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「絶望しない国」で生きる、ということ

  • 森達也 (映画監督・作家・明治大学特任教授)
  • 2015年8月15日

昨年10月、カンボジアのトゥール・スレン(S21)とキリングフィールドを訪ねた。どちらもポル・ポト政権が行った自国民の虐殺を記録する公立の施設であり、外国から訪れた多くの観光客が、凄惨な歴史の展示を茫然と見つめていた。


Photo by Damien @ Flickr CC BY 2.0


Photo by Julia Rubinic CC BY 2.0

こうした負の遺産は世界中にある。例えばホロコースト。その残虐さと悲惨さを記憶して展示する施設はポーランドのアウシュビッツだけではなく、ドイツ国内にも無数に設立されていて、やはり世界中から多くの人が訪れる。


Photo by Jean-Pierre Dalbéra CC BY 2.0

ならばナチスの過ちを目にした世界中の人々は、ドイツ国民は何と冷血で残虐なのかと思うだろうか。S21やキリングフィールドを訪ねた人たちは、カンボジアは恥ずべき国だと声をあげるだろうか。あるいはそれぞれの国で、これらの施設や展示は国益を損なっているとか自国の恥を世界に喧伝しているなどと主張する人がいるだろうか。

ナチス・ドイツやクメール・ルージュだけではない。虐殺は世界中で行われている。民族や宗教やイデオロギーはほぼ関係ない。長くナチス・ドイツの加害行為とされてきたカチンの森虐殺事件は、冷戦終結後にロシアがスターリンの指示であったことを認定した。

21世紀に入ってからはポーランド政府が、自国民によるユダヤ人虐殺を公表した。しっかりと後ろを振り返れば気づく。こうした過ちは人類の普遍性に依拠しているのだと。 

人類の祖先であるラミダス猿人が樹から地上に降りてきた450万年前、直立二足歩行と同時に彼らは群れることを覚えた。なぜなら地上には大型肉食獣がたくさんいる。一人では捕食されてしまうけれど、集団なら天敵の接近に気づきやすくなるし、大勢で対抗することもできる。

こうして人類は群れる生きものになった。社会性と言い換えることもできる。ただし群れにはリスクがある。暴走だ。なぜなら同調圧力が働くからだ。全員が遅れまいと必死で走る。どこへ向かっているのかわからない。周囲すべてが同じ方向に走っているから速度もわからない。その最終形が戦争や虐殺だ。

ドイツでは憲法(正確には基本法)を改正するとき、国民投票という手続きを取らない。数年前にこのことを知ったとき、ナチス・ドイツの記憶を持つドイツこそ、国民投票を最優先すべきなのではと不思議だった。知り合いのドイツ人はその理由について、僕に「我々は自分たちに絶望したからです」と説明した。集団化したときの自分たちの判断を信用していないのだとも。


Photo by Charles Russell

戦後ドイツを全面的に称揚するつもりはない。ただし自分たちの過ちについて、日本とドイツの意識のあいだには相当な差異がある。戦争における日本のメモリアルデーは、戦争が終わった8月15日と広島・長崎の8月6、9日。そしてドイツのメモリアルデーは、アウシュビッツが解放された1月27日とヒトラーが首相に任命されて組閣した1月30日だ。つまり加害の記憶とナチス体制が始まった日――これがドイツにおける戦後70年の歴史の原点だ。だから彼らは毎年思いだす。なぜ自分たちはナチスを支持したのか。なぜ自分たちはあれほどに残虐な行為に加担したのか。深い絶望とともに考え続ける。だからこそ現実的な選択ができる。

日本人は絶望的なまでに絶望しない。

直後には大騒ぎするけれど、すぐに目を逸らす。責任を曖昧に分散しながら希釈する。個ではなく集団に紛れてしまう。そして同じ過ちを繰り返す。再稼働する。

もちろんそれゆえの強さもある。敗戦からたった十数年で奇跡的な復興を成し遂げた。この原動力になったのは日本人の集団力。いわば企業戦士の力だ。戦争中は皇軍兵士。共通する要素は滅私奉公。私を滅して組織に奉公すること。

日本人は集団や組織と相性がとてもいい。群れやすい。だからこそ暴走しやすい。一極集中で付和雷同。同調圧力がとても強い。一人称単数の主語を保持できない。気がつけば主語は大きくて強い複数形。だから述語が暴走する。集団への忖度が駆動力になりやすい。だからこそいつのまにか戦争を始めてしまった。

