ポリタス

  • 視点
  • illustrated by トヨクラタケル

【総選挙2014】代議制民主主義の欠陥を踏まえ、最大限の活用を

  • 長山靖生 (評論家)
  • 2014年12月14日


Photo by Dick Thomas JohnsonCC BY 2.0

解散総選挙は意義のためにするものではない

選挙のたびに「○○解散」といった名前が付けられる。今回も「アベノミクス解散」だの「今のうち解散」だのといわれているが、今回の解散総選挙に大義があるかを考えることにあまり意味がないし、タイトル付けはさらに意味がない。そもそも大義のための解散など、これまでにあったのだろうか。吉田内閣時代のバカヤロー解散は実にばかばかしいし、小泉郵政解散の非論理性、非倫理性は今回の比ではなかった。前回、野田内閣の解散総選挙も今回と似たり寄ったりで、どの政党も同じだという感が強まった。

政治が抱える課題は常に複雑で、防衛も外交も社会保障も曲がり角にきている——というような状況が少なくとも20年程度は続いている。あまりに曲がり角続きで、場当たり的にぐるぐる回って凌いでいるうちに、もはや自分たちがどこに向かおうとしているのか誰も分からない迷子状態の混迷のなかにいる。それを無理矢理に整理し、何らかの名前を付けることで意味を絞るかのような態度は、賛成にせよ反対にせよ実情を隠蔽する行為にほかならない。

「信を問う」といっても首相は自分の政策を通したいわけだから、議会で多数が占められると思った時点で解散をするのは当然だ

で、今回の解散に意義があるかというと、ここで勝負をするのが有利と感じる人々にとっては意義があり、そうでない人にとってはないのである。そもそも衆議院の解散は首相の専権事項であり、首相は信を問うために解散をするわけだが、「信を問う」といっても首相は自分の政策を通したいわけだから、議会で多数が占められると思った時点で解散をするのは当然だ。

私は別にニヒリズムでいっているのではない。代議制民主主義はそもそも絶対的な正しさを追求するシステムではなく、異なる意見の存在を前提とし、相互に矛盾する利害関係を調整して妥協を図るための制度であり、その努力が丹念に行われている時にはうまく機能していると評価すべきものにすぎない。それ以上を期待するのは甘えというより無思慮であり、妄想である。

「すぎない」といっても、相互に矛盾する利害を調整してバランスを取ること自体、結構な理想論だ。

小選挙区になって以来、一党の一人がちという結果が生じやすくなった。郵政選挙然り。民主党政権を生んだ前々回の総選挙然り。自民党に揺れ戻した前回然り。だが思うに、白紙委任状をわたせるほどの政党は存在しない。私の感覚では、与野党が伯仲し、議論を深めながら良識的な線でまとめていく折衷的政治が、日本には合っているように思う。だが現実には、選挙結果が一方的になってしまったために議論や政党間で妥協点を探る努力が蔑ろにされ、国会でも討論会でも与野党の主張は平行線をたどり、データの使用法までが客観性を欠いた恣意的引用に満ちている。どちらも相手の質問に正面から答えず、発言のほとんどは相手への批難か自己宣伝に費やされている。

問われるべきは、現在の内閣や各政党の政策といった目先のものばかりではなく、代議制民主主義の機能そのものだ

若者も高齢者も、富裕層も無業者も、自己の欲望を「公正」とみているのか

政治家だけの話ではない。われわれ有権者もまた、自分の立場からしかものを考えていない。

若者の選挙離れがいわれ、自分たちの不満をぶつけ、若者への配慮を促すためにも投票すべきだという意見をよく耳にするが、これは世代間エゴを前提にしている。

実際、中高年は年金問題や医療介護問題に敏感に反応し、子育て世代は教育問題に、若者層は少子化対策や就労支援に関心が高い。しかしそれは、世代間で考え方に違いがあることを意味せず、むしろどの世代も自分たちの立場しか見ていないことを示しているにすぎない。

経済格差も同様で、富裕層がより自由に経済利益を追求できる制度を望むのに対して、無業者や低所得層がセイフティーネットの充実や就労支援を望むのだとしたら、その切実さの程度はさておき、自己に有利な政策を支持する功利主義では同類といえる。

多くの市民は、自分の利益や可能性が損なわれるような政策を支持しない。しかもそれを不公正な態度とは考えていない。自分にとって優しい制度が、社会にとっていい制度だと考えている。あるいは、自分に対して優しい社会がいい社会だと思いがちだ。だが、それでいいのだろうか。

