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  • 論点
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戦後70年、日本は「世界非戦会議」を開催すべきである

  • 池田香代子 (ドイツ文学翻訳家・ 口承文芸研究家)
  • 2015年9月13日

この国が最後の戦争を終えてから、70年がたちました。戦後生まれは80%を超え、戦争を記憶している方は少なくなりました。とはいえ、誰しも周りを見回せば、戦争に人生を左右された方がきっとおられるでしょう。その一例として、わたし自身のことをお話します。

わたしの父は、3人兄弟の長男でした。戦争末期に召集され、小笠原諸島の父島で壕を掘っているうちに終戦になりました。次の弟は特攻隊員として、沖縄海域で死にました。末の弟は戦後、大学を卒業して商社に勤めました。


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そして敗戦から10年目、父は自ら命を絶ちました。もちろん、こんがらがった事情があったのですが、単純化するなら、父はすぐ下の弟のように戦争で死ぬことも、末の弟のように戦後を生きることもできなかったのです。父のような、時代のエアポケットに消えていった人々は、少なくなかったと思います。

父の死は、わたしには大きな出来事だったとはいえ、戦争の間接的な影響の、小さなエピソードでしかありません。戦争が直接もたらすもっとも深刻な悲劇は、殺されることです。日本人も殺されました。その数は、軍民あわせておよそ310万人です。そして、日本人に殺されたおよそ2000万人といわれる死者には、その数倍、数十倍のご遺族がおられるうえ、人生を狂わされ、心に癒しがたい傷を負った方々の係累はさらに膨大です。


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過去この国がしたことは、とりかえしがつきません。では、この国はなにをしたのか。それは、この国だけがしたのか。そう問うたからといって、どこの国もしたじゃないかという方向に話を逸らし、この国を免罪しようとするのではありません。ジュネーブ条約に忠実だったか、という議論をしたいわけでもありません。戦後70年にあたり、戦争というものを根底から問い直したいのです。

近代の戦争では、たがいになんの恨みもない人々が、ただ国が違うという理由で殺し合います。それを正当化するのが、国家の交戦権です。アメリカ合衆国は、独立戦争をへて誕生しました。近代国家フランスは、内外の王政支持勢力と戦った末に成立しました。近代国民国家は、交戦権がなければ、そもそも生まれることができなかったのです。それで、交戦権は国家固有の自然権とされて今に至っています。


Photo by The U.S. ArmyCC BY 2.0

しかも近代、兵士となって国を守ることが、一般の人々の義務になりました。これが当たり前ではないことは、前近代の戦争を考えればわかります。かつての王様同士の戦争では、命のやりとりをしたのは貴族や騎士たちだけで、軍勢の多数を占める傭兵は、なにしろ生業(なりわい)として従軍しているのですから、死んでは元も子もありません。できるところではたがいに手加減していたのが実情です。フランス国民軍がやたらと強かったのは、相手の傭兵軍を本気で殺しにかかったからでした。アメリカの国歌フランスの国歌は、いわば国民軍の軍歌ですが、血なまぐさいこと傭兵への蔑みと憎しみに満ちていることが特徴です。

とはいえ、傭兵のほうがましだった、という気はありません。なにしろかれらは、略奪を仕事の一環としていたのですから。けれど近代、人々は「国民」になったとき、新たな残酷さを身につけたことは事実です。それを美化する愛国心、救国の英雄、名誉の戦死といった価値を一般の人々が背負わされたのは、ですから、人類史の中のたかだか200年ちょっとでしかありません。

兵士になる男性が一級市民、銃後の女性は二級市民というのも、近代国民国家ならではの序列です。けれど、一級市民とおだてられたのとは裏腹に、男性の命がまさに鴻毛(こうもう)のごとく軽くなったのも近代です。それは、第一次世界大戦で頂点にたっしました。科学技術が進んで大量破壊兵器が出現し、兵士を大量に虐殺したからです。


第二次世界大戦では、生産手段や労働力を戦力そのものとして攻撃目標とする、総力戦という考えのもと、命の軽さに戦場と銃後、男性と女性の差はなくなりました。年寄りや子どもの命も、奪われることになりました。これは現代の戦争でも同じで、おびただしい非戦闘員が殺傷されています。かつての戦争との違いは、主に先進国で女性の兵士が増えていることです。今や女性も、殺されるだけでなく殺す立場に立っているのです。


Photo by Hyun LeeCC BY 2.0

こうして見ると、人類はどんどん野蛮になっているようです。けれど、そうでもありません。70年前、国連がその憲章前文で、対ファシズム戦勝利を自賛するのではなく、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍」と、みずから当事者として関わった戦争そのものを否定的にとらえたことに、わたしは光明を見ます。

