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日本は、できそこないの「普通の国」になど、なる必要はない!

  • 茂木健一郎 (脳科学者、作家、ブロードキャスター)
  • 2015年8月15日

近代の日本を振り返ると、エポック・メイキングな出来事は、二度あったと言えるでしょう。

一度目は、明治維新。二度目は、第二次世界大戦における敗戦。どちらも、日本という国のあり方を、根底から変えるような出来事でした。

近代における日本という国家の「正統性」を担保しているのが、明治維新です。日本人は、西欧以外の国として初めて近代化に成功したことを、長らく誇りに思ってきました。今日に至るまで、明治維新の物語は、繰り返し語られてきています。吉田松陰の松下村塾。坂本龍馬の奔走。福沢諭吉の文明開化。日本人は、これらの「偉人」たちの物語が大好きです。大河ドラマのテーマにも、繰り返し取り上げられてきました。


Photo by Evan Blaser CC BY 2.0

一方、第二次世界大戦の敗戦は、強烈なトラウマとして、日本人の脳裏に焼き付けられています。戦争に至る日本の道筋の評価は置いても、その結果は悲惨なものでした。夥しい人命が失われ、沖縄では凄絶な戦闘が繰り広げられ、広島、長崎に原爆が投下され、多くの大都市が焦土と化しました。


Photo by US government

ポツダム宣言を受け入れた日本は、連合国軍に占領され、日本国憲法が制定されました。これが、戦後の日本の出発点となりました。


Photo by paukrus CC BY 2.0

明治維新の「成功」と、第二次世界大戦の「失敗」は、あまりにも対照的な出来事だったため、近代日本における「明」と「暗」のコントラストとして捉えられています。そして、政治家や評論家、一般の人々の一部で、維新の「成功」に比べて余りにも惨めな日本の「失敗」を「リセット」しようという動きがあるようです。

具体的には、明治維新の「成功」を肯定し、近代日本の出発点となった先人の「偉業」を讃えるとともに、これからの日本も、そのような「富国強兵」的な動きの延長線上に構想しようという動きです。そのような人たちは、「日本を取り戻す」や、「戦後レジームからの脱却」という言葉で、敗戦という経験そのもの、そしてその後の日本の再出発を否認する傾向にあります。

つまり、明治維新は「良い日本」の象徴で、肯定されるべきだが、敗戦とその後の歩みは「悪い日本」の象徴なので、否定、ないしは超克しよう、という衝動を持っているようなのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか? 明治維新と、敗戦は、それほど対照的であり、違うのでしょうか?

私は、明治維新も、実は「敗戦」から始まったということに注目すべきだと考えます。すなわち、薩摩藩と英国の間で行われた「薩英戦争」と、長州藩と英国、フランス、オランダ、米国との間で戦われた「下関戦争」です。日本側が列強の文明の威力を肌で知るきっかけとなった、重要な出来事でした。

直接戦火を交えることを通して、単に攘夷を唱えているだけでは、西洋列強の文明力に勝てないと悟った薩摩、長州の両藩は、方針を転じて、西洋の文明から積極的に学び、取り入れることで力をつけ、維新の原動力になりました。そのような姿勢は、維新後に成立した明治国家にも受け継がれます。


Photo by Ashley Van Haeften CC BY 2.0

明治維新の背景にも、「敗戦」があった。このような視点から見ることで、通常、対立的に捉えられがちな明治維新と第二次大戦の経験に通底するモティーフが見えてくるように思うのです。

最初の「敗戦」で、日本は、文明開化の必要性を学びました。そこから、富国強兵し、国を発展させ、西洋列強に並ぶ力をつけました。日露戦争の勝利に至る「坂の上の雲」を目指しての道筋は、誰もが知るとおりです。

では、第二の「敗戦」の教訓とは、一体、何だったのでしょうか?

通常の理解は、第一の「敗戦」の教訓は有意義なもので、日本を文明開化と富国強兵に導いた、というものでしょう。一方、第二の「敗戦」の教訓についてはネガティヴに考える人たちがいる。むしろ教訓どころか、日本の恥辱だと考える人たちがいる。占領軍による「押し付け憲法論」などは、その典型です。


Photo by Ryo CC BY 2.0

果たして、そうなのでしょうか?

第一の「敗戦」の意味は、追いつき、追い越せということでした。それは、日本を、非西欧国では初めての、先進国の地位へと導きました。

それでは、第二の「敗戦」の意味は、一体、何だったのでしょう?

私は、第二の「敗戦」が日本に与えたのは、戦争に勝った、現在の国連の常任理事国には、決してわからない教訓だったのだろうと思います。それは人類を破滅させるだけの核兵器が蓄積される一方、特異点に近づきつつある人工知能の軍事への応用が新たな人類滅亡の危機を迎えようとしている今だからこそ生きる、ユニークな日本の体験です。

主権国家が、「自衛」のために核兵器を含めた軍事力を用いる。そのような、米国を典型とする「普通の国」のあり方について、根本的な疑問を呈するようなユニークな視点を、第二の「敗戦」を通して、日本は獲得したように思うのです。それは「核の傘」の傘下であろうと持ちうる独自の視点であるはずです。

まさに、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ではなく、「ジャパン・アズ・オンリーワン」として。

最初の「敗戦」で、日本は、「普通の国」になろうとしました。西洋列強と並ぶ「普通の国」です。

第二の「敗戦」から70年経った今、一部の人々は、日本を、再び「普通の国」にしようとしているように見えます。集団的自衛権という名の「グローバル・スタンダード」に合わせようという動きは、日本を、そして世界を本当に平和と繁栄に導くのでしょうか?

私は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ではなく、「ジャパン・アズ・オンリーワン」を目指す、自らの体験に誠実な姿勢こそが、日本の未来を切り開くと考えるのです。

敗戦国だからこそ、わかることがある。憲法9条に象徴される戦後日本の平和主義は、現実から背を向けた逃避的姿勢などではなく、むしろ、戦勝国には全く見えていない、主権国家の根本的脆弱性に関する、一つの叡智だと考えます。


Photo by 安部英知

日本は、遅れて来た、できそこないの「普通の国」になど、なる必要はない! のです。

むしろ、日本は世界の平和と繁栄にかかわる自らのユニークな立場を自覚して、世界を主導すべきでしょう。

著者プロフィール

茂木健一郎
もぎ・けんいちろう

脳科学者、作家、ブロードキャスター

脳科学者、作家、ブロードキャスター。クオリアの解明をライフワークとする。

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