私は、2014年、5回沖縄に行った。最初は、1月の名護市長選挙公示直前のタイミングをとらえ、名護市でシンポジウムを行った。6月には琉球新報主催の地元経済人を対象としたフォーラム、連合主催の平和集会にも講師として招かれた。8月には、私が所属するNPO新外交イニシアティブが那覇市内で講演会を行った。
私が一貫して訴えてきたのは
(1)米海兵隊が沖縄にいることが抑止力であるという政府の主張が間違っていること
(2)沖縄への基地の集中は、米軍駐留という日米安保体制の負の側面を本土から見えなくする「矛盾の不可視化」であり、普天間の辺野古への移転も、さらなる「辺境」への封じ込めであること
(3)それを、経済対策と引き換えに認めさせようとする日本政府のやり方は、基地の存在自体が県民の選択ではない以上、公正なものではありえないこと
(4)昨年の仲井真知事による辺野古埋め立て申請認可の過程で、自民党が県選出議員の公約を変えさせたことは、公約を基準として代表を選出する代議制民主主義の否定であること
(5)それらを踏まえれば、辺野古移転には軍事的必然性も政治的正義もない
ということだった。
◆沖縄海兵隊は「抑止力」ではない
海兵隊の沖縄駐留が抑止力であるという主張は、4つの点で間違っている。
第1に、抑止力とは、相手が攻撃してきたときに耐えがたい損害を与える意志と能力によって成り立つ。尖閣をはじめとする離島防衛は、10月8日に公表された「ガイドライン中間報告」にあるように、「日本の主体的な役割」である。アメリカは、「適切な場合の打撃作戦を含め、協力を行う」としているが、中国本土に「打撃力」を加えるような本格的な戦争を望んではいない。すなわち、アメリカは、離島をめぐる「中国と日本の小競り合い」程度の事態で「抑止力」を現実化する意志は持っていない。戦う意志がなければ、抑止力とは言えない。
第2に、仮に本格的な戦争を意図したとしても、海兵隊を含む陸上兵力を投入すれば、戦局は拡大しコントロール不可能になる。中国を想定した作戦構想であるいわゆる「エア・シー・バトル」は、遠距離からの海・空軍力による敵の指揮情報能力の迅速な破壊を主眼としたものであって、そこに海兵隊の「出番」は想定されない。言い換えれば、海兵隊には、想定される中国との戦争で発揮すべき能力がない。
総じて言えば、中国を想定した低強度の紛争では海兵隊を使う意志がなく、高強度の紛争では海兵隊が担うべき能力がない。いざというときに使う意志と能力がないものを、われわれは「抑止力」とは言わない。ちなみに、3.11に見られるような災害で役立つという効用はあるとしても、自然災害は「耐えがたい損害を与える意志と能力」によって防ぐことはできない。したがって、これも「抑止力」の対象ではない。
第3に、中国の台頭に合わせて米軍が進めている「兵力再編」は、中国の中距離ミサイルの射程内に兵力を集中することが軍事的に不利であることを意識している。嘉手納の空軍の一部を三沢に移転し、海兵隊についても「ローテーション」と称してオーストラリアのダーウィンを含む西太平洋地域に巡回配備していることも、その一環である。空軍や海兵隊の地上部隊など、陸上を拠点とする部隊を中国ミサイルの射程圏内に固定することは、既に軍事的に不合理な選択となっている。
加えて、普天間のヘリが従来の4倍の航続距離を持つオスプレイに機種更新されたことを考えれば、従来よりも4倍遠いところにいても同じ任務を果たせるということになる。すなわち、仮に海兵隊が抑止力の一部を構成するにしても、沖縄でなければならない軍事的理由はない、ということだ。
防衛省は、8月、辺野古完成までの暫定的措置として佐賀空港へのオスプレイ配備を打診した。埋め立て認可と引き換えに約束した「5年以内の普天間の運用停止」を実現するための政治的ポーズだが、辺野古新基地の完成に約10年かかるとすれば、差引5年間は、沖縄に海兵隊の航空基地がなくてもよいことを、防衛省自身が認めている。中国の台頭に対する危機感を根拠に、憲法改正の時間的余裕がないとして閣議決定で集団的自衛権行使を容認した政府が、抑止力に5年間の空白を甘受することができる理由も明らかにされていない。言い換えれば、「海兵隊の沖縄配備=抑止力」という政府の説明か、「閣議決定で集団的自衛権を認めなければ日本が危ない」という理屈付けの、いずれかが誤りであることを示している。
