働けば暮らしが良くなる――そんな時代が、わたしが生まれる少し前まではあったらしい。わたしにとってはカンブリア紀とほぼ同等の現実味ですが、われわれ30代を「夢がない」だの「覇気がない」だのと好き勝手に評してくださる年長者は、いまだその幻想の中に生きているようです。
少なくともわたしには、大きな野望と呼べるようなものはなく、会社員兼文筆家としてもそこそこ楽しく仕事をし、休日には旅行したりレイトショーで映画を観る暮らしがずっと続けばいいなと思っています。今やそれこそが、大きすぎる望みなのかもしれませんが。
映画といえば、先日3回目の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観てきました。核戦争後の世界で、独裁者イモータン・ジョーが支配する砦を女戦士フュリオサとジョーの妻たち、そして巻きこまれ系の主人公マックスがぶっ潰すお話です。
ジョーは悪役というよりむしろ有能な為政者で、短命な兵士にも信仰を与えて兵力とし、治水や農業を行います。登場人物の誰より、砦を生かし続けられる人物です。でも、生かされ続けることはときに死より辛い。人は衣食住が最低限足りたあとは、誇りのために足掻かざるを得ない存在だからです。
日本にはありがたいことにジョーのように頭の切れる独裁者は見当たりませんが、不幸なことに倒すべき悪の顔すらはっきりしません。ただの足の引っ張り合いで自滅する危険のほうが、ずっと高いかもしれません。
国の舵取りを揺るがす問題が次々と起こり、暗い見通しはいくらでも立つ一方、共に目指せる幸福のイメージがないことに皆がうろたえているように見えます。共有可能な「幸福」に向けて、個人の自由を制限してでも時を巻き戻すべきと主張する人もいます。あるいは高度経済成長、家父長制の共同体や清貧を信仰する人も。しかしどの時点でも、その中ですり潰され、見えなくされてきた個人の幸福があったはずです。みんなが同じ夢を見ていたのではありません。
Photo by Evan Blaser(CC BY 2.0)
わたしはこの国に、もっと教育や研究にお金を注ぎこませたいです。役に立つかどうかすらわからない才能を、まわりが面白がって伸ばしてやれる国にしたい。今、個人の心が持つ起爆力を矯めないだけで、もう少し力を注げばあちこちで花火が上がって皆が元気になれるはずです。
わたしは、それぞれの幸福を見つける力、そのイメージを自分の言葉で語る力、自分とは違う幸福の形を認める力を次の世代にあげたいし、自ら行使します。自分と違う生き方をする人間に、心配の衣を着せた呪いをかけるようなことがありふれ過ぎています。人並みはずれた才能か情熱を持った人間しかその呪いを覆せない世界なんて、絶対に間違っています。
武力を誇示して生き残るのではなく、消えては惜しいと思われるような、自由によってのみ築かれる豊かさを持った、世界がまだ見たことのない複雑な幸福のイメージを持つ国になるために戦えないだろうかと思います。映画のようにわかりやすい敵はいないけれど、その戦いは日々の暮らしの中で、もうずっと前から始まっているのです。