ポリタス

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  • Photo by Yasuyuki HIRATA(CC BY 2.0)

イデオロギーを超え、戦没者に祈りを

  • 古谷経衡 (評論家/著述家)
  • 2015年9月3日

8月15日、私は毎年、東京九段の靖国神社を訪れます。そこでは、先の大戦で亡くなられた方々の御霊を顕彰するべく、多くの人々が静かな祈りを捧げています。ところが、このような静かな祈りにそぐわない人々が少なからず存在することも事実として言及しなければなりません。先の大戦を全く肯定的、或いは全く否定的に見る左右両極端のイデオロギーを信奉する人々により、この静かな祈りの空間が破壊される傾向が、徐々に強まってきているように感じるのは私だけではないはずです。

戦争を知らない幼稚なイデオロギー世代による軍装コスプレや頓狂な愛国集会、或いは靖国神社を「戦争神社」と呼び、その解体を声高に叫ぶ組織とカウンター勢力のぶつかり合い……。戦後も65周年を過ぎた頃から、いつしかこの8月15日と靖国神社は、戦争を知らないイデオロギー世代の空中戦の舞台となってしまいました。このような光景がこの鎮魂の日――まさしく8月15日という象徴的な日に、まるで「恒例行事」のように催されることは、慙愧に堪えません。願わくば8月15日が全ての戦没者への静かな鎮魂と慰霊の日になるよう、願ってやみません。


Photo by perkeCC BY 2.0

先の大戦が悪(侵略的)なるものだったのか、善(防御的)なるものだったのか。戦後、時が経てば経つほどに、先の大戦をめぐる左右のイデオロギーのぶつかり合いが、8月15日に沸き起こります。しかし、先の大戦を「善か悪か」という、イデオロギー的価値観で論じている限りにおいて、私達はまだ「8.15」という呪縛の、ただ中に居るということを自覚せねばなりません。

私達が先の大戦を、真にフラットに、公正に評価できるとしたら、そこには善か悪か、という二元論の入り込む余地はないはずです。例えば日清戦争や西南戦争、関が原の戦い、応仁の乱——かつての日本と清、明治政府と西郷軍、東軍と西軍、細川と山名をめぐる争いは、多くはどちらが「善と悪」という断定もないまま、日本の中近世の物語として語られています。そこにはイデオロギーではなく「単なる歴史的事実」が描写され、そこにはエンターテインメントとして血沸き肉踊る演出が加えられます。それ自体を訝しむ向きがあることを承知で言えば、同じ楽しむことであるなら、個人や組織の幼稚なイデオロギーの発散よりも、こうしたエンターテインメント作品の方が多くの人の胸を打ち、歴史的事実への興味関心を募るエネルギーを湛えていることは明らかです。

「あの戦いは善だったのか、それとも悪だったのか……」

このような問いが投げかけられること自体、私達がいまだ大きな戦争を戦い、そして「8.15」に敗れたことの後遺症をその呪縛として引きずっていることの証明にほかなりません。私達があの大戦や、「8.15」のその日を純然たる歴史的事実として、個人や組織のイデオロギーを発散させるのではなく、ある種エンターテインメントとして受け止める日が来るとき、いま存在する全ての左右のイデオロギー対立は解消されているに違いありません。


Photo by perkeCC BY 2.0

私は、先の大戦には反省の必要がないと言うつもりは毛頭ありません。先の大戦での失敗や判断ミスは、教訓として学ぶべきものです。その上で私はその教訓に、イデオロギーの眼鏡を掛けることなかれ、と言っているのです。先の大戦を全否定、全肯定することを前提にした教訓の取捨には、歪みが生じます。「8.15」を分水嶺として、それ以前の時代を善か悪かで捉えるという、ありがちなイデオロギーの歴史観から、我々が学ぶべきものは多くありません。戦後(8.15以降)確立されたと思いがちな我が国の民主主義的傾向は、戦前からすでに自由主義者達が盛んに唱えてきたものなのですから。日本国憲法の掲げる「平和主義・国民主権・基本的人権の尊重」は、戦前の一時期、東洋経済新報社社長の三浦鐵太郎や石橋湛山らによって提言されてきました。「8.15」を分水嶺として、それ以前が「暗黒」、それ以降が「光明」と日本史を色分けする議論はあまりにイデオロギー的で、事実に即しているとは言えないのです。

