およそ半分の人が選挙に行かない
ネットを見ると、色々な政党のバナー広告が表示される。テレビをつければ、政治家がつばを飛ばして自分の主張を叫んでいる。彼らの巧言令色を、どれほど信じていいのだろう? 口先ではオイシイことを言っているけど、あいつら、私たちを騙そうとしているだけじゃないの?
どの政治家を信じればいいかわからない、投票したい政治家がいない——。
決して少なくない人が、そう感じている。投票率を見れば明らかだ。参議院選挙の投票率は1980年の74.5%をピークに下がり続け、前回の2013年には52.6%まで落ちた。衆議院選挙ではより減少幅が大きく、ピークの1958年には76.9%だったものが直前の2014年にはやはり52.6%に下落。誰が国会の席に座ろうと、私たちの暮らしはどうせ変わらない。そんな日本人の失望が如実に反映されている。
こう書くと、特定の政党を熱心に応援する人からはお叱りを受けるかもしれない。「私の応援している候補者は嘘つきではないし、彼に票を入れれば日本は必ず良くなるのだ」と。
なるほど、投票を欠かさないおよそ半分の日本人はそう信じているのだろう。けれど、投票に行かない残り半分の人々は、もはやそんなことを信じていない。政治家たちはみな、暮らしを良くすると約束した。にもかかわらず、政治のトップが変わるだけで生活は何ひとつ変わらなかった。そればかりか悪くなりさえした。残り半分の人々にしてみれば、もはや政治家たちは全員嘘つきなのだ。
この記事では、「普通の」若者の「生きづらさ」の背後に何があるのかを書いてほしいと依頼された。政治に対する失望感は、その理由の1つだろう。特定の政党を応援しても、特定の政治家を頼っても、どうせ暮らしは変わらない。生活を向上させるには自分自身の能力に頼るしかない。とはいえ、この世界は極めて不平等にできている。
政治を信頼できず、生まれもった能力も運も限界がある——そんな手詰まり感および絶望感——。そういった感覚を覚えたとき、人間は「生きづらさ」を感じる。若者に限らず、誰だってそうだ。
政治家を信じられない私たちは、誰に投票すればいいのだろう?
一体選挙にはなんの意味があるのだろう?
そもそも私たちの1票には、どのくらいの価値があるのだろう?
政治によって南北分断された町「ノガレス」
選挙について考えるうえで、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A.ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』という良書がある。とくに国境の町ノガレスについての内容が面白いので、ここでその一部を紹介したい。
ノガレスの町は、フェンスで南北に区切られている。
Photo by National Farm Worker Ministry (CC BY 2.0)
フェンスの北側はアメリカ合衆国アリゾナ州ノガレスで、町の平均的世帯の年収は約3万ドル。大半の人が高卒以上の学歴を持ち、世界的な基準からすれば平均寿命も長い。政府が提供する様々なサービス——電気、電話、上下水道、公衆衛生、整備された道路網、そして法と秩序——を、住人たちはごく当たり前のものとして享受している。
フェンスの南側はメキシコ合衆国ソノラ州ノガレスで、メキシコのなかでは比較的裕福な地域だが、それでも平均的世帯の収入は北側の3分の1。大人のほとんどが高校を卒業していない。乳児死亡率は高く、おそらく平均寿命は町の北側よりも短い。道路はガタガタで、法と秩序は乱れている。ここで事業を始めるのは危険な行為だ。自分の店を持つためには、あらゆる許可を得るために賄賂を贈る必要がある。たとえ開店にこぎつけても、今度は強盗の危険にさらされる。
この町が国境で分断されたのは1853年、歴史的にはつい最近のことだ。フェンスで隔てられるまで、この町の人々は同じ先祖を持ち、同じ物を食べ、同じ文化のもとに暮らしてきた。
南北ノガレスの最大の違いは、政治制度だ。
町の北側の住人はアメリカ合衆国の政治制度で守られている。一方、南側の住人は、長きにわたり制度的革命党(PRI)の独裁下に置かれ、政治家の腐敗は今もまだ解消されていない。
このような違いは、なぜ生まれたのだろう?
