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【総選挙2014】それでも投票所で候補者の名前を書かねばならない

  • 宮台真司 (首都大学東京教授)
  • 2014年12月10日

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今日の「保守」の意味を理解せよ

11月21日に衆議院が解散した。安倍総理は、「増税先送りを問う選挙」だと言っていたと思ったら、3日後には「アベノミクス選挙だ」と言い出した。集団的自衛権容認に向けた憲法解釈変更の閣議決定特定秘密保護法武器輸出三原則緩和などが争点となり得る中、アベノミクスだけが問われるという論点操作の目的は明らかだという他ない。

挑戦を受けているのは国民の公民としての民度である

ここで挑戦を受けているのは国民の公民としての民度である。それに関連して、今回の解散を別の面で象徴するのは、議長が「御名御璽」と言いかけた時点で万歳が始まったこと。議長の伊吹文明氏も苛立ちを隠せなかった従来稀な珍事である。天皇が関わる公示と単なる告示の区別も付かない政治家が保守を名乗る現状。それが意味することは何か。

ここには保守概念の混乱がある。今日では「社会保守」「政治保守」「経済保守」「宗教保守」を区別する必要がある。エドマンド・バークの保守主義 にせよ戦前の亜細亜主義者にせよ本来の保守は「社会保守」だ。バークであればフランス革命の混乱から社会を保全すること、亜細亜主義者であれば列強の侵略は因より単純欧化主義から社会を保全することが目標とされた(1)

ところが今の自民党は「経済保守」と「社会保守」の混合だ。沖縄知事選で勝った翁長雄志氏が沖縄らしさの保全を唱ったが、これは沖縄の「社会保守」と本土の「経済保守」が両立しないという主張に当たる。翁長氏が自民党を離脱したのを「保守の裏切り」と騒ぐネトウヨ周辺だが、「社会保守」と「経済保守」を識別できない愚昧は、社会が空洞化すると出現する「政治保守」にはよくある

戦後20年はトマ・ピケティ21世紀の資本論』が言う通り経済成長率が資本利益率を上回った特殊な時期で、経済成長で膨らむ中間層を背景に「経済保守」が「社会保守」を含意した。それがグローバル化のせいにより中間層が分解。「経済保守」が社会の劣化を招いて「社会保守」から乖離し、社会の劣化に伴う〈感情の劣化〉で排外主義の「政治保守」が肥大した。それが昨今だ。

アメリカであれば、社会の劣化がもたらす不安と鬱屈が、排外主義的「政治保守」だけでなく原理主義的「宗教保守」を招き寄せる。進化論否定や中絶絶対反対で知られるものだ。日本ではこうした宗教保守は影響力を持たない。ちなみに「政治保守」と「宗教保守」は、単なる排外性を超えて、敵を悪魔視したり、全ての悪が敵に由来すると見る帰属処理に於て、共通している。

「経済保守」のふりをする「政治保守」

安倍首相は第2期1年目で専ら「経済保守」として振る舞ってみせた後、2年目に特定秘密保護法案の掲出や憲法解釈変更の閣議決定など”戦後レジームを終らせる“「政治保守」の正体を現したかと思ったら、選挙になると「景気回復、この道しかない」と再び「経済保守」を“演じる”。その意味でこれを「アベノミクス選挙」だと理解し喧伝するのも政治的バイアスが掛かっている。

タイミングも考察しなければならない。第一に、松島前法務大臣小渕前経産大臣の不祥事で支持率に陰りが出たのを吹き飛ばす機能。第二に、当初は消費増税延期への信認を問うとの形で、2期連続のGDP速報値のマイナス値でアベノミクス失敗を問われかねないのを「増税が悪かったのだ、アベノミクスは悪くなかった」という帰属処理させる機能。この二つが見出せよう。

増税先送りは「社会保障改革を18カ月停滞させます」と宣言したのと同じ

タイミングについては、後者に関連する別の要素もある。エコノミストの一部が点検会合で消費税増税について議論を重ねている中、本当に増税が経済停滞の原因なのかの分析結果が出る前に総選挙となった。また実質所得減少が続く中、消費増税に固執する民主党も、自民党内の増税固執派も、変節しないと選挙を戦えない。明らかに議論封じの機能が働いている。

二段階増税に関する三党合意は実は「三位一体の社会保障改革」への合意だから、10%増税先送りは「社会保障改革を18ヶ月停滞させます」と宣言したのと同じだ。年金改革を核とする社会保障改革は、8%増税で疲弊した低所得者向け手当という再配分機能を持つ。三党合意を踏まえるなら「そのために必要な増税だ」と主張するのが筋だ。政治が激しく劣化している。

増税延期への信認を問う選挙であればまだそうした議論の余地があり得たものの、アベノミクスの是非を問う選挙だと論点が移動されたために、やはり議論封じの機能が働いている。すなわち今回の解散・総選挙の背後には〈不祥事吹き飛ばし〉機能〈経済政策でなく増税が悪かったとする帰属処理〉機能〈増税の是非をめぐる議論の封殺〉機能が明確に働いている。

経済政策を評価する際の注目点

むろんアベノミクスの是非を問うのも大切だ。政権側は100万人以上の雇用増、有効求人倍率22年ぶり高水準、2%以上の給料アップ、高卒大卒の内定率上昇などを挙げる。批判側はGDPの減少、実質所得の減少、円安による物価高と一部企業の収支悪化正規雇用減少(雇用増分は非正規)財政規律弛緩を問題視する。どちらをリアルだと感じるかの評価を示す機会だ。

