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認識は常識から——最低限、母国語が通じる日本であってほしい

  • 三浦俊彦 (東京大学教授)
  • 2015年10月16日

国家や民族の本質はやはり言語でしょうね。たとえば日本国に属して日本文化を誇りに思うためには、日本語が正しく機能していなければなりません。ところが、簡単な単語が組み合わさっただけで日本語が俄然怪しく見えてきて、「俺は日本を愛せるのか、愛するどころか恥ずべきではないのか」と自信が揺らいでくるのだから厄介です。

最近は「歴史認識」という言葉ですかね。「国や民族ごとに解釈の違いがあって当然」「正解は立場次第」みたいな一種ものわかりの良さが漂う言葉……。だいぶ前のことですみませんが、昭和天皇が「そういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と宣ったシーンが思い起こされます。

あの頃はともかくとして昨今「歴史認識」と呼ばれる争点(?)のいくつかは、「認識」などと言い立てるまでもない「常識」でしょう。辞書を見ればすむレベル。難しそうな装いに値しないナマの事実。

たとえばアジア・太平洋戦争、あれは日本の侵略だったかどうかと。さも高級な論争っぽく聞こえてきたりしますね。あれ、いかがですか。

素朴に基本を確認させてください。

「日本の軍隊は何をしに行ったのですか?」

何をしに。目的ですね。

「国境を越えて中国の奥地まで、日本軍は何を目的に?」

基本すぎてすみません。

日中戦争の目的は何だったかと。爆撃や地上戦で大勢の人生や家や土地を奪い、日本兵だけでも50万人が命を落とした大事業でしたから、その大目的は何度でも確認するに値します。

さぞ大切な目的があったのでしょう。それにしては日本政府による宣戦布告がありませんでしたね? 国際法上「戦争」が認められていた時代ですから、胸を張って宣戦布告すれば良さそうなものでしたが……?

国際世論に従ってただちに万里の長城の北へ撤兵したならば、日本側はどんな目的を諦めることになったんでしょう。「侵略ではない」「侵略の定義はない」と言ってる人たちに、あの軍事行動の目的を教えてほしいと実際私は何遍も頼んでみたんですけどね。答えてもらえたためしがありません。

いや、真珠湾攻撃ならば皆さんけっこうお答えになります。石油やら鉄やら。ただしそれって煎じ詰めれば「中国大陸で飛行機や戦車を動かし続けるため」ですから。結局「日中戦争の目的は?」に帰着するわけです。

どうなんでしょう。

今回もノーコメントですか? ポツダム宣言のときの「黙殺」がフラッシュバックします。

目的すなわち正当な理由を欠く軍事力を他国領土内に展開する、それを日本語で「侵略」と言うんですけどね……。

そうした常識を「歴史認識」と煙に巻いてきたせいで、あの国は信用できないということになったり、いろんなところで不本意な嫌疑が振り払えなかったりする。たとえばほら、アメリカ各地に朝鮮人慰安婦像と石碑が建っていますね。「20万人の婦女子が日本帝国軍に誘拐され、性奴隷にされた」という趣旨のことが書いてあります。日本の慰安婦制度は、ホロコーストと同種の組織的犯罪だと。世界中の多くの人がそれを信じています。なぜでしょう?

慰安婦像設置反対や撤去の運動をしている日本人団体はいくつもあるようですが、そういう人たちに限って「ありもしなかった南京大虐殺」といった言い方をしています(今たまたま見ているのは『女性が守る日本の誇り――「慰安婦問題」の真実を訴えるなでしこ活動録』という本ですが)。

まるで抱き合わせ販売ですね、これじゃ台無しだ……。慰安婦について事実誤認を正すために、南京や真珠湾を正当化する必要ってありますか? 保守派か進歩派か、どちらか一方のユニフォームを着ないと発言できない風潮っていかがなものでしょう。リアルタイムで世界中に報道されていた南京事件を今ごろ捏造だと言うのは、はた目に「性奴隷20万人誘拐」よりひどい歪曲に見えるかも、と思い巡らすくらいの想像力を持てませんか。

紛れもない「あの件」は百万遍でも懺悔しながら、紛れのある「この件」は毅然と誤解を解いていく。そういう個別の、実証的な姿勢でいかなければ「大人の人間関係」を構築することは無理でしょう。

加害者扱いはうんざりという人ほど被害者待遇が居心地よいようで、ならば日本人は被害体験を論じる気があるかというと、これも違うんですね。

私は最近6年間、「クリティカル・シンキング」という授業を女子大でやってきました。広島・長崎への原爆投下を論ずる授業です。流行りの論理思考で実践的問題に立ち向かう系統ですね。その教室で使うテキストとして『戦争論理学――あの原爆投下を考える62問』という本も書きました。ヨーロッパ戦線を含む第二次世界大戦全般の詳しい経緯にもとづいて、合理性、倫理、法律、感情、整合性、等々いろんな要因を突き合わせて原爆投下への賛否両論を査定するんです。

学生らは最初、「原爆投下が正当化できるなんて、ネタですよね?」って思ってます。そんなのは議論以前の問題だ、と。「原爆が多くの命を救った」というアメリカ風言説をトンデモ視するのが右も左もマスコミ的たしなみとされるこの国ですから、学生らの条件反射は当然と言えます。ところが歴史的事実を学ぶにつれ、「どうもそう簡単な話じゃなさそうだ」と学生らの反応が変わっていく。