スペインの植民地政策
歴史は、植民地時代にまでさかのぼる。
1492年、スペイン王室の支援を受けたコロンブスが新大陸に到達した。以降、およそ1世紀の間にスペインは中南米の大半の地域を征服した。スペイン王は「金を持って帰れ。可能なら人道的にせよ。だが、必要とあれば手段を選ばず、とにかく金を持って帰れ」と命じた。
スペインの植民地統治モデルはシンプルだった。
現地人を奴隷化し、金銀を収奪する――。
その端的な例が、ボリビアのポトシ銀山だ。先住民をかき集め、過酷な環境で銀を掘らせた。ポトシで鋳造されるコイン1枚につき10人のインディオが犠牲になると言われるほどだった。
Photo by http://www.suaudeau.fr/bolivia/potosi.htm
こうして得た富で、スペイン人入植者の子孫は豊かな生活を送った。金銀の取れない地域では、強制労働にもとづくプランテーションが築かれた。 この経済構造はスペインの支配地域に限らず、メキシコを含む中南米の植民地に広く見られた。
イギリスの新大陸の植民地政策
イギリスの植民地はアメリカ合衆国の前身だ。こちらは、スペインの植民地とは少し様子が違った。
そもそも中世までのイングランドは、辺境の小さな島国にすぎなかった。1588年、アルマダの海戦でスペインを破ったことで海上における影響力が増し、大英帝国の夢を見られるようになった。そのころには植民地に適した場所——奴隷化できる先住民や金銀の鉱脈に恵まれている地域──は、すでに他国に奪われていた。
イングランドの北米植民地政策を進めたのは、ヴァージニア会社という勅許会社だ。会社は当初、スペインと同じ方法で金銀を集めようとした。ところが、彼らが上陸した地域では、先住民の人口が少なく、金銀もあまり採れなかった。メキシコは2100万人、アンデスは1200万人の現地人がいたのに対し、アメリカ独立当初の13州にはわずか25万人しか居住していなかったという。北米の植民地ではスペイン方式の統治モデルは失敗した。
先住民を奴隷化できないので、会社は入植者を強制労働させることにした。わずかな配給食糧で男たちを働かせ、脱走した者は死刑とした。ところが、この方法もうまくいかなかった。北米は土地があまりにも広く、人口はあまりにも少なかったからだ。逃げ延びて自給自足の生活を築くことが、魅力的な選択肢だったのだ。
結局、ヴァージニア会社のエリート層は、入植者たちに階級社会と強制労働を押し付けられなかった。1618年、会社は入植者たちに土地の所有を認めた。自分の土地であれば、勤勉に耕すだろうと考えたのだ。さらに翌年には一般議会の設立が認められ、成人男性の入植者は、植民地における法制度の決定権を得た。ヴァージニア以外の場所でも状況は同じだった。
1720年代までに、のちにアメリカ合衆国となる13の植民地すべてが、政府に似た機構を持っていた。いずれの場合も、知事がいて、資産を持つ男子の選挙権に基づく議会があった。……1774年に、アメリカ合衆国の独立への序曲となる第一回大陸会議を合同で組織したのは、これらの議会とその指導者たちだった。
──ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A. ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』
北米では土地が有り余っており、誰でも低コストで簡単に地主になることができた。このことが旧大陸からの移住者を惹きつけたのは間違いない。そして18世紀後半に入ると、イギリス本国と植民地との間で対立が深まっていった。本国の議会が好き勝手に税制を決め、植民地に押しつけたからだ。本国の議会に植民地の代表はいなかった。「代表なくして課税なし」をスローガンに、植民地の人々は独立運動へと突き進んだ。
アメリカ合衆国独立とその影響
1775年、にアメリカ独立戦争が勃発。翌年、戦争のさなかに大陸会議は『独立宣言』を採択した。そこにはこう記されていた。
Photo by David Amsler (CC BY 2.0)
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。
──『独立宣言』
これは現代的な「自由」のあり方を、世界に先駆けて謳ったものだ。
1783年、イギリスが敗退し、アメリカ合衆国は独立を勝ち取った。次いで1787年にアメリカ合衆国憲法が制定されたが、その内容は『独立宣言』を踏襲していた。「政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る」という考え方に基づき、政治権力の濫用を制限し、その権力を広く人々に分配したのである。
自由を求める運動がヨーロッパに広がる
新大陸で「自由」に基づく国家が生まれた。その影響は、すぐさま旧大陸に飛び火した。
17世紀末、アメリカ独立に触発されて、フランス革命に火がついた。ナポレオン率いるフランス国民軍は、圧倒的な強さでヨーロッパを蹂躙。それまで王族同士の個人的な諍いに過ぎなかった戦争を、「国民国家」同士の衝突に変えてしまった。
Photo by Luke McKernan (CC BY 2.0)
18世紀前半、フランス軍がスペインの首都マドリードを制圧。数年後、スペイン議会が憲法を交付したことで、絶対君主制が崩壊した。スペインは国民主権に基づく立憲君主制の導入と、法の下の平等へと歩み始めた。
そしてメキシコが反旗を翻す
