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【総選挙2014】「選挙なんか行っても無駄」じゃないいくつかの理由~この一票で変える、のではなく、「この一票で変わる」と思える社会を作り出すために

  • 北田暁大 (東京大学准教授)
  • 2014年12月9日


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ビッグデータが神話を壊す?

興味深いデータがネットで話題となっている。Yahoo!ビッグデータ議席予想だ。

Yahoo! Japanは、2年前、2012年の衆議院選挙において、Yahoo!での検索数と獲得議席数がかなりの確率で適合したことを受け、その後の参院選で予測に臨み、92%の的中率を得たとしている。そのYahoo! Japan チームが、今回の衆議院選挙について「50%台前半の投票率だった場合は、自民党が300議席」「60%前後の場合では、自民党はさらに議席を伸ばして311議席」という予測を提示した。もしこれが「的中」するなら、「投票率が伸びれば自民に不利」という神話が突き崩されることになり、「投票率の低い若者が選挙に行ってくれれば、保守政党にお灸を据えられるのに」という左派陣営の望みもご破算となる。頼みの綱のサイレント・マジョリティが政治地図のなかでどこにいるのか、あらためて考える機会を与えてくれるデータである。

とはいえ、私自身はこのデータ、2012年、13年のものも含め現段階では過信は禁物だと考えている。なにしろ、Yahoo! で検索する人たちの属性の偏り、つまり30~40代の中年層が多く、女性比が小さい、というYahoo! 検索ユーザの特性は、実際の投票に際しての属性分布と大きく異なっているからだ。

公益財団法人 明るい選挙推進協会」データでは、2012年の衆議院選での投票率は、明白に高齢者ほど高く(30~40代よりもボリュームゾーンの50代以降のほうが高い)、どの世代に関しても大きな男女差はみられない。選挙期になると突然50代以降の高齢層や女性が政治絡みの検索を始める、という不可思議な事態がない限り、先のビッグデータは有権者や投票者という母集団のあり方を反映したものとは考えられない。

もちろん、Yahoo! 調査のキモは、過去の各党別得票数から今回の各党別得票数を推計する際に、検索量をモデルに組み込んでいるという点にあるので、母集団との対応はそれほど重要ではないと推察される。ただ仮に精度の高い推計モデルができたとしてもそのモデルの持つ意味を理解することは相当難しいように思われる。この点は、Yahoo! サイドが分析を進めているものと思うが、現段階では「風が吹けば桶屋が儲かる」的な疑似的な関連を示している疑いを拭い去ることはできない。高齢層と似た政治的傾向を持ち、インターネット使用頻度の高い男性・中年層が、選挙期間中に政治絡みの検索数を押し上げ、ネット使用率の低い高齢層の政治志向を数字に反映させ、何らかの「相殺」がなされ、結果的に予測が的中しているだけかもしれない。このあたりの事情が分からないと、推計モデル自体の妥当性を評価することはできない。「とにかく当たりゃいいんだよ」というのは、あまり誠実な態度とはいえないし(Yahoo! がそうだと言っているわけではないですよ!)、有名なリテラリーダイジェストギャロップの選挙予測のたどった失敗の歴史を考えると、もう少し慎重に考えてよいだろう。

この辺りは政治学者、選挙研究者が研究を進めていると思われるので、これ以上の言及は避けるが、ともあれ、高投票率が「野党の夢」である可能性に懐疑を差し込んだ、という意味では思考のトレーニングとしては面白い数字ではあった自ら「白票か棄権」と宣言している作家、批評家の東浩紀氏が、このYahoo! のデータを元に「投票率が低いと与党に有利、安倍政権打倒のために投票率をあげようという運動の前提の誤り」を指摘しているが、「誤り」と断定するにはいささか頼りない推計方法に基づくデータであり、言い過ぎであるようにも思うけれども、それはそれ。非投票のサイレント・マジョリティを当てにしすぎるのもいかがなものか、という問題提起になっているとは思う。棄権、白票は自分たちのものだったのに……という野党の甘えた態度は批判されてしかるべきである。

「究極の選択」を選択する


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わたしは切実に「若い人に投票に行ってほしい」と願っている