一方、とりわけ1930年代の戦前から続く統制的な気風が、「8.15」以降も連続され、その弊害が現出していることも指摘しなければなりません。この気風は、やれ「日本型経営」だの「日本的企業社会」だのと言われて来ましたが、明らかにいまや曲がり角を迎えており、その点検も必要になってきています。

私はあえて、8月15日は特別な日ではない、ということを指摘したいと思います。この言説は戦没者を軽んじているという意味では決してありません。事実、満州や樺太、千島列島では「8.15」以降も戦闘が継続されていました。「8.15」は書類上の起算日に過ぎず、そこで暮らす人々の生活は、「8.15」の前後、何ら断絶することなく営々と継続されてきたのです。その延長線上の上に、私達が存在するという当たり前の事実を、もう一度再確認していただきたいと思います。

8月15日が何か特別な日である、日本の歴史の転換点であるという先入観を土台に、左右の極端なイデオロギーの信奉者達が、更にその象徴である靖国に集っている現状は、冒頭で示したとおりです。本来ならば、「8.15」に関係なく、私達は静かに、戦没者に慰霊の意を示さなければならないはずです。我先に「8.15」という象徴的な日を「奪い合って」、殊更その日その場所を目指して手を合わせるのは、本当に先の大戦を反省している態度なのか、疑問に思います。


Photo by Junpei AbeCC BY 2.0

時代や場所を問わず、亡くなった祖先に手を合わせるのは自然な行為です。「8.15」に関係なく、自然と祖先の歴史に思いを馳せられることが当たり前になった時、あるいはそれを「エンターテインメントとしてすら」、楽しむことが出来るようになった時、私達の「8.15」は、真の意味でその終わりを迎えるのかも知れません。

「戦後70年」というありきたりな形容で日本を語るのは、些か陳腐に過ぎると言えるでしょう。なぜなら、「8.15」以前の、我が国の悠久の歴史の継続という事実を踏まえた上で「いま」という時代が存在するのならば、まさしく「8.15」に破局する戦争に突き進んでいった1930年代から1945年までの僅かながらの時間が、日本史の中でむしろ「異形だった」と言わざるを得ないからです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は例外的な対外遠征ですが、それ以外の我が国の歴史は、ほぼ防御的戦闘に終始していたのは古代から中近世の歴史が示すとおりです。これは我が国が今日掲げる「平和主義」の精神の発露と言えます。あるいは基本的人権の尊重や民主主義的傾向となると、近世の郡上一揆や加賀や堺の自治制がその先駆となります。日本と、日本人にもともと備わっていた平和主義や民主主義的傾向が、「8.15」以降の現行憲法に明文化されたに過ぎないと評価して、何ら疑いはありません。

「8.15」以降の戦後日本を、「堕落した」「押し付けられた」「平和ボケの」、と形容する動きがありますが、それは現在の我が国の評価として適当ではありません。むしろ、攻撃的で好戦的で残忍であった、戦中の一時期の我が国のあり方こそが、日本史の中で「異形」の時代だったのであり、「8.15」以降の現在は、我が国や日本民族の持つ、本来のあり方に「回帰した」と見なすべきではないでしょうか。

我が国本来の「常態」に回帰したいま、この営みを堅持し、育てていくことこそが求められます。「戦後70周年」という、区切りに囚われることなく、「8.15」以前から継続されている我が国と民族の平和的精神こそが、21世紀のアジアと世界にとって最も必要であるという事実を、いま、確信するものであります。

著者プロフィール

古谷経衡
ふるや・つねひら

評論家/著述家

1982年札幌市生まれ。立命館大学卒。NPO法人江東映像文化振興事業団理事長。ヤフーニュースや論壇誌などに記事を掲載中。著書に『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』『若者は本当に右傾化しているのか』『クールジャパンの嘘』『欲望のすすめ』など多数。TOKYO FM「タイムライン」隔週火曜レギュラー。

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