このようなヨーロッパ本土の動乱は、中南米植民地のエリート層にとっては面白いものではなかった。ヨーロッパ本土で何が起ころうと、新大陸の特権階級の知ったことではなかった。
だから、メキシコのエリート層はスペインに反旗を翻した。強制労働によって一部の権力者のもとに富を集めるという経済システムを守ろうとしたのだ。しかしメキシコにとって、独立は波乱の幕開けだった。およそ半世紀にわたり、メキシコは政情不安を経験した。
1824年から1867年にかけて、この国には52人の大統領が存在した。そのなかに、憲法で定められた手続きに従って権力の座に就いた者はほとんどいなかった。
──ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A. ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』
1876年、ポルフィリオ・ディアスが政府軍を破り、翌年から34年間にわたり独裁政治を行った。1910年、革命軍はディアスを権力の座から引きずり下ろしたが、独裁者の首がすげ替わっただけで民主主義を樹立することができなかった。1940年ごろには制度的革命党(PRI)の一党独裁体制が完成。この体制が崩壊する2000年までメキシコに民主主義はもたらされなかった。
しかし、2012年に再び同党が与党に返り咲いた。民主主義を維持するのはかくも難しい。
Photo by Christian Hernendez (CC BY 2.0)
「自由な国」と「不自由な国」の政治制度の違い
アメリカ合衆国では、政治的権力は統治される者の合意に基づいて政府に与えられる。私有財産が守られ、法体系は公平で、きちんと公共サービスが提供される。自由な制度は自由な経済的繁栄をもたらす。
たとえば特許制度を考えてみたい。独裁国家では、特許は権力者に気に入られた者だけに与えられる。一方、政治的に自由な国家では、誰でも特許を取得できる。たとえばエジソンは学校教育をほとんど受けていない。モールス信号を発明したモールスはもともと絵描きで、信号技術の門外漢だった。イギリスの話になるが、蒸気機関車の父スティーヴンソンは炭鉱町の貧しい家庭に生まれた。政治的に自由な国では、出自を問わず、チャンスが多くの人々に開かれているのだ。
また発明家が事業を始めるには、開業資金を銀行に融資してもらう必要がある。
合衆国の発明家はこの点でも運が良かった。……1818年に国内で営業していた銀行は338、総資産は1億6000万ドルだったのに対し、1914年には2万7864の銀行が営業し、総資産は273億ドルに達していた。国内の潜在的な発明家は開業資金をすぐに入手できた。そのうえ、銀行や金融機関の競争が激しかったため、こうした資金をかなり低い金利で借りられたのだ。
──ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A. ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』
メキシコでは、そうはいかなかった。歴代の支配階層は、自らの利益のために独占企業を許してきたからだ。
メキシコ革命が始まった1910年、国内にはわずか42の銀行しかなく、そのうち2行が銀行の総資産の60パーセントを握っていた。競争が熾烈だった合衆国とは違い、メキシコの銀行のあいだに事実上競争はなかった。こうした競争の欠如のおかげで、銀行は顧客にきわめて高い金利を請求できたし、例によって融資先を特権階級と既存の富裕層に限定していた。
──ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A. ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』
自由の国アメリカでは、こんな商売は長続きしなかった。市民が政治家を選べたからだ。地位を利用して荒稼ぎするような政治家は、やがて駆逐された。銀行からの融資はもちろん、経済活動に参加するチャンスも公平に与えられた。
自由な政治制度があったからこそ、アメリカでは自由な経済制度が生まれた。それが継続的な成長をもたらし、人々を豊かにした。メキシコはそうではなかった。スペイン植民地時代から続く「エリート層が富を独占する仕組み」が、姿を変えつつ維持されてきた。この違いがノガレスの町の南北格差をもたらしたのだ。
あなたの一票の価値は金より重い
スペインが植民地支配に乗り出したとき、彼らは新大陸から金銀を集めることで、国を豊かにできると信じていた。新大陸から大量の金銀が流入したことで、ヨーロッパでは「価格革命」と呼ばれる物価上昇(インフレ)が発生したほどだ。
Photo by James St, John (CC BY 2.0)
しかし、スペインの判断は完全に間違っていた。属国オランダの独立を許し、植民地政策ではやがてイギリスの後塵を拝するようになった。ポトシ銀山の鉱脈よりも、アムステルダムやロンドンの証券取引所のほうが、はるかに厖大な富を生み出すことができた。オランダやイギリスはいち早く民主主義が芽生えた地域であり、一方、スペインは19世紀まで絶対王政が残った国だ。アメリカは前者の伝統を受け継ぎ、メキシコは後者の負の遺産を背負うことになった。
国を豊かにするのは、金や銀ではなく、自由で公平な政治制度だ。つまり、あなたが持つ1票には黄金よりも価値があるということになる。これは比喩的な表現ではない。歴史的な事実だ。
選挙における1票は、黄金以上の価値を生み出した。
黄金の1票は、なにに投票すればいいのか?
