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【総選挙2014】リスクを語らない政権の危うさ

  • 柳澤協二 (元内閣官房副長官補(安全保障担当))
  • 2014年12月11日


Photo by Dick Thomas JohnsonCC BY 2.0

議論を経ずに政策が決められてしまうことこそ最大のリスク

「どうやって安倍政権の暴走を止めるのか?」。与党の圧倒的優勢が伝えられる中でも、集団的自衛権への関心は高く、いくつかの講演に呼ばれて話をしている。その中で、必ず出てくる質問だ。

私は、「地方議会も含め、一つ一つの選挙で少しでも与党の議席を減らしていくことで、やがて与党内部の政権批判が出てくる、それが一番の近道だ」と答えてきた。野党が信頼を失い、対案を示せない状況では、与党においてバランスの取れた議論をしなければならない。それができるのであれば、政権が何党であってもかまわないと思っているからだ。

しかし、国政選挙には、さまざまな要因があって、思うようには行かない。だが、勝ちすぎは慢心を生み、健全な議論が失われることによって、自壊のリスクを高めるという「戦略のパラドクス」がある。それは、株価の乱高下といった、ちょっとしたきっかけで起こり得る。議論のない政権は、それだけ危ない。やがて潮目が変わるのは世の常だ。

安倍政権の特徴は誰も反対できないシンボルを使った世論誘導にある

なぜ議論がないのか。安倍政権の特徴は、「米艦に乗った日本人の母子を守らなくていいのか」というたぐいの、誰も反対できないシンボルを使った世論誘導にある。それと「集団的自衛権」とはもともと論理的には無関係なのだが、シンボルによってその議論をスキップしてしまう。「日本人の母子」は、民航機が飛んでいるうちに返すのが政策のあり方だ。わざわざ攻撃を受けるおそれがある軍艦に乗せるまで手をこまねいていたとすれば、それは危機管理の失敗だ

7月1日閣議決定後の集中審議でも、「アメリカへの攻撃で24人の日本人が殺された911テロは、集団的自衛権の要件に該当しない」との総理答弁があった。では、「米艦に乗った日本人母子」となぜ違うのか。「集団的自衛権限定容認」は、既に論理的に破綻している。


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なぜこうした混乱が起きるのか。それは、シンボルとなるキーワードに定義がないからだ。集団的自衛権の要件である「外国への攻撃によって国民の生命・自由・幸福追求の権利が脅かされる」というが、その実態が説明されない。積極的平和主義」も、何度となく使われるが、「積極的平和主義」とは何かが定義されていない。だから、議論しようにも、話がかみ合わない。

数の力で法律は作れても、国民の心を変えることはできない

アベノミクスも同じ。「デフレ脱却にはこの道しかない」と言うとき、「この道」とは、際限ない金融緩和で市場をうるおし、国の借金を増やして株価を上げること、円安が進んで消費が一向に上向かないことを意味している。国民の手取りが増えなければ消費は低迷し、国の借金は増え、ハイパー・インフレと国債暴落で経済破綻に至るリスクがある。だが、「この道しかない」のなら、議論する必要もない、ということになってしまう。

集団的自衛権で抑止が高まり日本が平和になる」という話も、これと同じ論理構造をもっている。「米艦を助ければ抑止力となり、抑止力が高まれば相手は日本を攻めてこない」ということだが、抑止とは、相手に耐えがたい損害を与える能力と意志があって成り立つ。日本がその能力と意志をもつことを公言すれば、相手も負けじと能力と意志を高め、戦争当事国となる日本を攻撃する動機を高める。抑止には、そういうリスクがある。それを防ぐには、中国を上回るペースの軍拡が必要となるはずだが、その説明はない

定義のない政策には、リスクを認識する余地がない

定義のない政策には、リスクを認識する余地がない。安倍政権の最大の特徴だ。今回の選挙によって安倍政権は、そのリスクが顕在化する前に数による政権基盤を固めることになる。安倍政権は、念願の憲法改正に向けてまい進するかもしれない。だが、議席数は、政策に内在する客観的リスクを低減するものではない。まして、数の力で法律は作れても、国民の心を変えることはできない。安倍総理が言う「この道」に、国の将来はないという現実は変わらないからだ。


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著者プロフィール

柳澤協二
やなぎさわ・きょうじ

元内閣官房副長官補(安全保障担当)

1970年東京大学法学部卒とともに防衛庁入庁、運用局長、人事教育局長、官房長、防衛研究所長を歴任。2004年から2009年まで、小泉・安倍・福田・麻生政権のもとで内閣官房副長官補として安全保障政策と危機管理を担当。現在、NPO国際地政学研究所理事長。

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