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  • Photo by kenichi nobusue(CC BY 2.0)

100年間戦争をしなかった国で鳴る鐘を

  • 大谷昭宏 (ジャーナリスト)
  • 2015年9月15日

星座や血液型、それに動物占い、八卦見のようなものにはハナから興味がない。それだけではない。県民性のような地域性にも、いわゆる世代論にも、関心がない。だってそうでしょ。東京生まれにしたって、目黒ですごした者と下町の浅草や深川で大きくなった者では、生活も環境もまったく違う。

同じように世代論にも与しない。これだってたとえばバブル世代と失われた十年世代といったって、バブルの恩恵にモロあずかった人もいれば、とんと縁がなかった人もいる。失われた世代といっても、別にどうってことなく普通に暮らしていた人もいる。

そんな私が、絶対にこの年だけは別だと、こだわり続けている年がある。それが1945年――昭和20年である。

言うまでもなく、日本はポツダム宣言をこの年の8月15日に受諾して無条件降伏。日本は第二次世界大戦の敗戦国となった。私がこの年にこだわるのは、そう、敗戦の年であると同時に、私はこの年に生まれたのだ。今年で70歳、日本は戦後70年、そして日本が一切の戦争をやめ、平和を維持し続けて70年になる。

私は敗戦の約1カ月前、7月8日生まれだから、戦争の記憶はかけらもない。

その翌年の1946年11月に日本国憲法が公布され、翌47年5月3日に実施された。爾来この憲法の精神に則って、私たちの国は一度たりとも戦争をしていない。自国民に血の一滴も流させず、他国民にひっかき傷ひとつ負わせていない。

それが、どれほどすごいことなのか。よその国の70歳に聞いてごらん。「私の国だって自国民にも他国の人にも、一滴たりとも血を流させていない」と胸を張って言える70歳がどれほどいるか。ほとんどいないはずだ。もう一度言う。それが、どのくらいすごいことで、尊くて、誇り高いことなのか。そして私たちこの国の70歳は、そのすごくて、尊くて、誇り高いこととともに生きてきたのである。

そのことを可能にしてくれた日本国憲法を心の底から慈しみ続けたい。私たち1945年生まれは、憲法と自分の片足をしっかり結びあって二人三脚で生きてきた。憲法が倒れたら、私たちも歩みを進めることはできない。だから生まれながらにして憲法を語り継いでいく使命を背負っていると言っていい。 

この夏、私はテレビ番組の取材で、敗戦の日に朝日新聞に辞表を出し、以後ふるさと秋田県横手市で「たいまつ新聞」を出し続けたむのたけじさんと、昭和と戦争を書いてこられた澤地久枝さんにインタビューさせていただいた。あとで気づいた、まったくの偶然なのだが、むのさんは私より30年先輩の100歳。澤地さんは15歳上の85歳。そして私、70歳。1915年、1930年、そして1945年。私たちは15年ずつバトンを引き継ぎながら、平和を、そして憲法を次代に繋いでいくミッションを知らず知らずに果たしているようにも思うのだった。 

そんなとき、うれしいニュースにふれた。安保法制案が衆院で強行採決された夜、国会前に集ったSEALDsの若者たち。そのなかの、まだあどけなさの残る一人が少年のような声で「ぼくは、あと30年たって戦後100年になったとき、ついに100年間、戦争してこなかったという祝いの鐘を鳴らしたいんですよ」とみんなに語りかけたと聞いた。

この若者は30年後、50歳くらいだろうか。そして、むのさんも澤地さんも、失礼ながら、旅立たれているだろう。もちろん私だって、あとを追っているはずである。

だが、私が生まれた1945年からちょうど100年後。この若者が打ち鳴らす鐘の音に、この日本で、地球の裏側で、そして黄泉の国で、みんなで、静かに耳を傾けたい。


Photo by J3SSL33CC BY 2.0

著者プロフィール

大谷昭宏
おおたに・あきひろ

ジャーナリスト

1945年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。68年、読売新聞大阪本社入社。徳島支局を経て、本社社会部記者として大阪府警捜査一課や朝刊社会面コラム「窓」を担当。87年に退社後は、故黒田清氏とともに「黒田ジャーナル」を設立。2000年に黒田氏没後、個人事務所を設けて、新聞、テレビなどでジャーナリズム活動を展開している。主な出演番組は、テレビ朝日「スーパーJチャンネル」、TBS「ひるおび!」など。日刊スポーツにて毎週火曜日にコラム「フラッシュアップ」を連載。著書に「事件記者という生き方」(平凡社)「冤罪の恐怖」(ソフトバンククリエイティブ)、共著に「権力にダマされないための事件ニュースの見方」(河出書房新社)などがある。

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