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【沖縄県知事選】ネオリベラリズムに対向する沖縄的「保守」

  • 武田徹 (ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授)
  • 2014年11月17日

沖縄県知事選の動向を眺めつつ、沖縄が戦後日本史の象徴であることを改めて感じる。沖縄こそ戦後日本の象徴——、それは何度も繰り返される紋切り型だが、筆者が『暴力的風景論』を書く時、調べたことを幾つか並べて、その表現に多少の実質を与えてみたい。

たとえば戦後日本の国体である象徴天皇制と沖縄の戦後史を繋ぐ地下水脈がある。象徴天皇制は実は終戦前から周到に用意されていた。加藤哲郎『象徴天皇制の起源』(平凡社新書)によればアメリカの心理戦共同委員会は天皇を象徴的に「平和シンボルとして利用する」方針を日米開戦間もない時点で既に描いていたという。それは三段論法的な構図を持つ戦略だった。「象徴天皇制を存続させる」ことで「日本文化の基調に言葉に出来ない非アジア的な特殊性があるという考えを定着させる」。こうして「他のアジア地域と一体化しきれない距離感を感じるようになった日本はアジアよりも米国への依存度を高めるだろう」と考える。

こうして象徴天皇制は戦後の日米安保体制、日米同盟の成立を予期する形で企画され、その枠組の中で沖縄はアメリカに差し出された。とはいえ終戦と同時に沖縄が米軍基地の島になったわけでは実はない。沖縄上陸戦を戦った海兵隊部隊の殆どは戦後アメリカ本土へと帰還した。海兵隊が再び日本に集結したのは朝鮮戦争に際してだったが、その時の配備先は沖縄ではなく、むしろ日本本土だった。ところが海兵隊舞台を受け入れた地元で反対運動に見舞われたアメリカは、中立に憧れる傾向の強い日本人が米軍の駐留への反発から共産主義に対するシンパシーを持ちかねないことを危惧し、米軍の姿を「日本の一般市民から“隔離”する」必要を認めた。そして選ばれたのが沖縄であり、海兵隊部隊は1957年には本土から沖縄へ移動していた。

こうして沖縄は日米安保体制を安定的に維持する目的の下、戦争の影を「本土」側の人間の意識から消し去る役目まで担わされた。端的な例としては核兵器は沖縄に、原発は本土にと分離配置され、両者の間の連続性は意識上絶たれた。こうした「切断操作」は米国や本土側にこそ安全保障や、表面上平穏な日常生活を得られるメリットがあるが、沖縄の側には得るものがない。

◆オキナワファーストと郷土愛

こうした事情が沖縄における「保守」のあり方を独自のものにしてきた。保守合同に際して米国から秘密資金の提供があったとはよく言われるが、その説の真偽はともかく、自民党に代表される本土の「保守」は、陰に陽にアメリカの影響を強く受けて来た。吉田茂以後の保守本流はアメリカの核の傘の下に収まりつつ国内の経済復興を優先させる道を選んだ。そうした日本の選択をアメリカが許してきたのは米ソの相互確証破壊の論理に世界が支配されており、日本の軍事的貢献など望みようがなかった冷戦期の特殊事情もあるし、当時の米国の保守勢力には「アメリカファースト」とする内向きな傾向が強く、他国の状況に米国が干渉する際のブレーキ役になっていたこととも無関係ではないだろう。

しかし米国は80年代前後から孤立主義を捨てて国際的権益の確保に躍起となり始め、保守とリベラルのあり方が変わる。ネオリベラリズムネオコンサバティズムが台頭し始め、人道的介入を建前とした国際的軍事展開や、ソフトパワーを駆使したグローバル企業の海外展開を支えることになる。こうした米国の動きに呼応し、日本本土の保守もまたネオリベ、ネオコンサバ化し、日米安保の再解釈に向けて進み始める。

ところが沖縄の「保守」は日米安保体制への反発から、こうした本土の動きと足並みを揃えず、「オキナワファースト」とする伝統的な保守志向が残り得た。こうした保守的心性は基地に汚されることのない郷土を求め、結果として日米安保体制に批判的な革新勢力と志向を一致し得た。今回の選挙で、沖縄の自民党新風会がいち早く出馬を要請し、本人も長らく自由民主党に所属していた翁長雄志氏が、結果的に共産党を含む革新勢力の支持を受けいれられる構図がそこに生じる。

一方、普天間問題の現実的解決を謳って急遽、辺野古移設を承認したことから劣勢に回った仲井真弘多候補の応援に本土の政府・自民党は閣僚や党幹部らを次々に投入。8日に那覇市内に入った菅官房長官は、報道によれば新たな振興策として、テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」系列の娯楽施設の誘致を支援する考えすら表明したそうだ。これが嫌らしいほど的確な懐柔策であることは認めなければなるまい。

◆米軍基地から米国流消費文化へ

ひとつ前例がある。1981年にハンビー飛行場とメイモスカラー射撃場が返還された時、その跡地に海沿いの埋立地を加えて作られたのが一大ショッピング、エンタテインメントエリア「アメリカン・ビレッジ」だった。先に紹介した『暴力的風景論』の取材でアメリカン・ビレッジを訪ね、巨大な観覧車の威容に圧倒されながら沖縄の来し方を思わざるをなかった。高度消費社会化する状況の中で大規模リゾート施設、娯楽施設を作ろうと思えばアメリカで培われたリゾート開発、テーマパーク設計の手法を採用するしかない。それは日本本土を含め、消費社会化する世界の定石となりつつあるが、沖縄でそれを適用すると米軍基地の跡地にアメリカン・ビレッジが作られることになる。基地跡地開発を協議した地元関係者は「在日米軍施設が集中するこの地域の特性を生かしてアメリカ合衆国の雰囲気を前面に押し出す施設を作る」と決めたという。

基地を受け入れることで様々に傷つけられて来た沖縄が、しかし、地域振興のためには、その特殊な地域戦後史の中で醸成されたアメリカ的雰囲気を肯定し、米国流消費文明を受け入れるざるをえない——。USJ誘致はその轍を再び踏むことになろう。その完成の暁には観光収入の増加が期待されるだろうから、今の沖縄には地域経済振興が何より必要と考える人々は本土・自民の懐柔策を受け入れるかもしれない。しかし、その時、沖縄にUSJが誘致されるまでに至る道筋として、苦い戦後の記憶を呼び覚まされない人は沖縄にはいないだろう。今回の選挙での劣勢挽回の切り札となるかは不明だが、もしもそれが実現すれば沖縄の人々を深く傷つけてきた戦後日本史にまた新しいページがひとつ加えられることは間違いがないように思う。

著者プロフィール

武田徹
たけだ・とおる

ジャーナリスト・評論家/恵泉女学園大学教授

ジャーナリスト、評論家、恵泉女学園大学現代社会学科教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』など。

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