車の上に登って「自分はいい人だ」だの「あんなこともする、こんなこともする」という野心家のなかからしか自分たちの代表を選べない

支持したい政党、支持したい候補者がいないということは、もちろんろくな政党や候補者がいないということでもある。だいたい、車の上に登って「自分はいい人だ」だの「あんなこともする、こんなこともする」という野心家のなかからしか自分たちの代表を選べないのが、代議制民主主義の根本的欠陥だ。

だが、それだけでなく、われわれも自分が望む社会像は、実現不可能な強欲なものなのではないかと顧みる必要があるかもしれない。選挙は、政党や候補者を選ぶ行為であるばかりでなく、有権者が自分の政治的願望を選定し直す場でもある。車の上に乗らないだけで、われわれもけっこう図々しいのかもしれない。

一票の平等は大都市エゴではないか

公正な立場に絶って考えることの難しさを示しているひとつの事例に、「一票の格差」問題があると私は考えている。ここ数年、「一票の格差」をめぐる裁判で、現行の定数配分を違憲状態とする判決が相次いでいる。この判決に対して、メディアでは選挙制度改正を求める声が高く、「どの地域に住んでいても一票の重みを同等にするのが平等だ」という考え方を疑問視する声は聞こえない。

「一票の平等」に拘るなら、これら人口減少の大きな地域からは、将来も選出議員削減が続き、ますます国政に過疎地域の窮乏は伝わらなくなる恐れがある

たとえば「朝日新聞」2013年3月28日付朝刊には〈一票の格差「合憲」ゼロ〉との見出しが躍っていた。ところで同紙の同日一面トップには、国立社会保障・人口問題研究所が公表した「地域別将来推計人口」の話題が置かれていた。その予測によると、2040年には日本の人口は全国で16%減少するという。この二つの記事を続けて読むと、ある未来像が浮かび上がってくる。

同記事には〈高齢化 都市部で加速〉〈神奈川は1.6倍〉との見出しが付いていたが、ここにあるのは都市部重視の視線だ。現在、東京、神奈川の高齢化率は20%と比較的低いが、2040年に神奈川で35%になるという。だが現在、秋田では既に高齢化率30%島根29%となっており、都市部の将来を心配するなら、地方の現在をどう手当するかにもっと心が注がれてもよいと思われる。ちなみに2040年には北海道、青森、秋田、和歌山、徳島、高知の高齢化率は40%以上と推計されており、この間の人口減少率は、東京で7%、神奈川で8%にとどまるものの、秋田では36%、青森32%、高知30%とみられている。こうした地域では生活圏が崩壊する恐れがあるが、都市圏の生活者には、そうした過疎地域に対する認識は薄いのではないか。そして「一票の平等」に拘るなら、これら人口減少の大きな地域からは、将来も選出議員削減が続き、ますます国政に過疎地域の窮乏は伝わらなくなる恐れがある


Photo by Kiyonobu ItoCC BY 2.0

そもそも現在、「一票の平等」をめぐって選挙区の区割りに手直しが必要となっているのは、現行の区割りを決めた時点に比べて、過疎地域で人口減少が加速して有権者が減ったためなのだが、「一票の格差」を問題視して選挙の無効(やり直し)を求める弁護士グループの姿勢には、地域間格差拡大に対する認識は感じられない。

「一票の平等」は国民の基本的権利に関るものだが、地方切り捨てにつながる単純人口比例は絶対的に正しいのか、一考の余地がある。司法の判断によると、現行憲法の下では、2倍を超える格差は違憲状態と見做されるようだ。この開きにも、不満を持つ人はいるだろうが、私は2倍以内の格差は、むしろ過疎地域への配慮として許容されるべきという考え方もあるだろうと思う。そして将来、抜本的な選挙改革を行うなら(さらに憲法改正まで視野に入れて考えれば)、「国民の平等な権利」としての地域間格差縮小のために、人口密度の低い地域にも配慮した選挙制度(選挙に対する思想)を考える必要がある

具体的には、二院制を維持するなら、衆議院では人口比例(格差率2倍未満)での定数配分とする一方で、参議院は各都道府県代表として地域ごとに均等に配分した上で、より広域のブロックは人口比例で定数配分するといったような制度だ。

自分の弱者性だけでなく、他のタイプの弱者への想像を巡らせなければ、たぶん社会がよくなることはない。

著者プロフィール

長山靖生
ながやま・やすお

評論家

1962年茨城県生まれ。鶴見大学歯学部卒。歯学博士。地方で開業医の傍ら文筆活動を行なう。主著に『「世代」の正体』『バカに民主主義は無理なのか?』『日本SF精神史』(日本SF大賞、星雲賞)『偽史冒険世界』(大衆文学研究賞)『テロとユートピア』など。

広告