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  • Photo by Matt Paish(CC BY 2.0)

「さまよえる民主主義」から脱却するために

  • 椿昇 (京都造形芸術大学 美術工芸学科教授)
  • 2015年8月17日

2014年4月に90歳で他界した私の父は、大阪船場の商家の末っ子として生まれました。尋常小学校を卒業して、しばらくテーラーの丁稚奉公をしたあと、傾いた旅館業に見切りをつけて満州に渡ります。全満州2000人の受験戦争を勝ち抜いてハルビン鉄道学院に入学したものの、関東軍が戦争に突入。チチハルマンチュリーなど極寒の地で電線を敷設する作業をしていたようでしたが、あっという間に戦況は暗転。ロシア軍の参戦もあって、命からがらの逃避行が始まったそうです。同僚と敗走する関東軍の食料倉庫から米を盗んで飢えを凌ぎ、ロシア軍が占領した街の下水に首まで浸かりながら潜伏。飛行機を奪ってなんとかコロ島の引き揚げ者に紛れ込んで帰国した後、つてを頼って国鉄に再就職を果たし、新幹線の車掌をしながら比較的静かな余生を送りました。


Photo by 南満洲鉄道株式会社

今も存命する母は、宮崎県の延岡高等女学校で優秀な学生リーダーであったらしく、極めて厳格な戦争教育を受けた女性という空気を周囲に漂わせていました。子どものころ、出征兵士を見送る写真や、千人針や、軍事教練の様子を写した写真のアルバムが普通に僕の視界に入る場所に置かれていましたし、椿家初の男子への期待もあってか、重苦しい儒教的な重圧が常に彼女の背筋にしっかりと固定されているかのようでした。母がこだわり続けた教師への付け届けや慇懃な姿勢は、激変する時代のなかに取り残されてゆくかのようでしたが、それは86歳の今をもって厳格に保たれています。


Photo by 毎日新聞社

私は、朝鮮戦争がやっと休戦を迎えようとする3カ月前にその両親の長男として京都で生まれました。第二次世界大戦の終結からまだ8年しか経ておらず、空襲を免れたといえ、京都の街は煤けた荒屋が林立する荒廃した町並みであったと記憶しています。

大分機関区の助役を務め、50歳で恩給をもらい始めた祖父、孫とは口をきくことのない曾祖母が奥座敷に鎮座し、明治以来の天皇皇后の肖像写真と神棚が部屋の空気を押し殺すように陰鬱と佇む家庭でした。祖父は毎朝必ずその写真に頭を垂れてから一日を始め、神棚に柏手を打つ姿は私が長じても何ら変わることはありませんでした。


Photo by ひでわくCC BY 2.0

若いみなさんは奇異に思われるかもしれません。スマートフォンに金縛りになって世界と仕事をこなす私の前半生が、まるで歴史の断片を見るかのようであったのですから。この薄暗い京都の家のなかでは、まだ戦争は続いていましたし、家族の誰もが心のなかでは敗戦を受け入れていないかのようでした。居候していた従兄弟は『』という戦闘機の掲載された雑誌を熱心に読んでいましたし、その後小学校で熱中したプラモデルは「大和」や「武蔵」そして「紫電改」や「隼」や「ゼロ戦」でした。そこには反戦という意識も機運もまったく存在していませんでしたし、あまつさえ軍歌もよく流れていたのです。そして、現在では考えられないことかもしれませんが、私の親も親族も中国人や朝鮮人に対して極めて失礼な表現で侮蔑する言葉をよく口にしていたのです。もちろんそれは被差別部落の人々に対しても同じ有り様でした。


Photo by Ashley Van HaeftenCC BY 2.0

では、このように差別的な発言が家庭で日常的に交わされ、まったく平和教育の片鱗もなかった私の家庭から、なぜ比較的リベラルな思想を持った私が育っていったのか、その謎について考えてみたいと思います。

結論から申し上げましょう。私は物心ついたその瞬間から説明不可能な理由によって、家庭環境に疑問を持っていたということなのです。

幼いころから、とにかく親が中国人や朝鮮人の悪口を言うことに生理的な嫌悪感を持っていたということです。本当にこれをどう説明して良いものか苦慮しますが、記憶が誕生したその前後からずっと他人の悪口を聞くことを嫌悪していたのです。そのような会話が始まるとそっと席を外して近くを流れる疎水の道をあてもなくうろうろしたり、庭で工作をするような子どもでした。この事実を前にすると、長く教育に携わって来た人間として、大きなパラドックスを覚えざるを得ません。教育(家庭も学校も)という行為が、遺伝子にインプリントされた基本プログラムをどこまで加筆修正できるのかということなのです。

