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  • Photo by Kim Ahlström(CC BY 2.0)

斉藤斎藤内閣総理大臣談話(いわゆる斉藤談話)

  • 斉藤斎藤 (歌人)
  • 2015年8月15日

個人的な話から、させてください。私の父は昭和11年生まれ、名を「弘毅」と言います。昭和11年、2.26事件ののち総理になった、広田弘毅にあやかったのだそうです。まあ平凡な男ですから、父と広田の、名前以外の共通点といえば、生家が小さな店だったことと、好んでダジャレを飛ばしてたことぐらいなのですが、そこはかとなく親近感を持っておりました。このたび津田編集長のご指名を受け、急きょ総理大臣に就任するにあたり、あらためて広田弘毅について調べてみました。

広田は、東京裁判で死刑となった、唯一の文官でした。ほかに死刑となった6名はすべて軍人で、戦争において果たした積極的な役割が問われました。広田が問われたのは主に消極的な役割、すなわち、総理や外務大臣としてするべきことをしなかった、不作為の罪です。南京大虐殺のひどい状況を知りながら、閣議に報告するなどして全力で阻止しなかった責任などを問われ、広田は死刑となりました。

広田は、満州の植民地支配を容認してはいましたが、当時としては平和主義者であり、国際協調主義者でした。国内外のさまざまな声に折り合いをつけ、なるべく現実的に穏便に、まあるく収めようとしていましたが、その努力が実を結ぶことはありませんでした。

歴史家の評価は分かれています。当時の状況で、彼にできることは少なかったという見解もあります。だとしても、軍部に流されすぎたという見解もあります。広田は弁解しませんでした。政治家としての結果責任を認め、法廷でも自己弁護することなく、従容と死を受け容れました。

私はもちろん、わが国が受諾している東京裁判を、再検証するつもりはありません。戦争犯罪者を美化するつもりもありませんし、広田がそれを望まないでしょう。

ただ、いわゆる「無責任の体系」のなかで、政治システムの歪みを、そして戦争責任をすすんで引き受けた指導者がひとり、この国に存在したということ。その後ろ姿に、わたしたちは襟を正さねばならないと思うのです。

敗戦から、きょうで70年が経ちました。

先の大戦は、ふたつの意味で間違った戦争でした。

第一に、道徳的に間違った、侵略戦争でした。この責任はわが国が、世界に対して負うべき責任です。

第二に、不合理でおろかな、自滅戦争でした。食糧や物資の乏しさを、精神論で乗り切ろうとしました。勝算のない戦争をいたずらに引き延ばし、特攻と称する作戦は、国民の命より指導者の面子を優先するものでした。この責任はまず日本の指導者が、国民に対して負うべき責任です。

私は日本の総理大臣として、戦争によって命を落とされた国民の皆様に、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

ほんとうに、申し訳ありませんでした。

国民の尊い命を大切にしなかった、この痛切な反省を、わが国の公務員は、つよく持ちつづけねばなりません。

当時の国民のほとんどは、正確な情報を与えられないまま戦争に引きずり込まれた、被害者と言えるでしょう。指導者は国民に、間違った夢を見せてしまいました。

しかし一般の国民に、責任がないわけではありません。誰もがうすうす、気づいてはいました。「だまされた」では説明のつかない事態が、そこかしこで起こりました。

マスコミは統制される以上に、戦意昂揚の記事を書きました。そのほうが、売れたからです。良心的な芸術家は沈黙し、抵抗しようとする芸術家を、芸術家たちが糾弾しました。町や村では隣組が組織され、監視や密告が自発的に行われました。村の若者は、お国のためという以上に、村人たちの視線に殉じて死んでいったのかもしれません。

わたしたちひとりひとりに、すこしずつ、責任があったのです。

いまの日本人のおよそ8割は、戦後生まれです。わたしたちは平和を愛し、平和をつよく願っています。ですから第一の罪、道徳的に間違った戦争を、日本がふたたび起こすことはあり得ません。

しかし第二の罪は、どうでしょう。わたしたちは、わたしたちの不合理性やおろかさの教訓を、どこまで活かせているでしょうか。わたしたちの社会風土や意思決定のシステムは、当時から変わったと言えるでしょうか。

わたしたちの次の戦争も、ついうかうかと始まるでしょう。わたしたちは次の戦争を、よかれと思って始めるでしょう。威勢のいい言葉、見積もりの甘さ。見て見ぬふりをしてはならぬと、出かけた海で衝突が起こり。事が起こればこの国はまた、あっという間に一色に染まり。いったん世論に火がつけばもう、総理にも遺憾ともしがたいのです。ここに来て、父ゆずりのダジャレが炸裂です。総理とsorryもかかっております。

そんなこんなでわたしたちは、わたしたちのおろかさの責任を、わたしたちの手で明確にする必要があります。それは決して、安全圏から他人事のように、死者の罪を蒸し返すことではありません。

もし私が当時の日本に生きていたら、何ができ、何ができなかったのか、わたしたち自身の問題として、具体的に考えること。そしてその教訓を今に活かしてゆく積み重ねが、つぎの戦争を防ぎつづけることにつながるでしょう。

世界の皆様に、申し上げます。

わたしたちは、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦におけるすべての犠牲者に、謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。

ほんとうに、申し訳ありませんでした。

著者プロフィール

斉藤斎藤
さいとう・さいとう

歌人

1972年生まれ。歌集『渡辺のわたし』(BookPark)。

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