◆抑止力という「バカの壁」
良心的な移設論者の意見の中には、「沖縄から海兵隊が引けば、中国に誤ったメッセージを送ることになる」という意見がある。つまり、海兵隊がいることによって、沖縄を攻撃すればアメリカの介入を招くことになるというメッセージが失われる、ということだ。だが、海兵隊は「人質」ではない。
すでに、沖縄海兵隊の中核である第31海兵機動部隊は、強襲揚陸艦に乗って年間の半分以上、沖縄を留守にしている。何よりも、アメリカの抑止力の本質は、ハワイや米本土からの圧倒的な来援兵力による打撃力であって、今そこにいる個々の部隊の力量が優れていることではない。
その抑止力の本質を見誤ったところに、安倍首相が言うところの「集団的自衛権によってアメリカの船を守れば日本が平和になる」という議論の誤りもある。抑止力を高めるのであれば、個々の部隊の配置や個々の米艦の防護よりも、有事に来援する米軍(主として海・空軍力)の基盤である日本の基地と、来援の経路である西太平洋の海上優勢を維持することが日本の最大の役割となる。中国の立場から言えば、アメリカとの戦争を決意すれば、まずは日本にある基地や指揮通信拠点を叩かなければならない。米中戦争は日本有事なくしてなりたたず、ここに集団的自衛権を論じる以前に、個別的自衛権による防衛能力が必要となるゆえんがある。
「海兵隊が沖縄にいることが抑止力」という主張も、「アメリカの軍艦を守ることが抑止力」という主張も、ともに抑止力の何たるかを理解していない。抑止力とは、攻めてくればあらゆる損害を覚悟して守り抜き、そして耐えがたい損害を与える、という覚悟と力を持つことにほかならない。その覚悟の中には、当然、「沖縄の基地にミサイルが飛んでくる」ことも含まれる。そうした深刻な分析なしに、抑止力という言葉を弄び、思考停止する政府の言葉に、説得力はない。
◆沖縄の選択
普天間基地の移設問題が20年近く実現していない最大の理由は、県民世論の分裂ではない。政府の政策に必然性がないからだ。政府は、軍事的に説明できず、政治的にも世論から支持されない方針を一向に変えようとしていない。それは、県民無視の地域差別であり、沖縄と本土政治の距離感の源泉でもある。日米同盟維持の立場から言っても、地元から支持されない方針を変えないことの方が、長期的に見て、アメリカとの信頼関係を大きく傷つける。
政府が非合理な政策を押し付けようとするとき、しかも、代議制民主主義の原点である公約を変えてまで強行しようとするならば、当事者である県民は、自らの意志によって反対する正当性がある。原発問題も含め、本土の政治が社会的弱者である辺境地域の意向をくみ取る機能を持たない今日、沖縄の選択は、沖縄県民のみならず、日本における正常な民主主義を回復する歴史的使命を果たすべき役割を担っている。
◆翁長氏の選択
冒頭に述べたように、私は5回沖縄に行った。5回目は、知事選公示直前に、翁長雄志那覇市長(当時)と面談することが目的だった。翁長氏は、県外移設の実現の困難さを十分理解しつつ、沖縄の政治家として、辺野古移設を止める一点で県民の意志を集約することを掲げ、知事として、米政府を含め、あらゆる方面への説得によって県外移設を実現するとの使命感を持っていた。翁長氏を推す地元経済界も、返還跡地の再開発による自立的経済発展に自信を深めている。
翁長氏は、基地問題は「保守か革新か」ではなく、「オール沖縄」の課題であると訴えている。困難な道のりであることも承知している。しかし、それは、沖縄のため、ひいては日本の民主主義のために乗り越えなければならない困難であることを知っている。地味な人柄ではあるが、それだけに一層、久々に政治家らしい政治家に会えた感慨を覚えた。
日本政治の目を覚ますために、翁長氏には、勝つかどうかよりも、圧倒的に勝って欲しいと願っている。