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【総選挙2014】“自分ごと”にするために~1人1票からはじめる民主主義~

  • 浅利圭一郎 (記者・編集者)
  • 2014年12月12日


朝日新聞社提供

住む場所によって一票の価値が異なるという不条理

投票価値の較差は国政への政治力に地域間の差異をもたらすので、いずれの国民も平等に選挙権を行使できなければ、憲法前文にいう代表民主制に支えられた国民主権の原理は画餅に帰する
国政選挙の選挙区や定数の定め方については、投票価値の平等は、他に優先する唯一かつ絶対的な基準として真っ先に守られるべきもの

この国の憲法と国政の仕組みについて、社会科の授業などを思い返してみれば当然の理屈が、つい先日メディアを通じて少なからず話題になった。11月26日、全国の弁護士グループが中心となり提訴していた2013年参院選の「一票の格差」における最高裁判決文の一部である。

といっても、15名の最高裁裁判官の総意である法廷意見ではなく、そのうちの一人である山本庸幸裁判官の個別反対意見なのだから、率直に、この国の(代議制)民主主義は残念ながら始まってもおらず、相変わらず「憲法に保障されているはずの国民の権利」が与えられていない不条理が横たわり続けているのだ。

来たる12月14日投開票の衆院選における「一票の格差」は、先日総務省が発表した各地の有権者数をもとに算出すれば、宮城5区を「1」とした場合、東京1区では約0.47の価値しかない

成人になり、はじめて選挙権を手にして「一票」を投じたとき、多くの人は、この国の政(まつりごと)に参加しているんだという誇らしさと、社会の一員になった実感をかみしめるのではないだろうか。しかし、現状はといえば、住む場所によって国会議員が選出される有権者の数が著しく異なり、来たる12月14日投開票の衆院選における「一票の格差」は、先日総務省が発表した各地の有権者数をもとに算出すれば、宮城5区を「1」とした場合、東京1区では約0.47の価値しかない


© iStock.com

改めて、「国会議員は地域の代表ではない」

私が、この問題に帯同するようになって以来あちこちで問われ続けているのが、「地域によって格差があるのは仕方がないのでは? 地方と都会の1票の重みは違うでしょう。都会は人が多いから意見は通りやすいけど田舎はそうじゃないんだから、田舎の人には重みを与えるべき」というのものである。

そもそも論になってしまうが、国会議員は選挙区という仕組みで選出されていても、けっしてその地域の利益を誘導するために存在しているのではない。つい先日、ある記者と一票の問題を談義した際、相手が「自分は三重出身だけど、要は北海道選出だろうと三重を含めた全国についての決めごとを担うのが国会議員ですよね」とつぶやいた。まさにその通りなのだ。憲法に定められた「国会議員とは何か」について踏まえれば、ごく当たり前のこととはいえ、多くの有権者、そして議員自身も誤った思い込みにとらわれたまま長い時間を経てきたからこそ、多くの人が迷いもなく上のようなセリフを発するのではないか。

われわれ有権者は、選挙区選出の国会議員を選ぶ際、あくまで「国家の仕事をしてもらうために送り出すんだ」という意識を、いま一度肝に銘じる必要がある。

国家の仕事をしてもらう、全国民の代表を選ぶのだから、「一票の格差」などという、いかにも「(格差を)少しでも縮めていけば良い」といったニュアンスのある表現ではなくて、あくまで厳密な「一人一票」という投票価値の平等を目指さねばならない。すでに欧米諸国では"利害当事者"である国会議員自身に、人口比例に基づく選挙区割りに変えるのは難しいとして、司法が明確に断じることで、限りなく一人一票に近い投票価値の平等が実現している。「国家の決めごとを担う代表」を選ぶのだから、都会だろうと過疎地だろうと、人口比例に基づいて選出されなければいけないことは、妙な思い込みがない小学生の方がよほどすんなりと理解するだろう、という話にもうなずかざるを得ない。

「重要な局面ほど僅差で決まる」からこそ

翻って、われわれにできることは何か。日本国憲法には「国民審査」という、最高裁判事の信任・不信任を判断する機会がある。今回の衆院選と同時に行われる国民審査対象の判事は5名。そのうち、「一人一票でなければならない」と明言している、前述の山本庸幸判事と鬼丸かおる判事の2名は信任を示す無印、残りの3判事には不信任の「×」をつけることで一人一票は実現すると、NPO「一人一票実現国民会議」では意見広告やSNSなどのサイト、街頭でのティッシュ配りなどで、国民審査の用紙を模した明快な図とともに拡散している。

最高裁が"憲法の番人"として、政治的な影響を受けずに国会(議員)に断じるというのが、三権分立における司法と立法のありようである。国会議員の誰を選ぶことにばかり目が行きがちだが、選挙そのものが人口比例に基づいておらず違憲・違法であるなら、そのことを断じない“不作為の張本人”である最高裁判事にノーを突きつけようという、目からウロコともいえる攻めどころ。原告団の筆頭格として活動する伊藤真弁護士の表現を借りれば、「日本国憲法は、われわれ国民にとっておきの主権を与えてくれていた」という、まさに実効性と主体性を兼ね備えた貴重な主権行使の機会である。

立法が至らない場合、司法が断じるしかない。だから、その司法をつき動かす

これも、一本道で政治(の入り口)への参加になっていることは間違いない。

憲法違反の選挙で選ばれている国会議員や首相に正当性はない」と、原告団は一貫して主張する。本来憲法に基づいて統治・運営されているはずが、まったくもってそうなっていない。そして、司法も欺瞞の片棒を担いでしまっている。

その時々の政権に対してや政治の中身に関する意見は、言うまでもなく、それぞれに違って当然。しかし、いまは国会議員の後ろにいる有権者の数がでたらめ、つまり民主主義の核心である「多数決」に正当に参加できていない現実が厳然と横たわっている限り、思想信条をとわず、という次元の話なのだ。古今東西、重要な局面ほど僅差の多数決で決まり、それはほぼすべて、後世にとって抜き差しならぬ岐路になることは、歴史がいやというほど証明している。

だからこそ、正当なガバナンスを求めるべく、投票に行き国民審査で判断を示す。一人一票での選挙が実現しても、"本丸"の決めごとの入り口に立ったというだけにすぎないし、代議制である以上、実際の多数決は国会議員という代表者に託すしかない。例えば、お上にすべてを決められ、ひたすらそれに従うという選択をするにせよ、正当な多数決でなければ納得しようもないのではないか。どうあれ、われわれは「選択する」ことから逃れられないのだから。

著者プロフィール

浅利圭一郎
あさり・けいいちろう

記者・編集者

1975年生まれ、北海道出身。神戸新聞社、出版社などを経て2007年よりフリーランス。ライフワークは、一票の格差、発達障害とメンタル事象、LGBTとセクシャリティーなど。著書に『決めごとのきまりゴト 1人1票からはじめる民主主義』(旬報社)。 

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