリカ、韓国、オーストラリアなどから「今アメリカ軍を日本から排除するのは、いいタイミングではない」という明確な圧力があったという。

その後、鳩山前首相が公約撤回に追い込まれ、政権までもがフェイドアウトしたのは周知の通りである。アメリカにとり、沖縄の重要性とは、今もなお確固として存在しているのである。

5.結論:温度差を埋めるために民主の声を成熟させる

では、沖縄基地は未来永劫続くしかなく、地元の住民運動は捻り潰されるしかないのか。現に仲井真前知事が主張する枠組みは、<普天間廃止は絶対で、辺野古移転を拒否するなら、解決策は嘉手納基地に移転・凝縮するしかなく、それは米国が飲まないだろう。だからこそ、辺野古移転で、最大限の地域振興交付金を政府から引き出すのが、沖縄の未来のために最も現実的な妥協案である>としているのだ(しかし、公約違反であるのは変わりない)。

ところで、アメリカが本当に沖縄基地を諦めないのか、ということについて懐疑を挟む意見もある。今年初めのThe Diplomat 誌の記事である。

The U.S. spends inordinate amounts of money trying to impose democracy around the world. It must recognize, and thus honor, democratic victories wherever they come, even if – especially if – they are in conflict with its own interests.

(地元沖縄の反対運動の加熱を受け)アメリカ合衆国は、世界中で“民主主義”の価値を広めるため、莫大な金を投じてきた。だから、たとえ利害が対立するとしても、いや利害が対立するからこそ、民主の声が勝利すれば、それを認知し、讃えるべきなのだ。

<The Diplomat誌. Democratic Values and US Bases in Okinawa

これがアメリカという国の懐の深さでもあると私は思う。

沖縄から基地を追い出すなんて、絶対ムリ、と日本側で勝手に忖度して、国内、県内で市民の声を抑圧し、犠牲を強い続けてきたのが、戦後の沖縄史である。しかし、基地跡地の開発計画・経済政策とともに、主体的な沖縄復興への意志を束ね、アメリカに対して主張することこそ、沖縄の市民にとっての民主主義の回復につながるのではないか。

そこには、本土の人間の主体意識が不可欠である。

米国の安全保障の傘に長年依存してきた本土国民にとって、沖縄の基地問題は、自らの問題であることは疑いのない真実である。沖縄の声を、我がこととして受け止め、拡声することが、今まで犠牲を押し付けてきた本土の私たちに課された最低限の倫理であると思う。

日本の民主主義が成熟した時、アメリカは、それに耳を傾けざるを得なくなる状況が生まれうる。目指すは、そこだと思うのだ。沖縄の声と本土の主体意識をシンクロさせ、さまざまな温度差を埋めてゆくことが、今まさに求められている。

著者プロフィール

舩橋淳
ふなはし・あつし

映画作家

1974年大阪生まれ.映画作家.東京大学教養学部卒業後,ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアルアーツで映画製作を学ぶ.処女作の16ミリ作品『echoes』(2001)がアノネー国際映画祭で審査員特別賞・観客賞を受賞.第二作『Big River』(2006)はベルリン国際映画祭.釜山国際映画祭等でプレミア上映された.東日本大震災直後より,福島県双葉町とその住民の避難生活に密着取材したドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』(2012)は世界40ヶ国で上映され,2012年キネマ旬報文化映画ベストテン第7位.同スピンオフ作品「放射能 Radioactive」は、仏Signes de Nuit国際映画祭でエドワード・スノーデン賞を受賞。近作は、震災の被害を受けた茨城県日立市で撮影した劇映画『桜並木の満開の下に』(2013)、小津安二郎監督のドキュメンタリー「小津安二郎・没後50年 隠された視線」(2013年NHKで放映)など。現在、新作「フタバから遠く離れて 第二部」が劇場公開中。

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