来年は、いよいよ戦後70年である。
これは筆者のように、ヴェトナム戦争終結の年=1975年生まれが、40代に入る年でもある。戦争そのものへのリアリズムが希薄化していくことは、当然のことと言えば当然であろう。これは言いかえれば、戦争の忘却=アメリカと日本の良好な関係は「自明」だ、と思いこむことである。日米のあいだの亀裂自体を、忘れてしまうということだ。
ところが震災以降、わたしの興味は坂口安吾や吉本隆明、そして三島由紀夫などを読み直すことにむかった。なぜなら震災と戦争には、非常事態=「例外状態」という共通点があったからだ。例外状態とは、ドイツの法哲学者カール・シュミット、そうあのヒトラーの理論的参謀がもちいたことばである。
震災や戦争は、日常生活が崩壊し、生々しい現実が露出する。
普通では考えられない例外的な出来事が、逆に常態となる。
そういう場所に居合わせ、その現実を凝視した人間の物の見方に、わたしはひどく惹きつけられたのである。それはわたし自身が、震災の「あの瞬間」を忘れないための倫理、現実を的確に把握するための武器が得られる、そう思ったからかもしれない。
沖縄を考える際にも、この緊張感を忘れたくない。
ここでは一例しかあげられない。三島由紀夫は戦後日本を厳しく批判し、憲法改正と天皇の復権をめざして自決した。その極右的な態度をここで取りあげるつもりはない。ただ三島が、ヴェトナム戦争に関連して言った次のような発言が、現在の沖縄をめぐる言論人・知識人の発言を評価する際に役立つ、そう思ったのだ。
1968年1月、原子力空母エンタープライズが佐世保に入港することを反対運動派が阻止した事件について、三島はこう言った。「ヴェトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識のうちに醸成し、反政府的感情とこれが結合」した、と(ちくま文庫版『文化防衛論』所収、「文化防衛論」57頁)。
ヴェトナム=弱者への同情心が、独立の支持つまり民族主義を生みだす。国内ではそれが、反米意識となりアメリカべったりの政府批判へとむすびつく。つまり弱者は可哀そうという感傷的な気分がヴェトナム民族主義となり、反米意識へとつながり、最終的には日本政府への批判に辿りつく。
こうした意識の流れを三島は描いてみせた。
そして今、沖縄をめぐる言論は三つの大きなうねりとなって、三島の指摘をそのままになぞっている。
アメリカの集団的自衛権行使容認、基地負担に応じるのはけしからん。なぜなら日本が、国家としての自立心を失っているからだ(民族主義の萌芽)。だからアメリカに翻弄されず、平和を愛するわが民族の意志を示すために、憲法9条を=平和主義を是非とも守らねばならぬ(<1>:対米追従批判とインターナショナリズム)。
あるいは、アメリカに翻弄されず、わが民族の意志をしめすためにも、憲法を是非とも改正し、自主憲法・自主防衛を推し進めるべきだ(<2>:対米追従批判と改憲ナショナリズム)。
いやそれは現実的ではない、アメリカとともに集団的自衛権行使を容認し、安全保障上、基地負担はやむを得ず、わたしたちは積極的平和主義にうってでるべきだ(<3>:日米同盟型保守主義)。
三島由紀夫がヴェトナム戦争について発した言葉を、2014年冬の日本に浸してみる。すると、言論人の沖縄をめぐる発言のほとんどが、あるいはオスプレイに始まる反米/親米態度のほとんどが、この三類型に腑分けされるではないか。
この三つに共通するのは、民族主義すなわち自国への自負の復活である。言論を職とするものは、少なくとも自らの発言が、この1968年の範疇を一歩も脱けだしていないことに、気づくべきだ。
「若手」であるだけで、「新しい」視点を生みだしているとは、限らない。私たちは、こうした過去の経験のうえに何を積みあげられるか。
沖縄県知事選を前に、言葉を紡ぐものの責務が、問われている。