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第二次安倍内閣で、安倍首相が成長戦略の柱の一つとして掲げていたのが「すべての女性が輝く社会」だ。
その改造内閣では過去最多の5人の女性閣僚が誕生し、さらに党三役の政調会長を入れれば6人となったのだが、彼女たちの思想や辞任問題などさまざまなニュースとなった。
そもそも「女性が輝く社会」というのは具体的なイメージがわきにくいし、「男性も女性も生きにくくない社会」を目指す方がよほどよいと思う。
マドンナ・ガールズ・シスターという女性政治家ブーム
さて「女性と政治」が話題になったのは、今に始まったことではない。
1980年代は「女の時代」と言われ、政治の世界でも「マドンナブーム」が起こっていた。
それは、今年亡くなった日本社会党(現在の日本社民党)委員長の土井たか子を中心に、「おたかさんブーム」とも呼ばれていた。
土井は1986年に日本社会党中央執行委員長に就任。女性で初めての社会党委員長であり、日本で初めての女性党首だった。1989年の参議院議員選挙で、土井たか子のもと社会党は多くの女性候補を擁し、彼女たちは「マドンナ」と呼ばれ、社会現象となるほどだった。
そして、社会党が改選議席の倍以上を獲得し、自民党は過半数割れ、さらに総理を辞任に追い込んだ。このとき彼女が語った「山が動いた」も流行語になったのだ。
さらに、女性政治家のブームはいくつか続いた。
2005年の衆議院選挙では、小泉純一郎人気から「小泉チルドレン」が多く当選し、女性議員の猪口邦子、片山さつき、佐藤ゆかりは「小泉シスターズ」と話題になった。
2009年の衆議院選挙では、小沢一郎は谷亮子を筆頭に、三宅雪子、福田衣里子、青木愛などの女性候補を多数擁立し当選させ、彼女たちは「小沢ガールズ」と呼ばれたのだ。
男に救えない世界は、女にだって救えない
これらは、ある意味では「困った時の女頼み」ともいえる現象でもあった。
社会学者上野千鶴子が1986年(マドンナブームすらまだ起こっていない)に刊行した『女は世界を救えるか』(勁草書房)で、上野は「男に救えない世界は、女にだって救えない」と語っているが、私もそう思う。
女にだけにそんな大荷物を渡されたって困るし、女と男で一緒に世界を救っていくしかないからだ。
それでもまだまだ現在の日本では女性議員が、圧倒的に少ない。衆議院ではわずか8%、参議院でも18%。世界の国会の女性議員比率は20%なので、日本は世界最低レベルなのである。
だからこそ、まず女性議員の数を増やすことが大事だ。
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女性活躍担当大臣という「改悪」
ここで改めて先の安倍内閣の女性政治家たちを見てみよう。まずは、「女性活躍担当大臣」。じつにセンスのないネーミングである。
これまで「男女共同参画担当大臣」という通称(正式名称は「内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)」)だったのに、こう「改悪」されたのには理由がある。
今回任命された有村治子大臣が、男女共同参画に否定的な「日本会議」のメンバーだからだ。
「男女共同参画」は保守派の嫌いな「男女平等」であり、「女性活躍」であれば女性の問題と男性の問題を切り離すことができる
「男女共同参画」と「女性活躍」は同じだと思うかもしれないが、「男女共同参画」は保守派の嫌いな「男女平等」であり、「女性活躍」であれば女性の問題と男性の問題を切り離すことができる。
日本会議のメンバーは、有村だけではなく、高市早苗総務大臣、山谷えり子拉致問題担当大臣もそうである。また稲田朋美政調会長も、男女共同参画に否定的な発言をしている。さらに残りの2人の女性閣僚が、政治資金をめぐる問題で辞任した小渕優子前経産相と、自身の選挙区で「うちわ」を配布していたとする問題で辞任した松島みどり前法相である。
女性閣僚のうち2人があっという間に辞任に追い込まれたことで、「女性活用政策」にケチがつき、また「女性なのに保守的で女性差別的だ」、「女性だからクリーンな政治をしてくれると思ったのに裏切られた」という声もきかれ、今回の解散の原因の一つにもなったと言われている。
「同じ女として」共感しなくてもいい
さてここからは何度も書いたり言ったりしていることなのだが、私は保守派の女性が増えることも、ある種の必然だと思っている。女だからといって、みなが「クリーンな政治」をして「女性差別を憎む」というわけでもない。それが女性の多様化である。権力志向で女性差別をする女性もいるし、男性だからといって、みなが権力志向で女性差別をするわけでもない。
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私は女性の多様化は支持するけれど、「保守派の女性を支持するか」と言われれば、まったく支持しない。女性の生き方が多様化するということは、「同じ女として」共感できる女性ばかりではなくなるということだ。
批判する時も、「同じ女として恥ずかしい」からではなく、「女性差別をする人間は、男だろうと女だろうと卑怯だから」批判する。さらに女性政治家であっても政策が対立するのは当たり前であり、それを「女の敵は女」と矮小化するのは、おやじメディア的発想である。
どんな女性であっても、すべての女性を代表できるわけではない
私は、今回の女性政治家たちが、「女性代表」という顔をすることには違和感を覚える一方で、革新やリベラル派の女性政治家こそが「女性代表」だとも思わない。どんな女性であっても、すべての女性を代表できるわけではないからだ。
多様化ということは、理解できないもの、共感できないものが増えるということであり、むりやり「同じ女として」の共通点を探す必要はない。そしてその方が女性にとっても、そして男性にとっても生きやすい社会になるのだ。
多様な価値を政治の場に持ち込むためには女性政治家を増やすことは大事だが、それはつまり多様な価値の女性政治家を増やすことでもあるのだ。
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