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過ちを繰り返さないための、わたしたちの責務

  • 江川紹子 (ジャーナリスト)
  • 2015年8月15日

戦争が終わって70年。その歳月の重みを考える時、私が今ここに生きていること、そして、恐怖と欠乏に苛まれることなく、平和のうちに暮らしていられることに、心の底から感謝の念が沸いてきます。

多くの命が失われた戦争の時代を、私の両親は生き延び、終戦の日を迎えることができました。この幸運がなければ、今、私はここにいません。


Photo by RichardCC BY 2.0

日本の再出発に当たっては、たくさんの国々の協力がありました。まず、サンフランシスコ平和条約では、アメリカなどの連合国が日本に対する賠償請求権を放棄し、工業生産に対する制約を加えませんでした。それ以前の戦争の講和に比べ、敗戦国に極めて寛大な対応でした。背景には、東西対立の始まりという、当時の国際情勢があったとはいえ、日本に重い負担を負わせないために、多くの人たちの努力があったのでしょう。

アジアの国々に対する賠償も、役務提供と経済協力という形で、しかも当初の要求よりずっと低額で折り合ってもらうことができました。役務提供は、当該国への日本企業の進出の契機となり、日本の経済成長に資することになりました。


Photo by JOHN LLOYDCC BY 2.0

とりわけ大きかったのは、中国の対応です。国交正常化の際の日中共同声明(1972年)において、中国は日本に対する戦争賠償の請求権放棄を宣言しました。

中国での死者数は、正確には不明ですが、1000万人以上と言われています。その被害の甚大さを考えると、中国がまともに賠償を請求していたら、日本の財政は相当に困難な状況に陥ったはずです。

中国には中国としての思惑があったのでしょうが、この寛大な措置によって、日本がとても助けられたことは間違いありません。与えた被害への贖罪意識と賠償放棄への感謝もあって、日本は対中ODAに力を入れてきました。それが、今の中国の発展と繁栄の基礎を築く役に立ったことは、日本国民の一人としてうれしく思います。

終戦後、日本の人々は生活と社会の再建のために懸命に働き、国を建て直し、豊かにしてきました。復興を果たした日本は、その後、困難な状況にある国々を積極的に支援してきました。様々な地域で、そこに暮らす人々の自立と幸福のために頑張っている人たちも大勢います。また、戦後の日本は、人々の意思と日本国憲法によって、戦争当事国にならずにきました。そういう戦後の歩みに、私は誇りを感じています。


Photo by Alberto GrageraCC BY 2.0

一方、その陰で、長く置き去りにされた人々もいました。

たとえば、かつて日本人として兵士となったり、労働力の提供をしたアジアの人々への補償問題があります。日本兵として戦い、亡くなった人の遺族や体に障害を負った方々は、軍人恩給の対象になりません。サハリンで働いていた多くの日本人は、戦後まもなく帰国できたのに、日本国籍を失った朝鮮半島出身者は取り残されるような事態も招きました。

戦時中の日本は、労働力不足を補うため、中国人を日本に連れてきて、鉱山や工場で働かせました。その数は約4万人に上ります。力づくで連行された人もいて、過酷な労働と栄養失調で2割近い人が亡くなりました。朝鮮半島でも徴用されるなどして、日本で働くことを強いられた人たちがいます。多額の未払い賃金も死傷された人たちへの労災補償も、そのままとなりました。

韓国人や中国人の中には、裁判を起こした人もいましたが、日本に法的な賠償義務はないということで認められませんでした。こうした問題が起きるたびに、日本政府は「請求権問題は法的に解決済み」との公式見解を繰り返します。


Photo by tommy japanCC BY 2.0

とはいえ、人の社会は公式見解だけで動いているわけではありません。日本でも、いくつかの例外的な事業がなされてきました。たとえば——

●台湾住民である旧軍人・軍属の戦没者・重度の戦傷者に一人200万円の弔慰金・見舞金支給(1987年)
●サハリン残留韓国人の帰国支援(1987年~)
●アジア女性基金による元慰安婦に対する償い事業(1995~2007年)
●サンフランシスコ平和条約によって日本国籍を失った者のうち、日本に在住する旧軍人・軍属の遺族に260万円の弔慰金、重度の戦傷者に200万円の見舞金(2000年)

いずれも、当事者にとって十分なものとは言えないでしょう。それでも、道義的責任を感じ、あるいは人権意識の観点から、少なからぬ人たちが献身的な努力をした結果、これらの対策を実現できたことは、しっかりと記憶にとどめたいと思います。

また、強制労働については、いくつかのケースで、日本企業とかつての労働者との間で和解がなされています。今も、そのための努力をしている企業もあると報じられています。この努力が実を結び、被害を受けた人たちへの適切な補償がなされるよう、関心を持ち続けていきます。

それでも取り残される被害者に対応するため、政府には何らかの自発的な取り組みを検討してもらいたいと思います。国、国民、企業が協力する基金を作り、包括的に対応するのも一案でしょう。戦後70年で多くの人が歴史に関心を寄せている現在、アイデアを募ってみたらいいかもしれません。

戦後50年に出された日本政府の公式見解、いわゆる村山談話にはこうあります。

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました

その責任の多くは「国」、つまり政府と軍部にあります。けれども、多くの国民が、その誤った国策を支持したり、協力したことから目を背けるわけにはいきません。そのような国民意識を育んだのは、教育とジャーナリズムだったと思います。

当時とは異なり、今は国民が主権者です。政府に国策を誤らせない責務が、国民にあります。教育やジャーナリズムの責務は、かつてより増していると言えるでしょう。


Photo by Le CampingCC BY 2.0

しかも、実際に戦争を体験した人たちが身の回りからいなくなるにつれ、戦争について極めて観念的な物言いをする人が増えてきました。与党の政治家から、戦前の価値観を肯定するような発言も飛び出しています。過ちを繰り返さないために、負の歴史も忘れられないように伝えていく努力を、意識的にしなければならない、と感じています。

そして、現実を見つめつつ、理想を忘れず、自分がどう振る舞うべきなのかを常に考える。その大切さを改めて心に刻む戦後70周年です。


Photo by Candy HargettCC BY 2.0

著者プロフィール

江川紹子
えがわ・しょうこ

ジャーナリスト

東京都杉並区生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランス。著書に『勇気ってなんだろう』(岩波ジュニア新書)、『救世主の野望・オウム真理教を追って』(教育史料出版会)など。

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