ポリタス

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【沖縄県知事選】異邦人の語る沖縄県知事選

  • 慎泰俊 (起業家)
  • 2014年11月15日

「ポリタスで沖縄知事選について書いてみないか」と言われ、脊髄反射的に「書きます!」と答えたあと、随分と考えこんだ。私はそもそも日本の選挙権を持っていないし、かつ沖縄に長くいたこともないからだ。二重の意味で沖縄知事選は私にとって遠い話であり、さて何を書くべきなのだろう。

まずこのあたりの葛藤を書いたうえで、この選挙についての個人的な気付きを書くことにしたい。

◆非当事者が書くときのやり方

さて、日本でマイノリティとして生まれ育ち、どこに行ってもマイノリティであり続ける私には、自分が非当事者であるときに気を配ることがある。全て、自分がされたら嫌だという単純な理由からだ。

第一に、非当事者や抑圧側の無関心を責めるスタンスをとらないということだ。確かに、沖縄の話題について、大抵の本土の人々は関心がない(ところで、私はこの「本土」という言葉は異様なものだと思う。沖縄以外の日本国土が「本土」として、いったい沖縄は「誰の土」だと言いたいのだろう)。本格的な独立運動が起きたら話は別かもしれないが、今のところほとんどの人は沖縄に関わる気がない。このポリタスで田原総一朗氏が書いているように、沖縄の話題をテレビで取り上げると視聴率が下がることからもそれは見て取れる。

しかし、無関心というのはそういうものだ。対岸の火事は対岸の火事以上のものにならないし、世の中のほとんどの人は人生で誰かのイジメに加担したことがあるだろうけれども、自分がやったことについてはケロッと忘れているものだ。冷笑的な見方かもしれないが、人間はそういうものなのだと私は思う。

なので、無関心を責めたところで、何も始まらない。無関心には相応の理由があるわけなので、その環境設定を変えるための努力や提案をしたほうがはるかに生産的である。

第二に、物事を自分の専門性に引き寄せて書かないことだ。

例えば、今回の沖縄知事選であれば、データだけをザーッと見て、経済なりビジネスについてわかったようなことを書くことはしない。というのも、自分の専門性に引き寄せてものを考えるということは、とりもなおさず、物事をあるがままに、虚心坦懐に見ないということとほぼ同義の場合が多いからだ。

どこにだって固有の状況がある。もちろん、例えば沖縄を福島と似せて考えることで多少の示唆は得られるのかもしれないが、それは多くの場合、かなり暴力的な手段を使うことで、結果大切な論点を取りこぼすことにつながりうる。なお、沖縄を福島とダブらせて語ることの愚は、多くの沖縄県出身の政治家が語っているところである。

第三に、当事者を代弁しようとしないことだ。自分は他人にはなれない。その人の気持ちを思いやろうという努力は尊いものだと私は思うが、誰かを思いやる努力をすることと、誰かを代弁することは全く別物だと私は思う。

これは個人的な思いでしかないが、私がした苦労を実際にしてもいないくせに、私を見ていただけのAさんが「皆さん、慎泰俊はこんなに多くの苦労をしているんです」なんて言った日には、正直なところ鼻白む。だって、全ては分かりっこないのだから。

そういったことを考えると、非当事者が当事者について何かを書くときに行う誠実なやり方は、(1)現場を訪れて当事者と仲良くなりその土地を好きになること、(2)そうすることで得られた地に足のついた愛着から物事を見始めること、(3)虚心坦懐に物事をありのままに見て、事実に基づき自分の考えを述べること、のほかにないように思う。

私は自分にとって馴染みのない人々の集まりについて書くときには、いつもこれらのことを守ってきた。自分が正しいというつもりは全くなく、ある場面ではマイノリティになる自分が「されたら嫌なことをしない」というスタンスをとったらこうなっただけだ。