歴史をふり返りながら、政治制度と1票の価値について考えてきた。
選挙の意味は、政治家を監視して、自由で公平な制度を実現するためにある。あなたが選挙に行かなければ、この国の政治はあなたにとってますます不公平で不都合なものになっていくだろう。1票には黄金以上の価値がある。票を投じないことは、金の延べ棒をどぶに捨てる以上の損失だ。
とはいえ、だ。
冒頭の問題に立ち返ろう。現在では多くの有権者が政治家に失望している。応援したい政党はないし、支持したい候補者もいない。だから選挙に行く気になれない。
ここで提案したいのは、「パーラメント・デザイン」という発想だ。特定の政党や候補者を応援するのではなく、選挙の結果である議席数をデザインするという考え方だ。あなたの望みを叶えてくれる候補者を探すのではなく、選挙後の議会のパワーバランスを調整するという発想である。
そもそも人間は1人ひとり違うのだから、あなたの要望を100%満たしてくれる候補者などいなくて当然だ。aという政策ではA党があなたの希望に近くても、bという政策ではB党のほうが魅力的に見える。全体的にはそれほど支持できなくても、一部の政策ではC党がいいことを言っている——。そんなこともしばしばだろう。重要なのは「どこの政党が勝つか」ではない。選挙の結果、A党、B党、C党がどの程度のバランスで議席を獲得するかだ。そのバランスを調整するために票を投じればいい。
Photo by Richiad, enjoy my life! (CC BY 2.0)
最近では、マスメディアを見ていれば選挙の結果を予想できるようになった。テレビや新聞がポジティブな報道をしている政党が勝利を収め、そうでない政党が敗退する。マスメディアによる「応援の強さ」を見れば、どの程度の勝利を収めるのか——歴史的大勝なのか、僅差の辛勝なのか——も、なんとなくわかる。
テレビや新聞の報道を見ながら選挙結果を予想し、その結果を調整するために票を投じる。それが「パーラメント・デザイン」の考え方だ。応援したい候補がいなくてもかまわない。むしろ、自分の要望を満たしてくれる候補者などいなくて当然だという発想に基づいている。
民主主義はバランスが大切
人間の心理には、「バンドワゴン効果」というものが知られている。何かが流行っていると感じたときに、自分もその流行に乗りたがるという傾向だ。人間はときに冷静な判断力を失って、ただ、勝ち馬に乗ろうとしてしまう。
パーラメント・デザインの発想を持っていれば、バンドワゴン効果に惑わされるのを防ぐことができる。マスメディアがどこかの政党を応援しているとして、「どのくらいその政党を勝たせるべきか?」というメタな視点から判断を下せるからだ。その政党の主張に共感できて、「いいぞもっとやれ」と思うなら、あなたもその政党に票を入れればいい。その政党の主張に全面的には同意できないのであれば、ブレーキになりそうな別の政党に票を入れてバランスを保とうとすればいい。
結局のところ、本当の民主主義のもとでは、政治家は公約を守り切ることができない。もしも1人の政治家が自分の「やりたいこと」を1つ残らず実現できるとしたら、その国は独裁制である。従って民主主義の国家では、政治家1人ひとりが主張していることは、それほど重要ではない。議会の議席数のバランスのほうがはるかに大切だ。
政治家が約束を守りきれないことを、もどかしく感じることもあるだろう。
けれど、そのもどかしい民主主義という制度が、今の豊かな世界を作ってきたのだ。
※主要参考文献
・ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2016年)
・ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』日経ビジネス人文庫(2015年)
・ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2015年)
・小林幸雄『図説 イングランド海軍の歴史』原書房(2007年)
・ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』NTT出版(2012年)
・トマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房(2014年) ・板谷敏彦『金融の世界史』新潮選書(2013年)