ではお前はどう考えるのだ、と言われれば、わたしは切実に「若い人に投票に行ってほしい」と願っている。

もちろん、かりに多くの20~30代の若い人たちが投票したとして、その票が反自民に流れるとは思っていない。「自民以外といったってどこに入れればいいんだ」「だいたい民主候補のいない選挙区だってある」という不満はわかる。わたしの住んでるところも団扇辞任の自民候補者と民主に出戻りの候補者と共産候補だけ。どれにする? と言われも困ってしまう。

結果はどうでもいい。「選択」する自由を行使して、政治家が若者の票を気にせざるをえないような投票率を達成してほしい

そういうときは、大げさなスローガンや党首の名前をいったん忘れて、個別候補者の、若いみなさんへのメッセージをよく読んでみて、選択してみてほしい。「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか」と言いたくなるかもしれないが、そこは抑えて、自分たちにとって身近な生活にどれだけ候補者のまなざしが向けられているかチェックし、「選択」してほしい。結果はどうでもいい。「選択」する自由を行使して、政治家が若者の票を気にせざるをえないような投票率を達成してほしい。正直、いまの投票率だと、若いみなさんの票なんて与野党問わず、政治家は気にしなくていいぐらい低い。超舐められている。選択結果(だけ)が重要なのではない。「選択するという選択=意志」を被選挙人に明示化することが大切なんだと思う。

と、えらそうに言ってはいるけれども、わたし自身若いころは「棄権」をしていた。「どうせ変わらない」という諦念と、「本当の政治は、議会の外にある」というフーコーを読みかじった(全然読めていない)思想青年のスノビズムが、そうさせていた。だから全然えらそうなことは言えない。しかし、90年代の若者がおっさんになって、あらためて思うのだ。「若者は本当にこの社会で舐められている」と。

若い人の投票率が低いのは、昔からのことで、せっせと投票所まで足を運ぶ高齢者も、説教垂れる中年世代も、みんな若いころは投票率は低かった。逆にいうと、社会的動物としての人間というものは、悲しいかな、年を取るとしがらみもできてくるし、自分がたどってきた人生を肯定したい、権力に近いところにいると自己認識することで若い人たちに威張ってみたくなる。そうするとおのずと「保守」的な政治態度になっていく。若者にとっての将来を見据えるよりは、自分の定年延長や年金の確保を優先し、目先の利益に敏感になる。体の自由がきかなくなるわけだから、それを責めても仕方がない。社会の複雑性を縮減するために自分の認知地図を変えるのはしんどい。田舎にいくと「○○さんとはお友だち」「××ちゃんも偉くなって」みたいな郷土愛と自尊心が混じったような感情が投票行動を促す。若いみなさんだって、年を取ればそうなります。悲しいけどこれ現実なのよね、というやつだ。

わたし自身も若いころ、「何も変わらない」と思っていたし、議会制民主主義の限界を感じ、棄権していた。しかし、それは「放っておいてもなんとかなる」という社会の未来への楽観が可能にしていた態度だ。大学生の時、バブルが完全にはじけた。就職氷河期が訪れたが、大卒男性のわたしにとってさほどの影響はなかった。数年たてば持ち直すだろう、という無根拠な予想もあった。

重要なのは、若者が「選択する人たち」として認識されること、恐れられること

しかしいま、政治の場で問われていることは、切実に現在の若い人たちの将来にかかわっている。一見政治とは関係なさそうな私的な事柄、たとえば、就学や就労、恋愛や結婚、子どもができれば子育てやライフ・アンド・ワークバランス、高齢者介護。友人や地域社会との関わり方もドラスティックに変化していくだろう。そうした「個人的なこと」がまさにいま、問われている。これは90年代半ばの状況とは大きく違っている。こういう大切なことが、投票率の低い若いみなさんを「舐めた」政治家たちによって決められていく。繰り返すが、与党に入れようが野党に入れようが、選択結果はどうでもいい。重要なのは、若者が「選択する人たち」として認識されること、恐れられることだ。


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わたしの同世代をみていてつくづく思うのだが、どんな明晰なひとでも「体験しないとわからない」ということが意外なほど多い

