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  • Photo by Official U.S. Marine Corps photo by Lance Cpl. Achilles Tsantarliotis

いかなる理由があろうとも戦火だけは交えない国でありたい

  • 鳥越俊太郎 (ニュースの職人)
  • 2015年8月16日

私は昭和15年(1940年)に生まれた。終戦のとき5歳児であった。

勿論その頃の記憶は明瞭にあり、度重なる空襲警報に逃げ惑い、防空壕に逃げ込んだこと数知らず。逃げる途中に上空にB29が飛来すると道路脇の小川に飛び込んで身を伏せることもあった。


Photo by USAAF

翌昭和21年、私は小学校に入った。その時から私の戦後は始まる。私たちの世代は戦後1期生と言ってもいいだろう。

私そして私たちは常に飢えていた。極端に貧しく、食べるものがなかった。お米がないのは当たり前、さつまいもを常食にしていた。今でも思い出すのは学校で弁当箱を開けたらさつまいもがごろりと1本転がっていた光景である。

貧しさと同時に、私たちは平和と民主主義について学んだ。これは私の原点である。心の底に染み付いた絶対に譲れないところでもある。

私たちの7歳年長である今上天皇は同じような環境で育ち、平和と民主主義の申し子になった。

戦後60年の節目にサイパンを訪問し、70年の今年には太平洋戦争の激戦地、ペリリューがあるパラオ諸島に慰霊の旅をされた天皇夫妻の心中には、ジワジワと変形を遂げて行く日本社会と政治の様子に苦々しい思いがあるのではないかと思う。

これは自民党の政治家、そして総理大臣が靖国神社を参拝しても今上天皇は決して動かない所からの私の勝手な推測だが、そう勘違いをした思いではないと考える。

日本は近代社会に踏み出した明治維新時、どういう国際状況にあったのだろうか? 欧米列強はひたひたとアジア各国を侵略し、次々と植民地化してアジアから莫大な冨を収奪していった。

その中で近代化を進める上で日本の明治政府が取った選択は「殖産興業」と「富国強兵」の道であった。


Photo by 吉川弘文館「明治の日本」

それは日本も近代化を進めるには欧米列強の真似をせざるを得ないという道筋であった。日清、日露の両戦争の評価は異論もあるが、背景にあったのは日本が植民地にだけにはなりたくない

という明治政府の思いだろう。

そして満州事変から太平洋戦争に転がり落ちていく様は間違いなく欧米列強の真似をした満州国建設という植民地政策が土台になっている。

日本の近代化の歴史は、同時に戦争と非民主主義の連続であった。その影で数百万の命が失われ、国民は言論の自由を初めとする基本的人権を完全に奪われた。

その意味で私はこれからの日本はこれ迄の70年で大事に守って来た憲法の精神を社会の土台に据え、他国とはいかなる理由があろうとも戦火だけは交えない国でありたいと思う。

憲法はアメリカの占領軍から押し付けられたから改正しようという意見がある。しかし、憲法はプロセスではなく中身だと思う。

憲法草案作成に当たってはGHQ内部のセクション、GS(民政局)が主導したと言われる。そこにはニューディール政策を実施したアメリカ政府のリベラル派、ニューディーラーがたくさんいた。

彼らは自国でも実現できないほどの理想的な憲法作成に協力したと言われる。憲法9条はその結晶ではないかと思える。

国際的な紛争の解決に武力行使をしない。

これはやはり日本の今後の国際政策でも貫徹させたいと思う。戦後70年の節目に当たって思うことは平和と民主主義のありがたさである。これだけは何としても守って行きたいと願う。

(2015年7月25日記)


Photo by シンタヤベ

著者プロフィール

鳥越俊太郎
とりごえ・しゅんたろう

ニュースの職人

1940年3月13日生まれ。福岡県吉井町(現うきは市)出身。京都大学文学部卒業後、毎日新聞社に入社。新潟支局、大阪社会部、東京社会部、「サンデー毎日」編集部に所属し、外信部(テヘラン特派員)を経て1988年4月より「サンデー毎日」編集長。1989年に退職して以降、テレビ朝日系列「ザ・スクープ」「サンデージャングル」でキャスターを務めるなど、テレビメディアに活動の場を移した。2005年、ステージ4の大腸がんが発覚、肺や肝臓への転移を経て4度の手術を行った。2010年から始めたスポーツジムに加え2012年にはホノルルマラソン完走を果たすなど健康的なライフスタイルを貫いている。現在もさまざまなメディアで「ニュースの職人」として活躍中。

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