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僕の知らない「戦争」と関わり続けること

  • 大西連 (NPO法人自立生活サポートセンター・もやい)
  • 2015年12月29日

以下、故人の話や手記をもとにしているものがあり事実と違うものもあるかもしれません。

8月15日。日本にとって特別な日です。戦争が終わった日です。そして、戦争に負けた日です。

僕は1987年生まれ。もちろん、戦争を知りません。父母も戦争を知りません。そういう時代に生まれ、育ちました。


Photo by Michael GilCC BY 2.0

僕がはじめて「戦争」を意識したのは、高校1年の夏。父の仕事にくっついて訪れた韓国でのことです。父の会社の取引先の工場が大田(テジョン)というところにあり、商談をしている間はヒマだからと、先方のLA帰りの若手社員が「どうしても見てもらいたいものがある」と言って、天安(チョナン)というところにある独立記念館に連れて行ってくれたのです。

ろくに英語も話せない僕はいったいどんなところなんだろうと不安だったのですが、独立記念館には日本語の案内もあり、日本が朝鮮半島でおこなったことに関するさまざまな資料が多く展示してありました。目を背けたくなるような写真や映像もあり、少し精神的なダメージを受けてしまうくらいでした。

帰りの車のなかでLA帰りの彼に「僕も君も戦争は知らない。でも、忘れてはいけないし、知ること、考えることから始まるんだ」と言われたことが、とても印象に残っています。つたない英語でしか話せない僕にわかるように、一語一語易しい言葉で、でも、きちんと伝えようと誠実に話す彼の真摯な表情は、いまでも目に浮かびます。


とはいえ、たかだか高校生のひと夏の思い出。日々の暮らしのなかで記憶はうすれていきました。

次に「戦争」を意識したのは20歳のころ。四国の松山に住む父方の祖父が亡くなったときです。遺品整理で仏壇を開いた時に、奥から桐の小さな箱を見つけたのです。なんだろうと思って開いてみると、なかには銀杯が入っていました。隣にいた父がそれを見て「シベリアにいったお詫びだよ」とつぶやきました。そう、祖父はシベリア抑留者だったのです。

祖父は松山で生まれ、10代で満州にわたりました。家は地主だったそうですが、10人兄弟の末っ子で、食い扶持と立身出世を夢みて祖母と結婚後すぐに大陸に渡りました。いわゆる「満鉄」に就職し、ソ連との国境にある満州里(マンチュウリ)という街の駅でロシア語の通訳をしていたそうです。大戦の末期には徴兵され、ソ連の参戦後に満州で捕虜となり、シベリアに抑留されました。ロシア語ができるということで通訳をさせられ、待遇はよかったものの、裏切り者と仲間から制裁されるかもしれないと毎晩おびえていた、と生前に語っていました。幸いなことに抑留者のなかでも比較的早期に帰国することができたものの、20代の青春時代の一時期を苛烈な抑留生活で過ごした経験は、祖父の人生に大きな影響を与えたことでしょう。

祖母は僕が幼少期に亡くなったために直接話をする機会はありませんでした。なんとか引き揚げ船にのって舞鶴港に降り立つことはできましたが、首にソ連兵からの暴行をおそれて親族とともに自分で短刀を突きつけた生々しい傷跡が残っていたと聞いています。

仏壇の奥に大事にしまわれていた銀杯をみて、僕は政府がおこなった抑留者への補償の儚さに背筋が凍りました。しかし、一方で祖父はそれを後生大事に家宝とし、毎年8月15日に全国戦没者追悼式に参列していました。彼が「戦争」をどう考えていたのか。いまでは知る由もありません。「戦争」が落とした影は、第三者がはかりしれない複雑なものであることは間違いありません。

彼の大事にしていた銀杯はいま、僕の部屋の押し入れの片隅でひっそりと、にぶい輝きをはなっています。

父方の祖父母だけでなく、親族に「戦争」によって命を奪われた人や、大きな影響を受けた人はたくさんいます。父方の大叔父は呉の海軍工廠に技術者として勤めていたそうですが、広島の原爆投下後に救援活動で入市し、間接被ばくして戦後に白血病で亡くなったと聞きました。


母方の祖父は中国戦線に派兵され、銃弾を頭に受けて負傷して帰国。幸いにも命に別状はなかったそうですが、後遺症に悩まされていたそうです。

僕の家族だけではなく、日本に住む多くの人が、そして、アジアや太平洋地域に住む多くの人々が、さまざまな形で傷つき、苦しみ、権利や尊厳を奪われました。「戦争」は本当におそろしいもので、「戦争」を知らない僕にも、僕の家族にも大きな影響のあるものだったのです。そして、日本は加害者として侵略戦争に参加した、それは国際社会で認められているゆるぎない事実なのです。

私たちはあの「戦争」に何の関わりもない存在なのでしょうか。もちろん、月日とともに記憶はうすれていきます。語り部も高齢で、小学校時代に東京大空襲の話をしてくれた近所の生花店のおばあちゃんも、戦艦大和が特攻した菊水作戦に駆逐艦乗りとして参加していたことを自慢気に話してくれたクリーニング屋のおじいちゃんも、いまは鬼籍に入っています。


Photo by Hayakawa

でも、だからこそ、知らなければならないし、伝えなければならない。

10年前に韓国の青年に言われた「僕も君も戦争は知らない。でも、忘れてはいけないし、知ること、考えることから始まるんだ」という言葉を、僕も伝えていかなければならない。

自分たちに都合のいい歴史だけでなく、都合の悪い歴史も。そして、そこで精一杯生きてきた祖父をはじめとした市井の人々の息吹を。

かくいう僕も、恥ずかしながら、広島や長崎を訪れたことはありません。

自分の目で見て、語り継いでいく。戦争を知らない世代だからこそ、戦争の記憶や遺産を大切に引き継いでいかなければならないと思います。そして、その責任が戦後を生きる私たち全員にはあるのです。

僕はあの「戦争」に何の関わりもない存在ではありません。また、そうあってはならないのだと思います。日本はあの「戦争」と関わり続け、そして、そのことにより平和であり続けることができるのではないでしょうか。

戦後70年。日本が平和であり続けるためには何が必要なのか。

僕は祖父から託された銀杯を、子どもや孫の世代に、彼や家族の思い出とともに遺していきます。それが僕の誓いです。

著者プロフィール

大西連
おおにし・れん

NPO法人自立生活サポートセンター・もやい

NPO法人自立生活サポートセンター・もやい/認定NPO法人世界の医療団。 1987年東京生まれ。新宿での炊き出し・夜回りなどのホームレス支援活動から始まり、現在はNPO法人自立生活サポートセンター・もやい、東京プロジェ クト(世界の医療団)などに参加。生活困窮された方への相談支援に携わっています。また、生活保護や社会保障削減などの問題について、現場からの声を発信したり、政策提言しています。

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