世界一ベストセラーが生まれやすい国との見方がある。世界で初めて公式に公害が認定された国でもある。焼け野原からの奇跡的な復興。世界唯一の戦争被爆国でありながら世界第3位の原発数。福島第一原発の事故は世界に衝撃を与えた。そもそも投票率は先進国では例外的なほどに低いが、結果はとても極端だ。だから後悔する。でもその後悔も長くは続かない。世界で最も古い王朝を未だに保持していることや憲法9条のラジカルさも含めて、とても振幅が大きい特異な国だ。

かつて鎖国を解いてアジアを見渡した日本は、周辺国のほとんどが欧米列強の植民地になっていることに気づき、自分たちは支配する側に回ろうと決意した。脱亜入欧と富国強兵。このとき胚胎したアジア蔑視の視点は、大東亜共栄圏思想へと肥大して戦争の大義となり、戦後もそのまま継続した。アジアにも負けたのに、アメリカに負けたとの記憶ばかりが突出したからだ。その意識構造はずっと続いている。ジャパン・アズ・ナンバーワン。戦争で果たせなかったアジアの覇者への願望を、戦後に日本は経済で果たす。でもその経済も今は中国に抜かれ、韓国もすぐ後ろにいる。その事実を認めたくない。意識の底で蔑視していたアジアの中流国になりかけていることを否定したい。

その軋みが今、ヘイトスピーチや嫌中反韓、自画自賛の書籍やテレビ番組、隣国への過剰な危機意識などに現れている。集団は連帯を求めながら外部の敵を可視化しようとする。可視化できないならば大義を強引に捏造して敵を設定する。そして自衛を理由に攻撃する。まさしくこれは911後のアメリカのプロセスだ。こうして戦争は起きる。それは歴史が証明している。でもこの国は後ろを見ない。自分の足跡を確かめない。なぜこれほどアメリカに依存できるのだろう。しかも容易に集団化する。だからこそ自衛や抑止力のリスクが露骨に現れる。それは過去にも何度も繰り返してきたこと。でも気づかない。つらいけれどまずは認めよう。これが戦後70年を経たこの国の現在の姿だ。

すべての生きものは個体を維持するために、生体内でアポトーシス(細胞の自死)を繰り返す。胎児の指は子宮の中で伸びるのではなく、指のあいだの細胞が自死することで形成される。だから思う。日本は世界のためにアポトーシスを起こすように宿命づけられた国ではないだろうかと。とても特異で集団化の弊害を強く体現する理由は、人類の負の属性を強く世界に示すためなのかもしれない。多くの人が苦しむ。泣く。生を断ち切られる。でもこの国はしっかりと絶望しなかった。ぎりぎりのところで目を逸らしてきた。必ず違う曲を探して踊り続けてきた。


Photo by Ryo FUKAsawa CC BY 2.0

70年が過ぎた。でもまだ遅くない。我々はこれから絶望する。いや我々ではない。私は絶望する。あなたも絶望する。個が弱くて集団に馴染みやすい民族だと自己認識する。力の強いものへの忖度と場の圧力に身を任せしまう傾向が強いことを実感する。

明晰な歴史観に支えられながら、しっかりと胸を張って自分たちに絶望する。加害の記憶から目を逸らさない。徹底して自分を蔑む。そのうえで再生する。中途半端な希望など要らない。自己愛など反吐が出る。だから最後に、村山談話の以下のパラグラフを(一部数字だけを変えながら)引用する。

いま、戦後70周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

著者プロフィール

森達也
もり・たつや

映画監督・作家・明治大学特任教授

1998年、ドキュメンタリー映画『A』を公開。世界各国の国際映画祭に招待され、高い評価を得る。2001年、続編『A2』が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。著書は、『A』『クォン・デ』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『下山事件』『東京 番外地』(新潮社)、『王さまは裸だと言った子供はその後どうなったか』(集英社新書)、『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社)、『死刑』(朝日出版社)、『オカルト』(角川書店)、『虚実亭日乗』(紀伊国屋書店)、など。2011年に『A3』(集英社)が講談社ノンフィクション賞を受賞。また2012年にはドキュメンタリー映画『311』を発表。最新刊は『自分の子どもが殺されてから言えと叫ぶ人に訊きたい』(ダイヤモンド社)と『クラウド 増殖する悪意』(dZERO)。

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