そもそも彼女らは、原爆投下の時点で日本軍が地球上のどのあたりに展開していたかすら知らなかった。ポツダム宣言を読んだこともなかった。ソ連軍の満州侵攻はアメリカからの要請だったことも知らなかったし、オリンピック作戦決号作戦も知らなかった。重巡インディアナポリスなんてもちろん聞いたこともない。原爆投下を聞いて当時の日本の軍人や政治家が「天祐だ」と言ったなんてことも初耳。そういうのを一遍に知って、「何か新聞やテレビが毎年言ってるのと感じが違う」的なカルチャーショックを受けるわけです。被爆者のミクロな体験談を心で受け止めるのが〈ザ・平和学習〉だと思っていた彼女らは、炎の中を逃げ回っていかに大変だったかというような「初めからわかってる話」を何遍も聞くより、戦況や統計や外交史を頭で整理する方がはるかに視野が開ける、ってことに気づくわけです。「原爆投下は正しかった」という国際標準(?)に共鳴するすべを学ぶんですね。

それでどうなるかというと、期末レポートでほとんどの学生が「原爆投下がいかに正しかったか」を書いてくることになります。実は正しかった。日本政府も日本軍も戦争をやめる口実がなくて困っていた。超自然兵器原子爆弾は天皇が天声をもって介入する理由を与え、日本軍のメンツを救い、多くの命も救ったのだ――。

ちょっと待ってちょっと待って。素直なのはいいけど……新たな可能性に気づいたらまっしぐらに改宗ですか?

そうじゃなくて。「原爆投下がなければ一桁、へたすると二桁多くの人が死んでいたかも」――たしかにその可能性が高いことがわかりましたね。だからこそ、もう少し考えてみてもいいのではないかな。たとえば「より多くの人命を救うためならなんでも許されるのか?」とか「被害者ヅラしたがる傲慢な日本人が多いのは原爆投下の負の遺産なのでは?」とか。「ドイツみたいに最後まで戦い一遍国が滅びていれば政治家も骨身にしみて、靖国問題なんぞで隣国と揉める醜態もなかったろうに!」とか「沖縄の苦しみへの全国的無関心も本土決戦が省かれたせいですし!」とか。「日本降伏の真の決定打だったソ連参戦の印象を原爆が掻き消してさえいなければ朝鮮半島ならぬ日本列島が米ソに分断されていたはずで、その方がよほど真っ当な結末だったでしょ?」とか。

いろいろ議論してくださいよ。せっかく知識を得ても素直に回れ右じゃ、学ぶ前といっしょですから。大本営発表に抵抗できないですから。

原爆投下や慰安婦をめぐる問題は、まあ「歴史認識」と呼ぶに値するかもしれません。事実があやふやだったり、事実は明白でも評価基準があいまいだったりするのでね。そういう問題に関しては、いろんな見方を大いに戦わせてほしいわけです。「慰安婦の強制連行があったかどうかはどうでもいい、四の五の言わず早いとこ償っちまいましょう」と良心派ぶる日本人はかえって不誠実です。事実の認定は、証拠による。証拠主義は科学的常識かつ倫理的常識ですから。そのうえで、かりに狭義の強制がなかったとしても政府レベルで謝罪をすべきなのか、それとも性奴隷呼ばわりは職業差別だから安易な謝罪こそが慰安婦の名誉を汚す行為なのか、いろいろ議論すべきですし。それこそがまさに歴史認識と言えるでしょう。

ところが先にも述べた「侵略」なんてレベルで突っ張った日には……。

わかりきったことで無用の波風立てるものだから、お互い冷静に調べたり論じたりができなくなっちゃうんですね。

「侵略」で突っ張ることはどう見ても歴史認識以前の問題です。

力試しのようにして戦線を拡げていったあの独善的顛末が「侵略でない」と言うなら、真顔でそう公言する学者や政治家が万一はびこるなら、私たちは日本語を使うのをきっぱりやめた方がいい。単語の意味が溶け崩れた言語なんて、不便で使えたもんじゃないですから。

そう、せめて、母国語が最低限通じる日本であってほしいと願う次第です。

著者プロフィール

三浦俊彦
みうら・としひこ

東京大学教授

1959年生まれ。長野県出身。東京大学大学院総合文化研究科修了。東京大学教授(文学部・大学院人文社会系研究科・美学芸術学研究室)。和洋女子大学名誉教授。専門は美学、形而上学。観測者バイアスを考慮に入れて現代芸術を分析する「人間原理的芸術学」を模索中。主な著書に『M色のS景』『蜜林レース』『天才児のための論理思考入門』(河出書房新社)『虚構世界の存在論』(勁草書房)『可能世界の哲学』(NHK出版)『ラッセルのパラドクス』『シンクロナイズド・』(岩波書店)『環境音楽入悶』(白水社)『サプリメント戦争』(講談社)『論理パラドクス』『戦争論理学』『思考実験リアルゲーム』(二見書房)『のぞき学原論』(三五館)『多宇宙と輪廻転生』『エクリチュール元年』『下半身の論理学』(青土社)ほか。「総合文学ウェブ情報誌 文学金魚」に小説「偏態パズル」を連載中。

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