そして日本のわたしたちは、国連憲章の精神そのままに、「国権の発動たる戦争……を放棄する」(日本国憲法9条)という、近代国民国家であることを否定するような掟を、みずからの国に課しました。

なのに現在、わたしたちは自衛隊という世界有数の軍事組織をもっています。それどころか、国外に武装派遣もしています。

にもかかわらず、と、またしても逆接なのですが、今までかれらに他国の兵士や市民を殺させたことも、自衛隊員が殺されたこともありません。それは、幸運に恵まれた面もありますが、世論を重んじた慎重な政治判断のおかげもあったでしょうし、自衛隊の人々の高い練度と、憲法を踏まえた自重のたまものでもあったと思います。

今さら自衛隊を否定はしないけれど、せめて殺さない、殺されない自衛隊であってほしいというわたしたちの無理難題が、現実に何十年もずっと叶えられているのです。これは奇跡です。軍事力を強めながら非戦の思想を70年かけて血肉とした人々の国というこのあやうい矛盾は、近代史の奇跡です。


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そんな日本が縁の下の力持ちとなって「世界非戦会議」を開催する、というのはいかがでしょう。たとえば10年ごとに、過去10年の間、対外戦争も内戦も免れた国々の政治家、軍人、外交官、研究者、文化人、ジャーナリスト、NGO活動家、経済人、そして子どもたちが集い、非戦の世界をつくるにはどうしたらいいか、戦争から抜け出せない国々にはどのような支援ができるか、話し合うのです。

そこでは、目下焦眉の問題であるテロとの戦いとは、テロリストを武力で殲滅することではなく、テロリズムを生む社会問題を取り除くことだという、日本が官民をあげた実践の中で培ってきた「人間の安全保障」という考え方が、大いに役立つでしょう。


その財源としては、国際金融取引税の実現や、すでに実績のある国際航空連帯税の拡充が、真剣に話し合われるでしょう。それらに消極的な日本には、厳しい注文がつくでしょうが、それにたいし、わたしたちは真摯に耳を傾けるべきです。

非核兵器地帯は、すでにこれを宣言した116カ国のほか、南極、宇宙、海底と、世界の大半に広がっていますが、宣言国からの参加者は名誉ある分科会を開き、この宣言をすべての非核保有国に広げるべく討議を深め、核抑止論がすでに無効であることを示すでしょう。ここでも日本には、なにしろアメリカの核の傘に守られていると信じているのですから、するどい批判が飛ぶでしょう。

また会議は、関係の悪い国々の仲介外交を研究する場ともなるでしょう。じつは、ミドルパワーでありながら70年も戦闘行為に及んだことのない日本ほど、その任に適した国はないのです。参加者からは、日本は平和をめざす世界にとってかけがえのないカードになれるし、なるべきだ、という叱咤激励がなされるのではないでしょうか。

そして、子どもたちがまとめる提言は、次回の会議のテーマに生かされるでしょう。


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戦争のない世界は、たとえばカントの『永遠の平和のために』(1795年)や、パリ不戦条約(1928年)が希求したように、連綿と続く人類の悲願です。すべての国が交戦権を手放し、あるいは極小化しても安心できる世界という人類史的な目標をたて、その具体的な道筋を探るこの会議は、近代国民国家の宿命ともいうべき戦争、すなわち人々同士の殺し合いを、人々が主体となって国際世論を形成し、克服するための道しるべとなると、わたしは確信しています。


Photo by U.S. ArmyCC BY 2.0

著者プロフィール

池田香代子
いけだ・かよこ

ドイツ文学翻訳家・ 口承文芸研究家

1948年東京都杉並区生まれ。東京都立大学では独文学科に進み、翻訳のアルバイトを始めた。1976年から78年まで、エアランゲン大学(旧西ドイツ)に留学。その間に、グリムのメルヒェンと出会う。1981年に東京に戻り、いくつかの大学などでドイツ語の非常勤講師をしながら、翻訳やグリムメルヒェンの研究を続ける。2001年3月、デスクワークに専念するため、早稲田大学を辞した。同年9月11日にアメリカで起きた大惨事を受けて社会に目を向けるようになり、静かな書斎生活は幻に終わった。現在は、世界平和アピール七人委員会メンバー、持続可能な開発のための教育の10年推進会議(ESD-J)顧問など。主な訳書に『グリム童話集』(全5巻)『エーミールと探偵たち』『ソフィーの世界』『夜と霧』『やさしいことばで日本国憲法』。主な著書として『世界がもし100人の村だったら』。

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