沖縄にある、アメラジアンスクールを追ったドキュメンタリー番組を観た。英字で「Amerasian」、アメリカ人とアジア人の両親の元に生まれた子どもたちが通う民間の学校だ。親の離縁などの理由によって、基地を出て、この学校に通うことになった子供たち。煩悶しつつも、境遇としっかり向き合っている。
基地問題に揺れる沖縄を、基地から出てきた子どもたちにどう教えるか。アメラジアンスクールでは、日本の教科書とアメリカの教科書を比べながら、双方の捉え方を教えている。オリジナルで作られた教科書は「米軍基地を広げるために土地がうばわれたり、軍用機の事故に住民がまきこまれたりしました」と日本からの視点が書かれる一方で、アメリカの視点、「冷戦の中でソ連を封じ込めるためにいかに基地が必要だったか」についても伝えていく。
卒業を迎える女の子は、入学当初、「ハーフ」であることに戸惑っていたが、この学校で「ダブル」の考えを学んだという。彼女が卒業式で、在校生に向けてスピーチをする。
「私たちからのアドバイスは、自分の失敗から学ぶこと。お互い助け合って、自分自身になること」
Photo by 初沢亜利
「ハーフ」ではなく「ダブル」の視点――そしてそこから自分自身を得る。この思考をどれだけの人が持てているだろう。この領土はオレたちのものだ、とか、もう散々謝っただろう、とか、場所や状態をめぐって意見を投げ、「ハーフ」の取り分をめぐる議論を繰り返す。必ずや、あっちが得をしている、こっちが損をしている、と恨み合いが増長することになる。
いたずらに「国益」と「個人の利益」を比較すべきではないけれど、いたずらに「個人の利益」を排して「国益」を優先するべきでもない。けしからんと名指しをする国と、もっと謝れと指を差してくる国とがぶつかれば、やっぱり議論は「ハーフ」の取り分になる。その双方に、理解に到ろうとする「ダブル」の思考はない。
たとえば「中国のことを好きですか?」と問えば「嫌い」と答える人も、知り合いの中国人のことは嫌いではない。それを、特例としてはいけない。それは、実例である。とりわけ近年の外交は、そんな実例を真っ先に手放して特例にする。嫌悪感を普遍化させる。その上で議論のテーブルを用意すれば、椅子がこっちとあっちに置かれたまま、間にテーブルが置かれ、机上で取り分について争うことになる。
Photo by 初沢亜利
国家の在り方を提示するとき、どのように過去を清算するか、どのように未来志向で問うか、そのいずれかになりすぎていると思う。過去も未来も、今、その場に存在しないから、文字通り机上の議論となり、「益」の話になる。取り分の話になる。行き着く先は「ハーフ」の議論になり、やっぱり揉め事が起きる。
近頃、国際情勢が猛スピードで変転している。だからこそ、過去や未来ではなく、今起きていることにその都度対応していく視座を身につけなければいけない。その時に必要なのは、国益という茫漠とした主語ではない。集団的に自衛することよりも、個別的に対話することを、やっぱり諦めてはいけない。アメラジアンスクールの女の子のスピーチを借りるならば、「お互い助け合って、自分自身になる」べきなのだ。
こういう対話路線を示すと、「お花畑だな」と揶揄される。しかし、この戦後70年間、日本のあらゆるお花畑がたったのひとつも焦土にならなかったのは、かつての戦争の反省のもとに、対話してみる着想を少なからず保持してきたからではないのか。
Photo by 初沢亜利
アメラジアンスクールで、「ハーフではなくダブルなんだ」と破顔した女の子は、置かれた境遇を個別的な対応で乗り越えていた。国家と個人は違う。ならば、まず個人で考えるべきだ。その集積が、やがて国家になればいい。国益を薄めながら、個人を探し当てるべきではない。
「これまでの日本」や「この先の日本」を考えすぎるあまり、「今の自分」がどう考えるべきかを後回しにしてはいけない。過去をどうするか、未来をどうするか、ではなく、今どう考えるか。過去を見つめるために、未来を見据えるために、もっとも必要なことは、「ダブル」の視線で今の自分をこしらえ続けていくことではないだろうか。