政権選択ができないもどかしさ
今回の衆議院選は、はっきりいって、安倍自民党の勝利だ。
鳴り物入りで登場した希望の党は、小池百合子のむき出しの権謀術数と、旧民進党議員の「自分の議席ファースト」の振る舞いゆえに、急速に勢いを失いつつある。
このドス黒さにくらべ、新興の立憲民主党は、旧民主・民進党時代の負の遺産を覆い隠さんばかりに、白く光ってみえる。じっさい、各種の世論調査でも支持は少なくないようだ。だが、いかんせん、立候補者の数が少なすぎて、倒閣には物足りない。
立候補者の数については、日本維新の会も大差ない。共産党は数こそ多いが、これで議席を大幅に増せるとは、立候補している当人たちさえ思っていないだろう。そのほかの野党勢力は見込みが薄いので、申し訳ないが省略させていただく。
政権選択の選挙なのに、そうなっていない。「国難突破解散」などばかばかしいと思っているのに、長期政権の驕り高ぶりに喝を入れたいと思っているのに、すでにして安倍晋三は凱歌を奏している。なんとももどかしい。
Photo by Chairman of the Joint Chiefs of Staff (CC BY 2.0)
目の前の酷い現実を直視せよ
こういうと、「結果はまだでていない」との反論もあるかもしれない。たしかにそうだが、現実をみることも重要だ。
太平洋戦争の末期、日本の軍人たちは「たられば」で勝利の希望を語った。ここでこう作戦がうまくいけば、アメリカの機動部隊を撃滅できる……と。可能性のレベルではそうなのかもしれないが、それはそれとして、現実には望みが薄いと判断し、「ではどうするか」と考えることを放棄してはならない。
まして、「若者が戦場で必死に戦って血を流しているのに、水を指すのは非国民だ」式に、現実的な思考を封殺するのは正気の沙汰とは思えない。
棄権や白票にたいする過剰な批判についても同じことがいえる。選挙協力の結果、小選挙区によっては、ろくな候補者がいないケースさえある。「お灸をすえる」などと称して、死に票を投じるのは個々の自由だが、それを他人に強い、従わなければ罵るというのは筋違いではないか。
Photo by Nelo Hotsuma (CC BY 2.0)
私自身は投票にいくけれども(と言い訳しなければいけないのも息苦しく情けないが)、棄権したくもなる、目の前の酷い現実をまずは直視しなくてははじまらない。
「反アベ」連呼に未来はあるのか
太平洋戦争中に海軍兵学校の校長をつとめた井上成美は、日本の敗戦を見越し、戦後の復興に役立つ人材の育成に努めていたという。
今日、かれをシニシズムの敗北主義者と罵るものはいない。このひそみにこそならうべきである。
なにより目先の選挙だけで消耗するのは避けなければならない。「反アベ」連呼のさきに未来はあるのか。荒唐無稽な陰謀論のたぐいにすがりつくなど、まったく論外だ。
「反アベ」連呼のさきに未来はあるのか。
改憲についても、柔軟に考えてみたほうがよい。権力を縛るという立憲主義の本義に則れば、時代の変化に応じて憲法を見直すというのは、けっして狂信的なナショナリストの専売特許ではあるまい。
政治との関わりはなにも選挙だけではない。長期の視野に立ち、イデオロギー的な動員に走らず、改革を進める、現実的な選択肢を育てることが求められる。
イデオロギー的な動員に走らず、改革を進める、現実的な選択肢を育てることが求められる
今回、即席のポピュリスト政党が失速したのは悪いことではなかった。
ただ、もう少し時間が必要だ。このたびの選挙で「選択肢がない」と嫌気がさしたならば、SNS上で一時的に騒ぐだけではなく、現実の社会とつながるかたちで声をあげつづけなければならない。長期的に、なんどでも、たとえ選挙が終わっても、あらゆる手段を使って。
長期の視野にたって投票を
さはさりながら、目の前の選挙には一応行ったほうがよい。そこで、投票でも長期の視野に立つことをお薦めしたい。
与党/野党だからといって、すなわち正常/異常とは限らない。ブームにのって「愛国」や「反アベ」の記号を叫んでいるだけなのか。それともまじめに物事を考え、今後も長きにわたって柔軟な行動ができるのかどうか――。
ブームにのって「愛国」や「反アベ」の記号を叫んでいるだけなのか。それともまじめに物事を考え、今後も長きにわたって柔軟な行動ができるのかどうか――。
こういうと重苦しく感じられるが、素人判断でかまわない。そもそも世界や社会全体の専門家などいない。投票箱の前ではだれもが素人だ。
いずれにせよ、今回の選挙はどうしようもなく酷い。安倍政権にとっても、勝ったにもかかわらず、依然として支持率は低い、後味の悪いものとなるだろう。
だからこそ遠くを見なければならない。さもなければ、不毛な消耗戦の果てに、目先の動員だけを考えた、より狡猾で、有権者を愚弄しきったポピュリストが登場するにちがいない。そのときの絶望感は、今日の比ではないはずである。