当事者になれないものについては語るべきでないという意見には与しない。それは思考の硬直化を招きやすく、結果として当事者にとっても悪影響をもたらしうるからだ。

◆今回の知事選に関して感じること

というわけで、実際に沖縄に行ってたくさんの場所を見て、多くの人の話を聞いてきた。その上で、2つのことについて特に感じることがあったので、それを書いておきたい。

1.基地とお金と自決権

八戸から下関まで本州横断マラソンをした人間として真っ先に驚いたのは、「沖縄の国道はどこまで行っても歩道があること」だった。これがどれだけ衝撃的なことであるかは、歩道がまったくないトンネルを身の縮む思いをしながら何十とくぐり抜けた自分だからこそ痛感するのだろう。なお、本州で経済規模に比べて明らかに道が綺麗なのは山口県で、これは山口県(長州藩)出身の大物政治家が多いからだ。新潟県も道は綺麗だったが、これは田中角栄の力なのかもしれない。

実際に、沖縄にはかなりの補助金が提供されてきた。これは、本土によって押し付けられた基地負担の対価でもある。原発と大きく異なるのは、原発はそれを実際に招致したのはその地域であること(もちろん招致せざるを得ない理由があったのかもしれないが)に対し、基地の場合は、それを誰も招致していないことだ。止むに止まれぬ理由で何かを受け入れた対価と、何かを押し付けられた結果の対価は、性質を大きく異にしている。

また、普天間基地の敷地の多くは民有地であり、普天間に基地があるために経済的な利益を得ている人は多いので、追加の補助金が得られるとしても、基地移設で損をする人は相当数存在する。また、辺野古の住民の多くは、キャンプ・シュワブと友好的な関係を結んできたこともあるため、基地受け入れに大きな反対を示しているわけでもない。

それでも多くの沖縄県民が基地移転に反対するのは、今回の基地移転のプロセスが、沖縄県民の自決権を完全に踏みにじっているものだったと考えられているからだ。鳩山元首相が県外移設を提唱したのが撤回され、基地移転を反対していた知事の意見が突然移転賛成に切り替わり、沖縄の議員5人が見せしめであるかのように座らされている場で基地移転の方向性が語られ、という一連のプロセスにおいて、沖縄県民の声はつねにまったく反映されていないというのが鮮明に映った。そう考える人は多い。

ここまでの話を実際に聞いたことで、私はようやくなぜ多くの沖縄県民が経済的合理性の低そうに見える普天間基地移設に反対なのかを理解できたのかもしれない。もしこれがお金の問題ではなく、それより高次の自決権の問題であるということであれば、個人的には全て腑に落ちる。

2.独立運動が盛り上がらないと物事は変わらないのではないか

基地移設反対などを求め、沖縄の41市町村の首長が署名した「建白書」づくりをまとめた翁長氏は、「オール沖縄」の代表として保守・革新の関係なしに人々の支持を集めており、当選確率が非常に高いと考えられている。

今回の県知事選において「翁長氏が圧勝すれば国も基地移設を再考せざるを得ないであろう」という言説を、多くのところで耳にした。

しかしながら、それは本当なのだろうか。もちろん現地の民意はある程度までは反映されるかもしれないが、基地移設は国家安全保障の問題であるために、最終的にはアイデアリズム——理想主義ではなく、リアリズム——現実主義で物事が決まるのだろう(安全保障ほどリアリズムによって物事が決まるものはない)。県の民意を無視する形であっても、国策として普天間基地移設に相当に高い合理性があるのであれば、物事は押し切られるのではないだろうか。また、いくら現地の人々が納得できないとしても、日本国全体の民主主義という観点からいえば、「基地移設は民意に背く」という理屈を押し通すことは難しい。もちろん、翁長氏の圧勝がもたらすインパクトは小さくないとは思うが。

この件に関する個人的な見解としては、沖縄に住んでいない人々が本件を対岸の火事としてみている限り、この問題は変わらないということだ。この膠着した現状を変えるためにはかなりドラスティックなことをしないと難しいのではないだろうか。

実際に独立して経済が立ち行くのか、安全保障はどうするのか、という現実的な問題はさておきながら、沖縄の独立運動を拡大するなどして、「本土」の人々の関心を高めない限り、国民全体の民主主義の論理に基づいて物事は決められていくように思えてならない。

著者プロフィール

慎泰俊
しん・てじゅん

起業家

モルガン・スタンレー・キャピタル、ユニゾン・キャピタルを経て、現在は途上国のマイクロファイナンス機関への投資・経営支援・金融サービス開発に従事。仕事の傍ら、NPO法人Living in Peaceを通じて国内外の貧困削減のための活動を行ってきた。著書は「働きながら、社会を変える」、「ソーシャルファイナンス革命」など。

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