また、怖しいことで想像したくはありませんが、私と逆のパターンで平和を愛する家庭で育っても、記憶の誕生時点から好戦的で破壊衝動に溢れる個性があるのかもしれない――そんなことも十分想定可能なのではないでしょうか。その場合に、私が排外的な思想を持った家庭で育ちながらも、静かに逆の方向へと進んでいったことと真逆の個性が育っていくことをどう防げば良いのだろうと思うのです。また、この事実は単純に親のDNAを引き継いだから近似するということでもなく、もっと遠い時代の遺伝情報も含めて複雑な過程を経て個が形成されているという事を如実に示しています。


Photo by Ryan SommaCC BY 2.0

もちろん教育が無意味であるなどと申し上げているのではありません。しかし、いかに十全なる平和教育を行おうとも、人間の意識の底流には教育の及ばない生理的反応が潜んでおり、それが周囲の環境の変化によってリベラルにもサディスティックにも出現することを忘れたくはないのです。

いくら平和教育をしたからと言って平和な社会が続く保証はどこにもありません。またいかに好戦的なリーダーが現れたからと言って、すべての人々が雪崩を打って付き従うわけでもありません。そのように外部の影響だけが人格を形成するのではないと知った時に、私は不安より大きな安堵感を得るのです。それは世界がどのように動こうとも人類が話し合いによって少しずつ困難を克服して来た道筋を信じても良いという気になれるからなのです。それが愚鈍と言われようと遅いと言われようと「民主主義」と呼ばれる話し合いを尊重するシステムなのだと確信しています。

しかしながら少なからず懸念も見出されます。若い学生のなかには、ジャーナリズムやネットの垂れ流す二項対立の劇場型思想に洗脳され、リベラルな学生たちに限って「もう日本は戦争に向かっている」とか、「川内原発が再稼働しておしまい」だとか、極端で悲観的な考え方に陥りがちなことが気にかかります。良きにつけ悪しきにつけ反応が短絡的で映像文化の影響を強く受けた反応型に傾きつつあることが気がかりです。


Photo by 朝日新聞社

平和教育とは何でしょうか。歴史や政治などの情報を詰め込んだからと言って、それが成果を上げるはずはありません。戦争の悲惨さを伝える写真を見ても、それも一過性の抑止力にしかならないでしょう。インターネットでの調べ学習などは論外です。情報の多さが思考を深める手助けをしてくれるとは限らないことはもはや明白です。

とにかく一方的にたくさんの情報を垂れ流して与え続ける今の教育手法は、個が独立して思考する力を奪うことには貢献するものの、自分の頭で考え抜く力を徹底的に破壊することに加担するのみです。

あえて物心がつく瞬間の幼児のように、外部からの情報に頼らずシンプルに、「なぜ人は人を殺すのだろう」「宇宙の端はどうなっているのだろう」というような抽象的な問いに向かって、自分の言葉で考えぬくほうが、時代の歯車を強引に廻そうとする大きな声に惑わされなくなる人格を形成すると確信します。

私ならば、ここで大きな決断を行います。文部科学省が国立大学からリベラル・アーツを排除し実学重視で国際競争に打ち勝つことを狙ったあの短絡的な判断を白紙撤回するという決断です。


Photo by Nicholas WangCC BY 2.0

最後にレッジョ・エミリアの児童教育を主導しているカルラ・リナルディーさんと雑談した時にお聞きしたエピソードをお伝えしておきましょう。なぜレッジョは幼児教育を重視しているのかという一点についてです。

彼女は言いました。レッジョの市民はムッソリーニというファシストに扇動されてしまったことを強く反省し、「デモクラシーを守るためには、幼児期から相手の話を聞いて討論する習慣を日常化しなければならない」と。

この思想によって、戦後まもなく創立されたとのことでした。驚くべきことに5歳の子どもたちは毎朝自分たちで集まり、今日どんなワークショップをするべきか話し合いをしていたのです。ペタゴリスタという哲学の教師とアトリエリスタという美術の教師、そして技官の3名は、あくまでも彼らの議論を尊重してアドバイスをする役に徹していました。

いま我が国民がチャレンジするべきは、憲法改正でも原子力発電所の輸出でも、まして軍需産業の育成でもありません。世界に冠たる日本国を築く一歩として「日本型民主主義とは何か」という議論を開始することです。

「人の話を聞く」
「自分で問いを生む」
「自分の言葉で考えぬく」

この単純極まりない3つの行動を飽くことなく幼児期から繰り返すほかに、平和な社会を持続する手立てはないように思います。未来は明るくも暗くもありません。未来は国民ひとりひとりが明るくする義務を負うに値する「何か」なのです。


Photo by Riedelmeier

著者プロフィール

椿昇
つばき・のぼる

京都造形芸術大学 美術工芸学科教授

日本を代表するコンテンポラリー・アーティストの一人であると同時に、卓越した教育者でもある。また、アートの新しい可能性を探る新しい実践も数多く、妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトや瀬戸内国際芸術祭のエリアディレクターとして「醤+坂手港プロジェクト」などを手がけている。新著に『シェルターからコックピットへ 飛び立つスキマの設計学』(産学社)。

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