たとえば子育て。ネットでベビーカーの話は鉄板の盛り上がり素材だが、ああいう子育ての大変さを理解するには当事者になってみないとわからない、という人は少なくない。地域社会からの断絶も「学校」から離れてみてはじめて分かるかもしれないし、「就職活動で初めて女性差別を感じた」という言葉もしばしば耳にする。そしていまみなさんが月に使える(たとえば)15万円は、40歳のときのそれと全く異なる意味を持つ。いま、さして切実に感じることのない私的な事柄が、財政が逼迫し、体感景気が芳しくない現在において、みなさんの顔が「票」にみえない人たちによって決められていく。舐められっぱなしだ

自律としての自由 舐められっぱなしじゃ腹も立つ

もちろん、現在の日本では投票を棄権することは、有権者の自由な判断に任せられている。棄権もまた自由である。しかし、それは、「複数ある選択肢から選択する」という意味での積極的な自由ではない。かりに、あなたが拳銃を突きつけられて銀行のATMで慈善団体に寄付したからといって、それは結果的に貧しい人たちの厚生を改善したという点で「善いこと」かもしれないが、自由な選択であったとはいえないだろう。同じように、子どもの頃から親の言うままに進学、就職、結婚したとして、それは選択としての自由を行使したといえるだろうか。「なんでもいいからA高校に行きなさい」といわれたとき、結果的にA高校に進学したとしても、A高校以外の選択肢を考えた場合とそうでない場合とでは、まったく意味が異なる。投票するということは、限られた(しかも貧しい)選択肢であっても、親に対して「B高校やC高校も就職もいいかもしれないから、それも考える」と言い返すことと同型のことだ。選択する主体として自分を親・大人に認知させること、それが自律としての自由である。

棄権や白票は、たしかに「まともな候補者がいない」「野党がふがいない」ということを勘案した場合、選択の結果だといえる。しかし、それは「議会制民主主義を否定する」というラディカリズムでもないかぎり、「選択しない主体」としてみられること、舐められることを甘受する、ということでもある。


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人生のなかでは、政治以外の領域でも、どうしようもなくアホらしい選択肢しかないのに選択を迫られるということがままある

バカボンのパパより年長になってしまったおっさんのぼやきではあるが、人生のなかでは、政治以外の領域でも、どうしようもなくアホらしい選択肢しかないのに選択を迫られるということがままある。まともなメニューを出さない店主も悪いが、主権者たる有権者は「お客様」じゃないのだから、「美味いもんださんかいゴルァ」と騒いでいても仕方がない。選択肢が貧しい。そういうときにお父さんやお母さんや先生のアドバイスを待っていたら、それこそアホっぽいではないか。

選択肢がないと嘆くのではなく、粘り強く選択し続けることによって、選択肢そのものを変えていくことができるかもしれない。政治を育てていく、という重要な民主主義へのかかわり方だ。いまの若い有権者のみなさんは、投票することによって、将来の有権者たちに、今とは異なる選択肢を受け渡すことだってできる。このまま加齢して、「選挙のお客様」として、しがらみと小さな自尊心、目先の利益に突き動かされていくのか、それとも、後続する世代のために「若者が舐められない」政治を作り出していくのか。相対的にしがらみの少ない若いみなさんが、自律としての自由を行使することによって、後続世代の自由の幅を大きくしていくことは不可能ではない。

われながらこんな説教じみたことをいうようなおっさんになるとは思わなかったが(20代のわたしが聞いたら絶望しているだろう)、ヘイトスピーチが充満し、奇妙な「女性の活用」が謳われ、左派の論者が「低成長成熟」や「お金持ちの老後の過ごし方」を説いたりしている現状は、本当にまずい。右も左も上も下(?)も若者を舐めきっている。なので、

「選挙へ行こう」

舐められたらやりかえせ

この呼びかけは、若いみなさんの自律としての自由の行使と、後続世代への責任を喚起するものだと思う。。年をとる前にできることをしておこう。放っておいてもどのみち老いはやってくる。朝から寝るまで、ごくごく当たり前の日常の1コマ1コマが、自分の近未来とどうかかわっているのか、ググりまくってほしい。

この1票で変える、のではない。

「この1票で変わる」と思える社会を作り出すために。

著者プロフィール

北田暁大
きただ・あきひろ

東京大学准教授

1971年生まれ。東京大学大学院准教授。博士(社会情報学)。メディア論、社会学専攻。著書に『責任と正義』『嗤う日本のナショナリズム』などがある。『現代思想』12月号では「社会学にとって「アメリカ化」とは何か」というアメリカ社会学の歴史的考察を寄稿している。

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