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【総選挙2014】国家と人間の「エゴイズム」――安倍政権私論

  • 先崎彰容 (東日本国際大学准教授)
  • 2014年12月9日


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1.「平和主義」と「国際協調主義」

今回の解散総選挙は、安倍総理自身が「アベノミクス解散」と名づけたように、経済政策の是非に争点は集中するでしょう。論点を国民に身近な経済一本にしぼる手法は、小泉郵政解散を思わせる光景ですが、私の関心は異なる点にあります。

それは集団的自衛権の閣議決定をめぐる問題です。これは他でもない、師走が終わるとしきりに耳にするであろう「終戦70年」の節目を意識しています。「戦後レジームからの脱却」を安倍政権が掲げている以上、この2年間の評価という近視眼的な見方だけでなく、もう少し長い時間を意識して、問題を考えたいのです。

今年7月の閣議決定で集団的自衛権の行使容認が騒ぎになっている頃、私は新聞には眼を通さず、ある文章を読んでいました。5月15日に有識者会議が提出した報告書「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会報告書」がそれです。一文が長く読みにくい文章を丹念に読み込んでゆくと、戦後の憲法解釈——特に第9条をめぐる基本的な歴史の復習ができるだけでなく、現在の国際環境についての有識者の考え方も理解することができます。

私が最重要だと思ったのは、報告書が憲法前文と第9条を関連づけて解釈している点です。憲法前文で謳われた「平和主義」が第9条を想起させることはもちろんです。一方で前文はつづけて「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と述べています。この文章を報告書は「国際協調主義」と名づけ、「平和主義」と「国際協調主義」の2つの精神によって日本国憲法は成り立っていると主張しているのです。

2.人間とは何か

私は確信しました。集団的自衛権の行使容認は、この「国際協調主義」、すなわち「自国のことのみに専念」することを止め、世界秩序の構築に積極的にうってでようとするものだ、と。総理がいう「国際協調主義に基づく積極的平和主義」とはこういう前提に成り立っているのだ、と気づいたのです。

そして脳裏をよぎったのは、これまで何回も繰り返し読んでいた思想家の文章——高坂正堯の言葉でした。そして国際政治史や憲法の専門家とはちがう重要な論点が、集団的自衛権の問題には含まれていることに、私は驚いたのです。報告書も政治史も憲法も、他ならぬ私たち人間が作ったのですから、その背後には必ず「人間とは何か」という問いが透けて見えてくる、こういう思いが激しく、私をとらえたのです。

3.「現実主義者の平和論」の核心

高坂正堯は国際政治学者です。私はまったくの専門外であり、彼の政治学者としての力量を云々することはできません。しかし彼の論壇デビュー作「現実主義者の平和論」(『海洋国家日本の構想』、中公クラシックス所収、2008年)にについて、次のような重要な示唆が含まれていることを、恐らく「保守派」の人も気づいていないのではないでしょうか。

高坂は自らを「現実主義者」だと宣言し、また一般的にも保守派の論客として見られています。しかし彼はこの文章で、論敵であるはずの「非武装中立論」にも評価すべき点がある、と言っています。それは彼らが、原爆投下の被害を受けた日本人の経験を「絶対的平和主義」という理念にまで高めたことです。

高坂は、非武装中立をかかげる知識人の平和主義こそ、最高度に評価されるべきだと主張しました。

例えば、高坂は次のように坂本義和の意見を肯定します「とくに、坂本氏がたんに原水爆一般の問題を論ずるのではなく、日本人にとっての核兵器の問題という、具体的・特殊的な問題を論ずるとき、すなわち、原爆体験を通じて学びとった原水爆に対する絶対的否定を国民的原理として説くとき、同氏の真骨頂が発揮される」(10頁)。

ここで高坂が、絶対平和論の側に立ち、憲法9条を肯定するのは「保守的」な思想家を思われるだけに、意外でしょう。

しかしそれは、私たちが「平和」とか「自由」という言葉を如何に道徳的に、無意識に「善」であると思い込んでいるかを象徴するものです。

私たち自身が、心のなかで無前提に平和=善であると思い込んでいる。だから高坂の主張を、本当の意味で理解できていないのです。

4.「日本」という立場

高坂は、次のように続けます「日本の外交は、たんに安全保障の獲得を目指すだけでなく、日本の価値を実現するような方法で、安全保障を獲得しなければならない」(12頁、強調先崎)。「中立それ自身最終的な目的ではない。絶対平和という日本国民の価値が実現されうるような国際秩序の達成への過程の一つとして、中立という手段がとられるかもしれないし、とられないかもしれない」(20頁、強調先崎)。

