娘の通う都内の小学校では年に一度、富山県にある姉妹校と、互いの学校を行き来する交流を行っています。去年は東京の子どもたちが富山を訪れ、生徒や地元のみなさんに暖かい歓迎を受けたので、今年は東京で、富山の子どもたちを迎えました。歓迎式では、北陸新幹線に乗ってやってきたばかりの富山の子どもたちが、寸劇やスライドで、豊かな自然溢れる富山のこと、そしてこの交流の成り立ちとを、あらためて紹介してくれました。
この姉妹校交流はさかのぼること70年前、当時東京の学校に在校していた、いわば娘の大先輩たちが、第二次世界大戦の戦火を逃れ、富山の学校に学童疎開したことが発端となっています。突如親元を離れることとなった東京の子どもたちは、縁もゆかりもない疎開先の学校で大変良くしてもらったそうで、戦争が終わり、東京に戻ってからも、お世話になった富山の校長先生を卒業式に招くなど、行き来を続けてきました。その後70年という長い時間の中で、時代とともに少しずつ形を変えながらも、未だに、2校の児童の交流は途切れることなく続けられているのです。
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今年、富山からきた男の子は、家の近くにある小高い丘のことを話してくれました。
「近所に住むおじいちゃんに聞きました。かつて学童疎開でやってきた東京の子どもたちは、当時よくこの丘にやってきたそうです。そして、東京の方を見つめて、涙を流しながら、家族の無事を祈っていたといいます」
学童疎開に端を発した交流を通し、子どもたちは今年も、70年前に自分と同じ年頃の子どもたちが体験した戦争を学びました。同様に親である私たちもまた、当時の親たちがどんな思いで我が子を見知らぬ土地に送ったのか、改めて考えさせられました。
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家族が不本意に離ればなれになったり、命の危険にさらされたり、そんなリスクと引き換えにしてもなお手に入れたい「もっと」は、今の豊かな日本に暮らす私たち、そんなにたくさん持っていません。
一方で、広い世界の中では、豊かさをこれから手にするために、あるいは、さらなる豊かさを手にするために、「もっと」を強く望む人たちもいます。
より多くを望み、そのためにどこまでも手を伸ばすことができる、リスクをとることを厭わない人たちと、より多くを望まない私たちとが、今後どんな風に対峙していけば良いのか。最近は特にそのことを考える機会が多くありましたが、正直なところ今なお、はっきりとした結論が出せないままでいます。
だから私はせめて、今当たり前にある暮らしを、あらためて強く望もうと思うのです。
家族と一緒に暮らすことのできる毎日、戦いによって命の危険にさらされることのない毎日は、決して降って湧いた幸運でなく、本来私たちが望み、手を伸ばして、掴みとったもの。完全に無自覚になってしまえば、気を抜いた瞬間に力がゆるみ、するりと手から抜け落ちてしまいかねません。
過去の痛みを忘れ、何度も「向こう見ずな一歩」を踏み出せるのは、ある面では人間が生きていくために備えられた強さなのかもしれません。それでも今後、子どもたちが大人になり、親となったとき、家族とともに暮らしたいと望めば、それが今と同じように、当たり前に叶う国であり続けてほしい。
だから私は、今、生活の中で選びとっているかけがえのないものを、いつまでも強く望み続けなければと思うのです。