何を争う? 参院選・都知事選
参院選が始まった。でも何か低調。「18歳から選挙権」とメディアははやし立てるけれど、若い世代はそれだけで踊れるのか?
恒例のネット党首討論では、古市「再婚」質問ばかりに話題が集まる。それでいいのか。
「憲法」「大震災」「原発」「社会福祉」「格差・貧困」「アベノミクス」……喫緊問題が目白押しだ。「低調」なんて言ってる場合じゃない。
舛添マツリと猪瀬マツリ
なのに、参院選より都知事選の方がまだ注目度が高い気がする。あの舛添スキャンダルのせいだろうか。Googleでトレンド検索してみれば(図1)、2012年の石原知事辞職時はもちろん、2014年の猪瀬知事退陣時と比べても突出した関心度だ。舛添マツリと呼んでみようか。
もっとも、舛添マツリは、2年前の猪瀬辞職のプロセスにそっくりだ。どちらも、新聞や雑誌などの紙媒体マスメディアのスクープから火がついた。最初は小さな出来事と思えたが、数あるテレビ情報番組がこれを大きく取り上げた。ネットでもコメント殺到。あれよあれよという間に報道は過熱、ネットが炎上。晒された知事は追い詰められ、脂汗を流し、遂に全面降伏して、知事の座を去った。マスメディアで、ソーシャルメディアで、リアルな場でも、みんなが快哉を叫ぶ。「正義が勝つ」のだと。しかし、そこで得られたものは、失われるもの(例えば選挙費用)と比べてどうなのか。もっと適正な解決法はなかったのか?
舛添マツリは、人びとに一時の達成感を提供した。そうして、偽のマツリが、本来の「祭り事」(まつりごと=政)と取り違えられる。セコいスキャンダルが重要な争点と取り違えられる。それがスキャンダル・ポリティクスだ。
「間メディア・スキャンダル」がすべてを覆う
スキャンダル・ポリティクスは、メディアを通じて爆発的に増殖・感染していく。「メディア」といっても、マスメディアだけではない。ソーシャルメディアやリアルな会話も含まれる。さまざまなメディアが相互的・複層的に作用しあう「間メディア空間」が、スキャンダル・ポリティクスの劇場だ(図2)。
そこでは、小難しいロジックより、人びとの日常的リアリティに即した「セコいネタ」の方が大きな反応を引き起こす。
偽王たちが放逐される
スキャンダル・ポリティクスは、ポリティカルな標的だけでなく、より多くの非ポリティカルな標的に照準を合わせる。
2016年前半だけでも、いくつもの間メディア・スキャンダルが、シャボン玉のように生まれては消えた。ベッキー問題、SMAP問題、清原問題、桂文枝問題……。政治関連では、舛添問題、宮崎議員問題、乙武問題、「保育園落ちた」問題……。
図3は、Google トレンドで測定した主な間メディア・スキャンダルの生成・消滅プロセスを示す。
ベッキー問題への関心度がすごい。でもベッキーって、それほど重要人物だった? SMAPはもちろん国民的グループだけれど、いまや嵐に及ばない。清原が「輝くヒーロー」だったのはずっと昔のことだ。
でも、舛添さんて、それほどの権力者だった?
そんな中で、舛添マツリは、政治スキャンダルとしては健闘(?)している。甘利問題や、スキャンダルというより重要な政治イシューである「保育園落ちた」は、豆粒ほどの関心度だ。東京五輪招致疑惑なんて数にもならない。でも、舛添さんて、それほどの権力者だった? 猪瀬マツリ後の都知事選で、いわば消去法で選ばれた知事じゃない? (もちろん、Googleトレンドが、人びとの意識を正確に反映しているとは言えないけれど)。
間メディア・スキャンダルは、本当の問題の代わりとして、「目立つポジションにいるけれど、実際にはそれほどパワーを持ってるわけじゃない人」(いわば「偽王」)を放逐して、あたかも「社会悪が解決された」かのような気になるための偽マツリなのだ。
〈マツリのあと〉は寂しい、〈あとのマツリ〉は哀しい
偽王を放逐する偽マツリは、一時的な高揚感と一体感をもたらす。
だが、偽王たちの〈マツリのあと〉、残るのは、虚脱感ばかりだ。何も変わらない。
真の祭り(まつりごと=政)とは、わたしたちの社会を、状況の変化に適応するように、穏やかに、メンテナンスし、再生することだ。
適切なメンテナンスがなされないままに社会が硬直化していけば、やがて社会は袋小路にぶつかる
適切なメンテナンスがなされないままに社会が硬直化していけば、やがて社会は袋小路にぶつかる。それでもむりやり前へ突き進めば、やがて社会は災禍となる。
今、本当に解決すべき問題は何か。参院選・都知事選のあとにどんな未来を望むのか。
間メディア空間は、建設的な議論の場にもなる。
〈あとのマツリ〉にならないうちに、とりあえず選挙に行ってみましょうか。