ここまで読んできて、私はがく然としたのです。それは国際政治を専門とする学者が、国家を語りながら、はからずも「人間」論を展開していることに、気づいたからでした。

これらの引用に、高坂の「平和主義」肯定の理由がはっきりと現れています。

平和主義はあくまでも日本の国益にとって資するような平和でなければならない

つまり高坂は、平和主義はあくまでも日本の国益にとって資するような平和でなければならない、日本の考える国際平和秩序を積極的に作らねばならない、こう言っているのです

これがほとんど、安倍政権での「積極的平和主義」に近い考え方であることは一目瞭然でしょう。高坂が、「絶対平和という日本国民の価値」あるいは「原水爆一般の問題を論ずるのではなく、日本人にとっての核兵器の問題」というとき、必ず彼は平和や核廃絶というスローガンを、日本人に固有のものと限定しているのです。

つまり国際社会で、日本人の考える「平和」を実現するように働きかけるべきであって、全人類に共通するような普遍的な平和を、一切語っていないことがポイントなのです。

5.国家・人間・エゴイズム

これはありていに言えば、国家としてのエゴイズムを貫徹せよ、こう言っていることになります。日本人の都合の良い国際社会にせよ、こう言っているようにも見えます。ここには、父高坂正顕が参加した戦前の「世界史の哲学」に通じる、問題意識があると断言できます。

では、この保守主義者は「エゴイスト」なのでしょうか。

私はそうは思いません。

高坂の議論を高く評価するであろう今回の「安保法制懇」メンバーも、また高坂を敵視するはずの当時の進歩派に近い考えの人々も、ともに指摘しなかった「私の高坂解釈」は次のようなものなのです。

高坂は、自らの主張する「絶対的平和主義」が、必ず「日本人」に固有のものであると限定をつけます。これは確かにエゴイズムです。

しかし私が考える最も野蛮な「人間」は、自らの考える正義・正しさを「普遍的」である、「絶対的」であると考える思考態度にあります。

自分の考えは正しい、この薬は絶対に効くのだから呑んでみよ、私の信仰している宗教は絶対に君のためになる、だから信じよ——こうした自己絶対化、自己普遍化こそ、私にはもっとも恐ろしく思われます

平和や教育を錦の御旗にして、自分流の哲学を風潮するのは、嫌という程日常生活で私たち自身が経験しているではありませんか。私たちの日々の周囲に転がっている、光景ではありませんか。

そのとき、「自らの主張する価値観は、エゴイズムである」という高坂の主張は、自己の限界を少なくとも意思している点において、きわめて自制的な論理です。

自己絶対化の倫理学と、自制する倫理学の決定的な差に、高坂は敏感です。平和はカギ括弧付きの「平和」、つまり自分の「エゴイズム」でしか、ありえない——少なくも、こうした自己反省を含んだ彼の議論は、安倍政権の「積極的平和主義」に理念として繰り込まれる必要があると、私は思うのです。

よってもし、安倍政権の「積極的平和主義」あるいは集団的自衛権の閣議決定を批判するのであれば、単に安倍政権を批判するだけではすみません。

正義とは何か、自己絶対化=普遍的な倫理を主張することは、暴力的ではないのか?

この「人間」にたいする問いを抜きにして、私のような思想・文学を学んでいる者が集団的自衛権を云々する理由はなく、また安倍政権を、そして来年騒ぎになるはずの「戦後70年」の是非を語るつもりは、絶対にありません。


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著者プロフィール

先崎彰容
せんざき・あきなか

東日本国際大学准教授

1975年生まれ。東京大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程単位取得終了。現在、福島県いわき市にある東日本国際大学准教授。この間、塾講師、フランス留学などを経験。専門は近代日本の思想・文学史。この国の課題を、「あえて」長期的な視点から見なおし、考える思想史の魅力に取り憑かれている。著書に『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)、『アフター・モダニティ—近代日本の思想と批評』(共著、北樹出版)。

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