むろん一般国民にはその評価は難しい。私は社会学者だから経済指標よりも社会指標に注目する。その場合にポイントになるのは政権周辺が語るトリクルダウン・セオリー——グローバル化に棹さして有力経済主体が富裕化すればやがて底辺にまで恩恵が及ぶ——を信じるか否かだ。ちなみにグローバル化が進行した過去20年間、トリクルダウンを実証する事実は、ない

経済プロパーの話であれば、成長戦略(第3の矢)なき金融緩和(第1の矢)と財政出動(第2の矢)は、既得権益者を身軽にするものの潜在成長率を上昇させず、短期の差益を狙う外人投資家らによる株価上昇はあれ、長期的展望が開けない。財政状況を考えれば、遠くない将来における財政の死を意味する。成長戦略とは技術革新による産業構造改革をコアとする。

我々は、アベノミクスがうまくいくという事態が、短期的のみならず長期的に何を意味しているのか理解しなければならない

我々は、アベノミクスがうまくいくという事態が、短期的のみならず長期的に何を意味しているのか理解しなければならない。確認すると、3本の矢の1本目が「デフレマインド払拭の異次元金融緩和」、2本目が「総需要拡大のための機動的な財政政策」、3本目が「民間投資を喚起する成長戦略」だが、3本目の潜在成長率を上昇させる産業構造改革はほぼ手つかず。

また第3の矢には、技術革新を支えるための教育や、社会の全領域から才能を動員するための機会の均等化や、生産人口確保のための少子化対策も含まれる。こうした問題を見逃して、短期の株価にだけ反応してアベノミクスを評価するのでは、国民的な自殺行為になる。我々はまだ、金融政策と財政政策しか見ていないが、成長政策を欠くなら、その意味は明瞭である。

その意味とは、経済団体の上席メンバーや投資家の特殊利害への貢献を専ら配慮することで、短期の株価上昇を通じて政権を長期につなぎ、本丸の「戦後レジームから脱却」を獲得するということ。つまり、アベノミクスは所詮は小児病的な「政治保守」の貫徹手段に過ぎず、「経済保守」としては持続可能性を欠く半端なものであっても目的が達成されるということだ。

「大義なき選挙」をめぐる逆説

「大義なき選挙」であることが、歴史的な低投票率を招きそうな状勢だ。安倍政権側に不利に働くと予想される無党派層が、各種調査で投票所に行かないだろうと予想されるようになったことで、公示日前には自民党が議席を20以上減らすという各社の読みが、一挙に議席増の予想に変じた。この予想が「予言の自己成就」的に、無党派の投票不参加を招く可能性がある。

ラジオなどで少なくとも5回は繰り返したように、「大義がないと思うから選挙に行かない」のであれば、大義のない選挙を仕掛けた陣営の思い通りになりがちだ。そこに逆説がある。大義のないことについての抗議の意思を選挙で表明しない限り、いつも大義のない選挙を仕掛けた者勝ちだ。それを回避するには投票所で白票ではなく候補者の名を書く必要がある。

ちなみに日本の場合、白票は白票として数えられることはなく、単に無効票としてカウントされてしまう。抗議の意思表明と単なる書き間違いが一緒くたに集計されるので政治的メッセージとして解釈されることはない。学生からもしばしば候補者選択肢の乏しさを相談されるが、「敵の敵は味方」という言葉を思い出してでも、投票所で候補者の名前を書く方がよい

最後に再確認する。国民は「税金を上げなければ票が入る」「大義なき選挙を仕掛ければ投票所に来ない」と高を括られるだけの民度の低い存在か。それとも、「本当は上げなければならない税金を上げないのはなぜか」「大義なき選挙の意図は何か」と考えられる存在か。選挙で民度の低さが証されたら、我々の将来にはより大きな暗雲がたれこめることになる


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<注>
(1) ここでは右と保守を区別しない。区別しない立場はフランス革命に遡り、枠組や体制を守る立場と、枠組や体制の変更を迫る立場の対比になる。図式は相対的で、例えばソ連崩壊時には共産党内部に、保守=従来の共産党独裁体制の維持を図る立場と、革新=資本主義や民主主義の取り入れを図る立場が区別された。他方、右と保守を区別する場合は古代ギリシャに遡る必要がある。その場合シュライエルマッハによれば、右=主意主義、左=主知主義となる。相対的ならぬ絶対的図式である。これとは別に、バークからポッパーに至る流れでは、保守=理性の限界を意識する反設計主義(漸進改革主義)革新=理性を信頼する設計主義となる。これも相対的ならぬ絶対的図式だ。理性の限界を意識する作業はカントによれば理性的だ。その意味でバーク流保守主義は主知主義で、現にマンハイムはそう理解した。これに対して主意主義は、理性的に説明できない端的な意志を肯定する。端的な意志はミメーシス(感染的摸倣)を引き起こす。いわば情動の連鎖だ。反省的にみれば、情動の連鎖を支える社会的前提があり得、それを保全しようとする立場を保守と規定する仕方もあり得る。この場合、右と保守とが別概念でありながら接続する。私自身は「平時にはバーク流保守主義者で、非平時にはシュライエルマッハ流右翼=主意主義者だ」と自己規定する。ちなみに本文で区別した4つの保守(右)は、保守されるべき枠組や体制の種別に注目したものだ。

著者プロフィール

宮台真司
みやだい・しんじ

首都大学東京教授

1959年、宮城県生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(社会学博士)著書に『権力の予期理論』(勁草書房)、『日本の難点』『私たちはどこから来て、どこに行くのか』(幻冬舎)『14歳からの社会学』(世界文化社)『〈世界〉はそもそもデタラメである』(メディアファクトリー)、『制服少女たちの選択』『まばろしの郊外』(朝日文庫)『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)など多数。

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